山賊王の身代金
エヴァンデルは、数日間の道中を共にして、セレーネ・アシュフォードという令嬢が予想以上に興味深い人物だと悟っていた。
ちょっとした沈黙を埋めるためだけに見せた彼女の小さな芸当が、思った以上に彼の心を惹きつけたらしい。
その感覚は、セレーネにとっても同じだった。
これまでのところ、彼の態度は至って常識的だった。
危険人物と評されることの多い彼が、なぜそう呼ばれるのか不思議に思うほどに。
剣の腕が立つだけではない。
会話を重ねるうちに、彼の興味が剣術だけでなく、地理や戦略、軍事運営を形作る各種の学問、さらには政治や社会全般にまで及んでいることが分かった。
「この行列の準備が進んでいる間に、少しだけアシュフォード領を見て回ったんだ」
ある日の午後、エヴァンデルがそう切り出した。
「人々の顔には安らぎと笑いがあった」
「そうですの?」
「ああ。肌で感じる熱気があった――直接、心を打たれるほどの。北部ではあまり見られない光景だ」
「きっと、そうでしょうね」
北部の厳しい土地は、交易で潤うアシュフォード領とは比べものにならない。
セレーネは、エヴァンデルがそのことを理解しているのを知っていた。
だからこそ、この先に本題があるのだと察した。
「ただ、中心部を離れると……思ったより貧しい人々が多かった。正直、意外だった」
「どういう意味で?」
「アシュフォード家の富なら、飢える者などいないと思っていた」
セレーネはすぐには答えなかった。
事実は、そう単純ではないからだ。
「南部の一部では、余った穀物を埋めたり、海に捨てたりするのをご存じですか? 倉に置く場所がないからです」
「珍しい話じゃない」エヴァンデルは答えた。
「領主や商人は、価格を維持するためにわざと生産を減らしたり、作物を処分したりする」
「北部では、人々はたった一個の芋を奪い合って殺し合うんですのよ」
セレーネは静かに言った。
エヴァンデルは眉をひそめ、窓の外に流れる黄金色の畑に目を向けた。
「毎年、何千という子どもが飢えで死んでいく。それを知っていて、生産を削ることを正当化できるのか?」
「耳障りな言い方ですが、貧民の飢えは市場価値にはならないんです」セレーネは答えた。
「むしろ、飢饉を武器として利用することすらあります」
「……冷酷だな」
「それが現実ですわ」
前世のどれにおいても、そう大きな差はなかった。
ただ、この世界では階級の溝がさらに深く、貴族が庶民の暮らしを思いやることは滅多にない。
「……本当に、救う方法はないのか?」
エヴァンデルの声には思案の色があった。
「貧困を完全になくすことは不可能ですわ」セレーネは言った。
「ですが……最低限の生活水準を引き上げることなら、できるかもしれません。少なくとも、子どもが飢え死にしない程度には」
「……理想論のように聞こえるな」
「今のところは」
彼女の言葉に、エヴァンデルは横目でじっと見つめ、興味深そうに目を細めた。
「“今のところ”か……時間が経てば可能になるとでも?」
「時間と、資源と、意志さえあれば」
セレーネは淡々と返した。
彼がさらに言葉を続けようとした、その時――
「止まれ!」
鋭い声が響き、馬車が急停車した。
エヴァンデルの表情は瞬時に冷たくなり、手元の剣に手を伸ばす。
その瞳には苛立ちの色が宿っていた。
護衛の騎士が窓際に駆け寄る。
「失礼します、閣下」
「何事だ?」
「……山賊です」
セレーネとエヴァンデルは視線を交わした。
「山賊ですって?」
「ああ」
エヴァンデルは眉を上げた。
「中央部の山賊は、自殺願望でもあるのか?」
「……そのようですわね」セレーネが低くつぶやいた。
セレーネは思った。――これで何度目だろう。
外から見れば、自分たちの行列がいかに馬鹿げて大きく見えるかを。
幾十台もの荷馬車が、まるで民族大移動のように延々と続き、軋む音を響かせながら進んでいく。
護衛もまた壮観だった。
小規模な辺境領など一瞬で威圧できるほどの騎士と兵士の隊列。
しかも全員が、徴兵兵とは比べものにならないほど整った武具で武装している。
極めつけは、風にはためくマイエル家の紋章旗。
――こんな行列を止める者がいるだろうか?
「ワーハッハッハ! 持ってる物を全部置いていけ! 下着までだ! そうすりゃ、この山賊王ダリル様が命だけは助けてやる!」
「ウオオオオッ!」
……どうやら、正気ではない者がいたらしい。
セレーネは、これをあの馬鹿げた“遭遇イベント”の一つだと分類するしかなかった。
この世界が元々“ゲーム”であった名残――理屈も何もないのに、なぜか発生してしまう現象。
それは、彼女自身の奇妙な加護にも似ていた。
――どんなことがあっても、三年間は死なないという加護に。
「山賊王ダリル」。
中央領を活動拠点にしていれば、遅かれ早かれ必ず遭遇するイベントだった。
「愚か者ダリル……」彼女は小さくつぶやいた。
「有名な犯罪者か?」向かいに座るエヴァンデルが片眉を上げる。
「ええ。中央領を通る商人たちにとっては天敵ですわ。うちのアシュフォード商隊も被害を受けたことがあります」
「君の所もか?」エヴァンデルの目がわずかに見開かれる。
セレーネは頷いた。
「活動を始めてまだ一年も経っていませんが、すでに帝国の指名手配犯です。中規模領の騎士団を単独で壊滅させるとも言われています」
――それが事実であることを、彼女は過去の“周回”で確認済みだ。
ゲーム的に言えば、ダリルの戦闘能力は高位級。
小領地の騎士団長なら容易く打ち破るだけの力を持っていた。
多くの騎士団が彼を侮り、結果として徹底的に叩きのめされて退散している。
とはいえ、彼は滅多に殺しはせず、地元領主たちも面子を守るために黙殺してきた。
今回は、おそらく調子に乗りすぎたのだろう。
もしアシュフォード商隊だけだったなら、本格的な戦闘になっていたかもしれない。
――だが今回は、エヴァンデルがいる。
人間兵器。
魔物狩り。
冷血の北の領主。
……要するに、ダリルは相手を間違えた。
エヴァンデルは立ち上がり、口元にうっすらと笑みを浮かべる。
「俺が片づけよう」
「じゃあ、ここで待ってますわ」セレーネは、“気をつけて”などとは一切言わなかった。
その無関心ぶりにエヴァンデルは苦笑し、馬車を降りていく。
――そして、セレーネが見たのは予想外の光景だった。
あの巨体を誇る山賊王ダリルが、額を土に擦りつけてひざまずいている。
「降参だ! 降参しますぅうう!」
「……まだ生きているのね」セレーネは淡々と問う。
「殺す理由がない」エヴァンデルは肩をすくめる。
「山賊でしょう」
「だが、奴らには掟がある。通行料は取るが、旅人は解放する。討伐に来た騎士団ですら、武装を解除して帰すだけだ」
「……争いの拡大を避けるための戦術に聞こえますわね」
「さあな。そこまで考えているとは思えんが」エヴァンデルは口の端を上げた。
「へへっ、その通り!」地面に這いつくばったまま、ダリルがやけに嬉しそうな声を上げる。
セレーネは無視した。
「それで、どうするおつもり?」
「北部では、罪人部隊を使って刑期を労働で償わせる制度がある」
「ここは中央領ですわよ」セレーネが指摘する。
エヴァンデルは「だから何だ」と言わんばかりに肩をすくめた。
「わざわざ都まで賞金を受け取りに行く気はないし……全員ここで斬り捨てるのも、後味が悪い」
“斬り捨てる”という言葉に、山賊たちが一斉に肩を震わせる。
「では――彼は私に預けていただけます? 北部に着いたら、ちょうど良い護衛になりますわ」
エヴァンデルの視線がダリルに向く。
「……本気か?」
セレーネは頷いた。
使える駒を逃すつもりは毛頭ない。
「光栄ですぜ、姐御!」
ダリルは勢いよくひざのまま回転し、額で地面に半円を描いた。
セレーネは笑みを押し隠し、エヴァンデルは――周囲が狂人だらけだと言わんばかりの表情をしていた。