惜しみない持参金を
アシュフォード家は、裕福であった。
誇張ではなく、その金庫は溢れかえっているとさえ言えた。
大陸最大の商業同盟を牛耳る家なのだから、それも当然である。
十数年前まで、ギデオン・アシュフォードは一介の準男爵に過ぎなかった――統一戦争の前までは。
だが、戦の最中、彼はどれほど辺鄙な地であろうと、敵地であろうと、必要な物資を必ず届けた。
それゆえ、彼とアシュフォード商会の名は歴戦の将兵の間で伝説のように語られることになった。
皇帝陛下からもその功を認められ、ついには伯爵位を賜ったほどである。
だが、ギデオンという男は、それだけで満足する器ではなかった。
「金で爵位を買った成り上がり」
古くからの貴族たちは、陰でそう嘲った。
もとより、アシュフォード家は平民から身を起こした新興の家である。
ギデオンが旧家に抱く感情は、羨望と憧れ、そして劣等感が入り混じった複雑なものだった。
だからこそ、セレーネをエイドリアンに嫁がせようと必死になったのである。
商人は情報を集める術に長けている。
それなくして富の流れを掴むことなどできはしない。
思えば、ギデオンは当初からエイドリアンの愛人の存在を知っていたのだろう。
むしろそれを交渉材料にして縁談を成立させた節すらある。
しかし、彼は一つだけ読み誤った。
エイドリアンという男の甘やかされぶりと、放蕩ぶりを。
結果、婚約は舞踏会で無惨に破談となった。
そんな状況で現れたエヴァンデルは、ギデオンにとってまさに救いの手であった。
価値が地に落ちた娘を、再び「商品」として輝かせる好機。
しかも相手が侯爵家の跡継ぎではなく、大公家の御曹司ともなれば――。
それは、アシュフォード家が帝室の血統の一部となるということだ。
この話を逃す手はない。
もちろん、中枢と北方の関係は決して良好ではない。
毒杯となる可能性も十分にある。
だが、大陸随一の商会を率いる者にとって、北方への交易路を開くかもしれないこの縁は、危険を冒してでも手に入れる価値があった。
「……セレーネ」
「はい」
低く響く声が、セレーネを思考の海から引き戻す。
父の視線を、彼女は正面から受け止めた。
「随分と成長したな。……お前らしくもない」
「ありがとうございます」
褒め言葉すら棘を含む。
言いたいことは山ほどあったが、セレーネは飲み込み、良い印象を残すことを優先した。
「もう下がってよい」
「お父様」
「若君とは私が直接話そう」
苛立ちが胸の奥で膨らむ。
初めから、自分を話し合いの場から外すつもりなのだ。
「まず、私とお話しになってはいかがですか」
「私の寛容にも限りがある」
そう来るか。
かつてのセレーネなら、先ほどの褒め言葉に感謝して頭を下げていただろう。
だが今は違う。
(交渉の主体は私。商品として並べられるだけの人生は、もう御免だ。)
何度も、誰かの操り人形として生きた過去は捨てた。
「お父様、勘違いをなさっているわ。エヴァンデル様はアシュフォードの名など気にしていない。彼が見ているのは……私、セレーネよ」
「……何だと?」
伯爵の眉がわずかに動く。
「彼は私に夢中なの。舞踏会を抜け出してまで追って来たのよ。姓がアシュフォードだろうと、アシェンフォードだろうと構わない」
「はっ、馬鹿げた。北方は物資が不足している。お前を利用するつもりに決まっている」
「……それも一理ありますわ」
「それが全てだ」
父の声は断定的で、娘の魅力など信じていないことが露骨だった。
「若君が本当に求めているのは、アシュフォード家の情報網と補給線……それだけだ」
「よくもそんなに自信満々に」
「真実だからな」
さすがは大陸最大の商会を束ねる男だ。
エヴァンデルの行動の政治的意味を、瞬時に見抜いている。
だが、父には知らぬことが二つあった。
――エヴァンデルは、決して凡庸な男ではない。
――そして、セレーネもまた、かつての彼が知る娘ではなかった。
[葉擦れ、風の囁きよ、一時の抱擁を我に与えよ。]
突如、執務室に烈風が吹き込んだ。
紙束が宙を舞い、本は勝手に開かれ、ページが激しく捲られる。
ギデオンの髪も、荒れ狂う風に乱された。
「……精霊術か」
「ちょっとした芸ですよ」
セレーネは淡く微笑み、開いた掌に風を集めた。
殺意がないことを悟ったのか、ギデオンは黙って見ている。
「見事だが……それで若君に涼しい風でも送るつもりか?」
「まあ、ある意味では間違っていません」
「……何だと?」
セレーネの指先がわずかに動く。
風は凝縮し、唇の形を取った。
そして――彼女以外の声を紡ぎ出す。
『才があるのは認めます。ですが、結婚とは話が別です』
『父上は、好きな相手を選べと言った』
『あれは、長年求婚をすべて断ってきた団長に呆れ果てた末の言葉でしょう!』
セレーネが拳を握ると、風は一瞬で散った。
偶然の思いつきだったが、効果は十分だった。
「……面白い」
説明など不要だ。
ギデオンはすでに、その価値を理解していた。
顎を撫でながら、何やら思案に沈む。
「若君は知っているのか?」
セレーネの唇がわずかに弧を描く。
「もちろん」
無論、エヴァンデルが風の精霊を操れることを知っているはずもないし、詳しく語るつもりもない。
「その芸は、アシュフォードの名以上の価値があると?」
「場合によるでしょうね」
「術の射程は? 魔力感知に引っかかるのか? いや、それよりいつから使えるように……」
「父上、一つずつお願いします」
ギデオン・アシュフォードの喉から、苛立ちを含んだ咳が漏れる。
私的な会話を盗み聞きされるかもしれない――その想像だけで、落ち着かないのだろう。
これは決して戯れの技ではない。
あまりにも危険すぎる。
前世の情報局で、この術を扱えた者は帝国全土で二人だけ。
その一人がセレーネだった。
その才能ゆえ特別な待遇を受けたが、最後には命を奪われた。
「今、北方と中央の関係は、いつ戦火が上がってもおかしくないほどに緊張している。陛下も北方の台頭を警戒してはいるが、そう易々と手を打つこともできぬ。もし北壁の向こうの魔物が南下すれば、帝国は大きな危機を迎えるだろう」
「……続けて」
「その陛下の慎重さを利用し、北方との補給線を断つ奸臣がいる。結果、北方の民は飢え、凍えて死に、中央貴族への憎悪は深まる一方だ。悪循環です」
「それを、お前が解決できると?」
「いいえ」
セレーネは首を横に振った。
一人の力で覆せる流れではない。
「ですが、私の術があれば、北方に潜む中央の密偵を暴き出せます。それこそが、エヴァンデル様が私に求めているものです」
「戦を起こす気か」
「商人にとっては、一世一代の好機では?」
今度の父の視線には、冷ややかな拒絶ではなく、警戒と興味が入り混じっていた。
「言葉には気をつけろ」
「気をつけています」
「随分と自由な物言いだな」
「家族に隠し事などありませんわ」
わざと「家族」という言葉に力を込めると、伯爵の口元がわずかに動く。
その響きが、どうにも面白いらしい。
「望みを言え」
「惜しみない持参金を」
「大公が喜ぶ品を探さねばな」
短くそう告げ、ギデオンは背を向けた。
退室せよ、という合図だ。
セレーネはそれ以上追及せず、静かに部屋を出た。
***
「……見事だ」
机の上で、ギデオンの指が規則正しく音を刻む。
つい先ほどまで娘が立っていた場所を、じっと見つめながら。
(あの力を、ずっと隠していたのか?)
口には出さない。
だが、あの風の精霊術に対抗できる術は、今のところ存在しない。
それが、この上なく危うい。
(まさか……あの婚約破棄すら計算のうちだったのか?)
エヴァンデルといつ出会ったのか分からない。
それが分からぬ以上、計画の始まりも読み切れない。
一つだけ確かなのは――今のセレーネは、かつて知っていた娘とは別人だということ。
(まるで……悪魔に魂を売ったようだ)
黒き魔術の中には、魂を差し出して悪魔を身に宿すものもある。
もっとも、今回はそうではないだろう。
だが、たとえそうであったとしても構わなかった。
今の彼女がもたらす利益は、過去の何倍にもなる。
(北方への交易路が開ければ……!)
北方は文化的にも閉ざされ、同じ帝国とは思えぬほど隔絶している。
大陸最大を誇るアシュフォード商会ですら、ほとんど手を出せなかった。
だが、セレーネが大公家の跡継ぎと婚約すれば――その縁を足掛かりに道を切り拓ける。
そうなれば、アシュフォードの名はさらに高みへと昇る。
(乗ってやろう)
真の商人とは、利益のためなら魂すら売るもの。
ならば、危うい綱渡りなど、造作もない。
(……失望させるなよ、セレーネ)
伯爵の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。