私と婚約してください。
セレーネ・アシュフォードが屋敷の門をくぐった瞬間、混乱は始まった。
「お嬢様――っ!」
蒼白な顔で手を震わせながら、メイド長が無言で彼女の腕を掴み、引きずるように応接室へと連れて行った。
そしてそこには――
まるで己の家であるかのように椅子に腰かけ、優雅に紅茶をすする男がいた。
エヴァンデル・マイエルー。
その存在は、訪問者というよりも嵐そのものだった。
「馬を飛ばして、先回りさせてもらった」
涼しげにそう言って、彼はカップを静かに置いた。
「……何の御用でしょうか?」
「君と話をしに来た」
まるで天気の話でもするような口ぶりだった。
セレーネはまばたきを一つ。
目の前の男が、なぜ北方公爵家の跡取りである彼が、こんな辺鄙な場所まで来たのか――探るように彼の顔を見つめた。
(まさか……精霊術?)
一瞬よぎったが、それも考えにくかった。
確かに精霊術は希少ではあるが、実用性に乏しく、よほどの才能がなければ使い物にならない。
しかも、人間である自分が注目されるほどの価値はないはずだった。
(だとすれば、目的は――?)
無数の仮説が脳内で絡まり合う。
だが、外見には一切出さない。何度生を繰り返そうとも、油断は禁物。
(……いいわ。逃げられないなら、真正面から受けて立つだけ)
今の自分の力では、エヴァンデルから逃げきれるはずもない。
彼はすでに剣聖の域に達しようとしている天才。ひとたび何かを決めたなら、それを貫く執念も常軌を逸していた。
逃げれば、国をまたいででも追ってくる男だ。
「それで、公爵殿。お話とは?」
セレーネは笑みを浮かべ、調子を合わせた。
エヴァンデルは紅茶のカップを置くと、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。
「単刀直入に言おう」
その瞳に微かな光が灯る。
「――君には、私と結婚してもらう」
「……は?」
「聞こえただろう?」
「……わたしに、結婚を申し込むと?」
「そうだ」
「……理由を聞いても?」
「私がそう決めたからだ」
セレーネの時間が止まった。
首に剣を突きつけられるのは覚悟していた。だがこれは予想外だった。
彼の声音は変わらず淡々としており、表情も冗談を言っているようには見えない。
「……もし私が拒否したら?」
彼は言葉で返さなかった。
代わりに、隣に置かれていた剣に手を伸ばした。
笑みを絶やさず、静かに立ち上がる。
(……分かっていないわね。あなたは、いったい誰に剣を向けようとしているのか)
セレーネは後退らなかった。
むしろ一歩踏み出し、顎をわずかに上げ、白い首筋をさらした。
「どうぞ、お好きに」
凍てつく声で言い放つ。
「ここで私を斬ればいい」
初めて、エヴァンデルの眉が僅かに動いた。
彼は静かに剣を抜く。
その刃が空気を裂く音は、薄く、しかし重く響いた。
セレーネの喉元へと剣先が向けられる。
鋼が、肌のすぐそこにある。
そして――セレーネが、動いた。
わずかに、ほんのわずかに前に。
剣の冷たさが、皮膚に触れる。
彼女の瞳は揺るがない。
恐怖の色は、一切なかった。
長い沈黙。
空気が張り詰め、雷鳴すら鳴らせずに凍りついたかのような緊張が、室内を支配した。
エヴァンデルは微笑みを崩さぬまま、何も言わなかった。
だが、剣も引かれなかった。
そして――血が滲んだ。
にじむどころではなかった。
――ドクン。
血が溢れ出した。
膝が崩れ、セレーネの身体が倒れかけたその瞬間。
エヴァンデルは瞬時に動き、彼女を抱きとめた。
そして懐から、小さなガラス瓶を取り出した。
ポン。
陽気な音を立ててコルクが外れる。
紫の液体を、彼は迷いなく喉の傷口に注ぎかけた。
「少し痛むぞ。……じっとしていろ」
その言葉通り、灼けるような激痛が走った。
魂そのものが鋼で打ち付けられるような、異質な苦痛。
「ッ……ガハッ!!」
呼吸が戻ると同時に、激しく咳き込む。
手を喉にやったが、そこには傷も、痕もなかった。
床に飛び散った鮮血だけが、それが現実だった証拠だ。
エヴァンデルは黙ったまま彼女を見下ろしていた。
純白の鎧に飛び散った血と、少年のような整った顔立ち――その対比は、どこか狂気じみていた。
「……なぜ、そんなことを?」
「――怖かったんだろうな、きっと」
「……でも、あなた、私が死なないって確信してたように見えた」
彼の言葉に、セレーネは黙した。
確かに――死なないと、思っていた。
それが、剣よりも何よりも恐ろしかった。
(だって私は、呪われた存在なのだから)
そんな言葉が、セレーネの頭に浮かぶ。
かつて読んだ小説の中で、無限回帰の主人公たちは、自ら命を絶つことで時間を巻き戻した。
だが、自分は少し違った。
奴隷にされても。
身体の半分が麻痺しても。
死をもたらす疫病にかかっても。
――死ななかった。
まるで、この世界があらかじめ「死ぬ日」を定めているかのように。
それ以前に命を落とすことは、決して許されないかのように。
もし、その日が来る前に死ねるのなら。
彼のような男に、いっそ頼んでいたかもしれない。
この呪いを、終わらせてくれと。
……まさか、本当に実行されるとは思わなかったけれど。
屋敷に戻ったのはつい先ほどのことだった。
だというのに――
招かれもしないのに他人の屋敷へずかずか入り込み、初対面でいきなり首に刃を突きつけてくる男がいるなんて、誰が想像するだろうか。
彼は明らかに、正気ではなかった。
そしてもしあのとき、彼が傷口にかけた“謎の薬”がなかったら――正直、どうなっていたか想像もしたくない。
「……まさか、エリクサー?」
思わず、信じがたい声が漏れた。
幾度となく生まれ変わってきた人生の中でも、本物のエリクサーを見たのは片手で数えられるほどだ。
それを――まるで水でも撒くように浪費する男。
呆然と見つめるセレーネに、エヴァンデルは視線を逸らした。
珍しく、気まずそうな様子だった。
「……まさか、本当に血が出るとは思ってなかった」
「なら最初から剣を抜かなければよかったでしょう」
「手加減してたら、君の胆力は見えなかったな」
「どうしてそんなに私を過大評価するんですか」
「――本能だ」
あまりに即答だったせいで、思わず聞き返した。
「……は?」
エヴァンデルは真っ直ぐ彼女を見つめた。さっきまでの軽口は消え、瞳には一切の揺らぎもなかった。
「本能に、嘘はない」
「今、思いっきり外してましたけど?」
ピシッと皮肉が滑り出た。
エヴァンデルは目を細めて、ジッと睨んでくる。
その顔は――よく見ると、わりと整っていて可愛い。
(……ただし、完全にイカれてさえいなければ、の話)
容姿も地位も申し分ない。帝国一の“理想の結婚相手”になれただろう。
初対面で斬りかかるような男でさえなければ。
「……君、私がエリクサーを持ってるって知ってたのか?」
「知るわけないでしょう。貴族の第一声が“首を差し出せ”なんて誰が想定しますか」
「……まだ私をからかうつもりか?」
「事実を述べてるだけです」
苛立つ彼をよそに、セレーネは平然と答える。
エヴァンデルは短くため息をつくと、立ち上がった。
「……責任を取ろう」
呆れたような口調だった。
セレーネも警戒しながら身を起こす。
そして、次の瞬間――
彼は静かに一礼した。
「遅ればせながら、正式に自己紹介させていただきます。私はマイエルー家の嫡男にして、“紅騎士団”の指揮官、エヴァンデル・マイエルーです」
「……なんで今さら敬語?」
「本日は家を代表して、正式に求婚の申し出に参りました。セレーネ・アシュフォード嬢に、結婚を申し込みます」
「いやです。はあああああ!? ちょ、まずその剣を腰から離してくれません!?」
彼の手が再び柄に触れたのを見て、セレーネは即座に悲鳴じみた声を上げた。
呪いのせいで死なないとはいえ、痛みは痛いのだ。
会話とは名ばかりの攻防は、引き続きぎりぎりの温度感で進んだ。
エヴァンデルは相変わらずご機嫌に、テーブル越しに視線を合わせてくる。
一方セレーネは、内頬を噛みながら激しく後悔していた。
「……真剣であることは伝わりました。でも、どうしても納得がいかないんです」
「理解はする」
「じゃあ……お願いだから、貴族然とした態度をやめてくれません?」
「やれやれ。私は“演じている”ように見えるのか?」
じっと睨みつけると、彼は悪戯っぽく笑い、ふっと肩の力を抜いた。
その瞬間、セレーネは気づく。
高貴な態度ではない。これは――鍛え上げられた騎士の所作だ。
隙のない構え。洗練された動き。
柔らかさなど一切ない、本物の戦士の気配。
「……失礼ながら、私はあなたにふさわしい相手ではありません」
基本に立ち返るように、静かにそう述べた。
彼が結婚したという話は、これまでの人生の中で一度たりとも聞いたことがない。
それに、今の時代は特に不穏だった。
帝都と北部諸侯の関係は、いつ内戦に発展してもおかしくない。
その中で、エヴァンデルは“帝国の剣”とまで呼ばれる存在。
だからこそ、彼女はずっと関わることを避けてきたのだ。
「あなたは誤解してます。私は、しがない地方伯爵家の後継候補にすぎません。さっきの精霊術だって、見せかけだけの手品です。本当に注目する価値なんてありません」
「ほう。意外と自己評価が低い」
「……そこは否定してくれません?」
全力で自分を売り下げたというのに、何の効果もない。
こうなったら――
「……でも、あなたが私を求める理由、分かります」
エヴァンデルが眉を上げた。興味を引けたようだ。
セレーネはすかさず言葉を繋ぐ。
「帝国は崩壊寸前。中央と北部の対立は限界ギリギリ。誰も望んでいないけれど、誰も止められない。戦争は目前です」
エヴァンデルは否定しなかった。
北部は魔物の脅威に追われ。
中央は宮廷政治で崩壊寸前。
いまや両者は、それぞれの領地で手一杯だった。
だが北の力は、あまりに大きくなりすぎた。
その象徴こそ、目の前にいるこの男――人の姿をした“怪物”。
「こういう時、最も手っ取り早いのが政略結婚です。形式的なつながりでも、均衡を保つには充分」
「続けて」
「中央貴族とつながりがあるけれど、中立で、野心も力もない家。そして――おとなしく後ろに下がっていてくれる相手」
「……つまり、君というわけだ」
「その通り」
エヴァンデルは瞬きを一つ。
「奇妙だな。結婚したくないと言っていたのに、今では“選んでほしい”ように聞こえる」
「……致命的な問題が、ひとつあります」
「なんだ?」
セレーネは真顔で答えた。
「私、あまりにも有能すぎて、飾りの妻なんて無理です」
その瞬間、エヴァンデルの眉間にしわが寄った。
……初めて、痛いところを突けた気がした。