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良い知らせと悪い知らせ

セレーネとの短い対話を終えた頃には、すでに宿へ戻るには遅すぎた。


ゆえにエヴァンデル・マイエルはアシュフォード家の用意した客間に留まり、灯火のもとで静かに思案を巡らせていた。


その傍らで、ずっと控えていた従者のマルティンが、ようやく口を開いた。


「団長……本気でおっしゃっていたのですか?」


「当然だ。冗談を言うような男に見えるか?」


はあ……。


マルティンは遠慮もせずに深く溜息を吐いた。


そして今度は、幾分真剣な声音で言葉を継ぐ。


「セレーネ・アシュフォード嬢について、少し調べました。……ご婚約者としては、あまりに不適格です」


「理由は?」


「評価は一様です。『アシュフォード家の落ちこぼれ』とまで言われている。兄姉と比べられて常に劣り、唯一の美点とされているのは“付き合う相手を選んでいる”ということくらいですが、それすらも臆病ゆえとみなされているようです」


くくっ。


エヴァンデルは思わず吹き出した。


自分の目で見た彼女の姿と、この世間の評価との乖離が、あまりに滑稽だったのだ。


「剣先に自らの喉を押し当てるような娘が、臆病とな?」


「無謀な虚勢かもしれません」


「本当にそう思うか?」


ピリッ。


空気が張り詰めた。


マルティンは条件反射のように半歩退いた。


殺気だ。


エヴァンデルの放つ気にさらされたマルティンの背には冷たい汗がにじむ。


やがてエヴァンデルは手を軽く払って気配を収め、ゆっくりと笑みを浮かべながらマルティンを見やった。


「北方で鍛えられたお前ですら堪えられない。……あれが本当に噂どおりの臆病者なら、とっくに気絶していてもおかしくなかったはずだ」


彼は冗談を言っているのではなかった。


過去、幾人もの傲慢な貴族や戦士たちが、彼の気配に怯え、あるいは膝をついた。


だがセレーネは違った。


怯まず、顔色一つ変えず、正面からその視線を受け止めたのだ。


「……つまり、ずっと力を隠していた、と?」


「確実にな」


「霊術を使えることすら、家族も知らなかったようです。剣の腕もあるとお考えで?」


「ある」


エヴァンデルの声には確信が宿っていた。


マルティンの目が見開かれる。


彼が人を褒めることなど、ほとんどなかった。


それどころか、“並”と評すらめったにない。


そんな彼が剣術の才を認めたというのだ。


「アシュフォード家の後継すら狙えたはずの実力だ。……にもかかわらず、なぜ隠す?」


「……家の中で目立てば、狙われると悟っていたのでは?」


マルティンはそう言いながら、ゆっくりと頷いた。


セレーネはアシュフォード家の末娘。


兄姉は皆優秀で、序列も固まっている。


ならば――


「何より驚いたのはな。あの娘、私の名を呼んだのだ」


「……は?」


「初対面だぞ。私は北方でしか顔を見せていない。帝都の公の場に姿を現したことは、一度もない」


マルティンの顔色が変わった。


エヴァンデルの存在を知る者は少ない。


顔を見た者など、北の騎士団の者たちくらいのものだ。


それにもかかわらず、彼女は迷いなく“エヴァンデル・マイエル”と呼んだ。


「彼女は――私のことを、よく知っていた」


「……意図的に近づいてきた、可能性も?」


「それも考えたが……どうにも反応が違った。むしろ、逃げたがっていたように見えた」


「つまり、団長の本性をご存じだった……と」


「それはどういう意味だ?」


エヴァンデルの目が細くなる。


マルティンは視線を逸らし、話をそらすように呟く。


「……まさかとは思いますが、諜報部の人間という可能性は?」


「帝国影衛か」


エヴァンデルは難しい顔で呟いた。


その存在は知られているが、実態は霧の中だ。


誰が所属しているのか、男か女か、どうやって選ばれるのかすら、判然としない。


家族ですら知らぬという噂もある。


「もし、あの娘が影衛の一員なら、すべてに説明がつく。……事前に掴んでいたのか?」


「いいや。まったく知らなかった」


「それで、なぜ婚約者に……?」


くいっ、とエヴァンデルの口元が上がった。


「最初は疑っていた。だが、話せば話すほど、影衛らしからぬのだ」


「なぜですか?」


「目立ちすぎる」


「……は?」


マルティンは瞬きを繰り返した。


エヴァンデルは肩をすくめる。


「私の偏見かもしれんが……今まで会ってきた影衛の人間は、総じて“普通”だった。農民のような者もいれば、書記官のような者もいたが、どれも記憶に残らない者ばかりだった」


マルティンも頷く。


確かに、北方に送り込まれていた影衛の密偵たちも、皆目立たぬ者ばかりだった。


だが、セレーネ・アシュフォードは――あまりに異質だった。


「もちろん、今の影衛が変わった可能性もある。だが……」


「だが?」


「……違う気がしてならんのだ。感覚の話になるが、彼女はあまりに“境界”に立っている。そうかと思えば、そうでもない。……初めてだ、こんなに判断がつかない相手は」


「……団長」


マルティンは頭痛を覚えた。


この武に狂った貴族を、どうすれば政争の渦に投げ込まずに済むのか。


そしてこの一連の事情を、どう大公に説明すればいいのか。


「……才があるのは認めます。ですが、結婚とは話が別です」


「父上は、好きな相手を選べと言った」


「……あれは、長年求婚をすべて断ってきた団長に呆れ果てた末の言葉でしょう!」


はっきり覚えている。


「いっそ勝手に嫁を選べ!」と叫んだ大公の顔を。


まさか、本当に選んでくるとは思ってもみなかっただろう。


……はあ。


楽しげに微笑み続けるエヴァンデルの横顔を見て、マルティンはもう一度、深く長い溜息を吐いた。


***


「……セレーネ、か」


エヴァンデル・マイエルとの会話を終えた後、セレーネはその足でまっすぐアシュフォード伯爵家の執務室へと向かった。


この肉体の生みの親、ギデオン・アシュフォード伯のもとへ。


夜も更けていたが、ここまで事がこじれた以上、いずれ向き合わねばならぬ相手ならば、早いほうが良いと判断したのだ。


「父上、お目通りを賜りたく、参上仕りました」


深々と頭を下げ、形式ばった挨拶を口にする。


「ふむ」


ギデオン伯は、どこか興味なさげな目つきでセレーネを一瞥した。


それは娘を見る父の眼差しというより、まるで商品を値踏みする商人のそれだった。


(演技など不要、か)


セレーネがこの身に宿る前、元のセレーネであれば、この場所に自ら足を運ぶことなどありえなかった。


まして、この男と正面から視線を交わすことすら恐れていた。


家の中で常に“失望”の烙印を押されてきた彼女にとって、ギデオンという男は血縁よりも合理と実利を重んじる存在だった。


幾度となく繰り返された人生の中で、セレーネはその事実を何度も確認してきた。


そもそも、婚約破棄が決まってからというもの、彼女は家族とすら見なされていなかった。


本来ならば、その疎外を好機ととらえ、身を潜めて自由に生きるつもりだった。


(――だが、予定が変わった)


つい先ほど、彼女はエヴァンデル・マイエルと契約を結んだ。


きっかけは彼の一方的な押しつけだったが、交渉の末、セレーネも自分なりの得を引き出すことに成功した。


だが――婚約という形式をとる以上、“ただのセレーネ”では不十分だ。


アシュフォード家の名、その後ろ盾が必要だった。


なにしろ相手は、北方の大公の嫡子なのだ。


最低限、釣り合うだけの格式が求められる。


「……で、用件は?」


ギデオンが平坦な声で問う。


「良い報せと、悪い報せがございます。どちらからお聞きになりますか?」


まずは“価値”を取り戻さねばならなかった。


かつて婚約破棄で地に落ちたセレーネ・アシュフォードという名の、市場価値を。


「……取引を持ちかけに来たのか」


伯爵の声には、氷のような冷たさが滲んでいた。


歯の根が合わぬほどの威圧感――それでも、セレーネは微笑みを崩さなかった。


「まさか。厳格な父上を少しでも和ませようと、末娘の軽口と思っていただければ」


返事はなかったが、ギデオンの瞳にわずかな興味が灯るのを彼女は見逃さなかった。


彼は逃げ腰の相手より、真正面から切り込んでくる者に弱い。


“攻め”は、正解だ。


「……では、良い報せとやらを聞こう」


セレーネの唇がわずかに持ち上がる。


「エイドリアン・メリヴェイルとの婚約を破棄しました」


「……耳にしている。決闘までしたそうだな」


「はい。事実です」


その瞬間、ギデオンの眉がぴくりと動いた。


この男にしては、珍しく露骨な苛立ちの兆しだった。


「それが“良い報せ”とは……笑わせる」


「それ以上の相手が見つかりましたので」


「……まさか、大公の息子などと言うつもりではあるまいな」


「まさしく、その“まさか”です」


にやり、とセレーネは唇の端を吊り上げた。


ギデオンは呆れたように鼻を鳴らす。


「……信じろと言うのか?」


「父上に虚言を申すような娘に、私は見えますか?」


「……妙に大胆になったものだな」


「魅力の一部と思っていただければ」


「ちっ……」


乾いた舌打ちが返ってきた。


ギデオンは身を少し引きながら、興味半分、冷笑半分の視線を投げかけてくる。


どこまで演じ切るつもりか――試す目だ。


「……で、悪い報せのほうは?」


「大公の息子は――金に目がありません」


「……どれほど?」


「度を超えるほどです」


父の顔がみるみる曇っていく。


それを見て、セレーネは唇の裏を噛んで笑いをこらえた。


血を分けた親子ではあるが、この男の冷静さだけは――どうやら、遺伝しなかったらしい。






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