出立
「婚約破棄の件は、もう心配いらん。」
いかにもギデオンらしい言葉だった。
事務処理の手際は、相変わらず見事というほかない。
なにしろ、あの大広間で侯爵家のエイドリアンが婚約破棄を宣言したのだ。
後始末は容易ではなかったはずだ。
どんな手を使ったのかは分からないが、物資の準備にかかるわずかな日数で侯爵家を黙らせたのだから、その腕前は相当なものだと知れる。
「さて……婚約の件だが――」
珍しくギデオンが言葉を濁し、そっと視線をエヴァンデルへ向けた。
エヴァンデルは茶を口にしながら、どこ吹く風といった笑みを浮かべている。
「どうぞ、遠慮なくお話しください、お義父様。」
「――ごほっ。」
同時に、セレーネとギデオンの喉が鳴った。
婚約はまだ正式でもないのに、もう「お義父様」呼ばわりである。
普段ならギデオンも眉をひそめたところだが……相手は大公家の嫡子。しかも、噛みつかれそうな気配を漂わせている。わざわざ指摘するほど愚かではない。
――応接室での一件は耳に入っているのだろう。
首の傷は霊薬で跡形もなく治ったが、飛び散った血まで隠すことはできない。きっと使用人たちが報告したに違いない。
面談に居合わせたのはセレーネとエヴァンデルだけだが、ギデオンもその狂気の性質は察しているはずだ。
澄んだ目をした狂人――そう表すのが最も近い、とセレーネは思う。
「今さらかもしれんが……大公殿下の許可を得ずに進めてしまって、本当に構わぬのか?」
「ご心配はもっともですが、この件はどうか私をお信じください。」
言うが早いか、エヴァンデルはセレーネの手を取った。
もう一方の手で口元を覆い、上品な笑みを浮かべる。
セレーネは反射的に引こうとしたが、指先が強く絡め取られ、逃げるなと無言で告げられた。
「お恥ずかしい話ですが……私はすっかり、セレーネ嬢に心奪われてしまいました。北では、欲しい相手を手に入れるのが男の甲斐性とされております。」
「……そうですか。」
だが、その場にいた誰ひとりとして、言葉を真に受けた者はいなかった。
セレーネももちろんだ。
先ほどのやり取りで、彼はアシュフォード家から取れるものをすべて搾り取ったのだ。交渉慣れしたギデオンですら、額に汗を浮かべていたほどである。
――先は長い道のりになりそうだ。
すでに屋敷の外には、彼の護衛である大軍勢が野営を敷いていた。
領内に入れれば、小国ひとつを踏み潰しかねない規模だ。
そこに、食糧や物資を満載した荷馬車の列が加われば、まるで出征軍である。
「周辺領にはあらかじめ書状を送っておいた。」
武装集団が通れば、領主たちは警戒する。事前の根回しは当然だ。
中央貴族たちもすでに、セレーネの北方行きを知らされているだろう。
彼らにとっては青天の霹靂だ。
長らく結婚相手が噂の的だったエヴァンデルの許嫁が、よりによって大陸一の富豪アシュフォード家の娘と知れ渡ったのだから。
静かに続けられてきた兵糧と軍需の締め付けも、これで大きく緩むに違いない。
中央の連中にとって、この縁談は何としても潰したいはず――それは、こちらも百も承知だ。
「感謝いたします。事情が事情ですので、婚約式は控えます。大公領に着き次第、殿下に直接お話しして返事をお送りします。」
「そうしてくれ。出立はいつだ?」
「できればこのまま。すでに日程は遅れていますので。」
「分かった。これ以上引き留めても失礼だろう。」
表には出さぬが、ギデオンは明らかにこの男を遠ざけたがっていた。
セレーネも、その気持ちは痛いほど分かる。
「セレーネ。」
「はい、お父さま。」
「……我が家の名を汚すな。」
「肝に銘じます。」
ギデオンはそう言い残し、部屋を後にした。
セレーネも立ち上がろうとしたところ――
「続きを馬車で話そう。」と、エヴァンデル。
「……私と同乗されるおつもりで?」
「無論だ。」
「……承知しました。」
反応を面白がるように、彼は小さく笑った。
セレーネは再び手を振りほどこうとしたが、握りは解かれない。
「三つ目の条件は、もう忘れたのですか?」
「承諾した覚えはない。」
「では、婚約は白紙に。」
「……ほう。」
次の瞬間、彼の影が迫った。
剣聖に迫る身のこなし――一瞬で距離を詰められ、頬にかかる吐息に背筋が強張る。
すぐに身を引くと、彼は追わずに首を傾げた。
「……何です?」
「妙だなと思って。これまでの女は皆、私に抱かれたがった。」
「……今も生きているのは?」
「半分弱、だろうな。」
真顔で言い、視線を天井に向ける。
言外の意味は明白だ。
「そんな相手に――?」
「婚約者は別だ。」
「政略結婚にすぎません。」
その瞳に一瞬、重い影が差した。
背筋を冷たいものが走る。
「……私が嫌いか?」
「そ、そんなことはありません!」
「ふむ。」
「これほど美しく、有能なお方と結ばれるなど……夢にも思いませんでした。」
「その言葉、気に入った。もっと聞かせろ。」
まだ足りないとばかりに、彼の指が小さく動く。
セレーネは必死に記憶を掘り起こし、聞き覚えのある美辞麗句を並べた。
「若くして北方騎士団長、帝国の盾となられ……配下の方々からも、深く敬われておられる。」
「ほう、なぜそう思う?」
「皆が殿の命に一切の迷いなく従っているのを見れば、一目瞭然です。」
それは心からの言葉だった。
伯爵領に乗り込んで騒ぎを起こしても、誰ひとり不満を漏らさない。
あの規律の高さは、血筋だけで得られるものではない。
……単なる悪役ではない、か。
戦の裏から見れば、英雄もまた敵国にとっては鬼である。
「その鎧も、よくお似合いです。」
「そこまでだ。」
「……ふぅ。」
「続きは馬車で聞こう。」
不満げな顔を大げさに見せると、エヴァンデルは小さく笑い、すっと立ち上がった。
会話が終わったことに、セレーネは内心ほっとしながらその背を追った。
***
「それでは出発いたします」
護衛隊長の報告に、エヴァンデルが頷く。
「任せる」
「承知」
副将格の一人、マーティンは恭しく一礼し、無言で馬車の扉を閉めた。
次の瞬間、鋭く伸びやかなラッパの音が響き渡り、北方へ向かう大行列がゆっくりと動き出す。
鞭の音、馬の嘶き、車輪のきしむ音が重なり合い、空気はざわめきに満ちていった。
だが馬車の中だけは、静まり返っていた。
エヴァンデルは窓の外に視線を向けたまま、口を開かない。
先に話し出そうとしない彼に倣い、セレーネもまた黙していた。
その沈黙が、彼女には少々長く感じられた。
やがて、堪えきれず口を開く。
「……あはは。こうして黙って座ってると気まずいですね。何か面白いものをご覧になりますか?」
「面白いもの?」エヴァンデルがわずかに首を傾ける。
「驚かないでくださいね。――サラマンダー」
その瞬間、セレーネの掌に炎が集まり、小さな蜥蜴の姿へと形を変えた。
現れた精霊は、すぐに彼女の手に頭を擦り寄せる。
そして主の意を感じ取るや、くるりと首を巡らせエヴァンデルを見据えた。
――キィ? キィヨッ!
鼻先から熱い息を吐き、鮮やかな黄の炎を噴き上げる。
「精霊が実体化するとは……」エヴァンデルの目が見開かれる。
「初めてご覧になります?」
「当然だ」
無理もない。精霊術は元々希少であり、北方では魔法や神秘よりも武を尊ぶ傾向が強い。
エヴァンデルは、まるで少年のように瞳を輝かせ、あらゆる角度からサラマンダーを観察し始めた。
その様子が、セレーネには少し可愛らしく思えた。
かつて大道芸で日銭を稼いでいた頃を思い出し、彼女は小さく指令を送る。
――キィヨ!
精霊は勢いよく天井へ向かって火炎を吐いた。
もちろん、馬車を傷つけぬよう温度は抑えてある。
さらに魔力で炎を凝縮させ、真円の火球へと変える。
サラマンダーは二本足で立ち上がり、その火球を器用にジャグリングし始めた。
「……!」
エヴァンデルの口が驚きに開く。
稀有な光景を目にした者の顔だった。
その反応が嬉しくて、セレーネはしばらく芸を続けた。
こうして、馬車の中は小さなサーカスの舞台となり――北への長い旅路は、冷たい沈黙ではなく、炎の灯りが揺らめく温もりの中で幕を開けた。