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2/8

私と婚約してください。

セレーネ・アシュフォードが屋敷の門をくぐった瞬間、混乱は始まった。


「お嬢様――っ!」


蒼白な顔で手を震わせながら、メイド長が無言で彼女の腕を掴み、引きずるように応接室へと連れて行った。


そしてそこには――


まるで己の家であるかのように椅子に腰かけ、優雅に紅茶をすする男がいた。


エヴァンデル・マイエルー。


その存在は、訪問者というよりも嵐そのものだった。


「馬を飛ばして、先回りさせてもらった」


涼しげにそう言って、彼はカップを静かに置いた。


「……何の御用でしょうか?」


「君と話をしに来た」


まるで天気の話でもするような口ぶりだった。


セレーネはまばたきを一つ。


目の前の男が、なぜ北方公爵家の跡取りである彼が、こんな辺鄙な場所まで来たのか――探るように彼の顔を見つめた。


(まさか……精霊術?)


一瞬よぎったが、それも考えにくかった。


確かに精霊術は希少ではあるが、実用性に乏しく、よほどの才能がなければ使い物にならない。


しかも、人間である自分が注目されるほどの価値はないはずだった。


(だとすれば、目的は――?)


無数の仮説が脳内で絡まり合う。


だが、外見には一切出さない。何度生を繰り返そうとも、油断は禁物。


(……いいわ。逃げられないなら、真正面から受けて立つだけ)


今の自分の力では、エヴァンデルから逃げきれるはずもない。


彼はすでに剣聖の域に達しようとしている天才。ひとたび何かを決めたなら、それを貫く執念も常軌を逸していた。


逃げれば、国をまたいででも追ってくる男だ。


「それで、公爵殿。お話とは?」


セレーネは笑みを浮かべ、調子を合わせた。


エヴァンデルは紅茶のカップを置くと、悪戯っぽい笑みを浮かべて言った。


「単刀直入に言おう」


その瞳に微かな光が灯る。


「――君には、私と結婚してもらう」


「……は?」


「聞こえただろう?」


「……わたしに、結婚を申し込むと?」


「そうだ」


「……理由を聞いても?」


「私がそう決めたからだ」


セレーネの時間が止まった。


首に剣を突きつけられるのは覚悟していた。だがこれは予想外だった。


彼の声音は変わらず淡々としており、表情も冗談を言っているようには見えない。


「……もし私が拒否したら?」


彼は言葉で返さなかった。


代わりに、隣に置かれていた剣に手を伸ばした。


笑みを絶やさず、静かに立ち上がる。


(……分かっていないわね。あなたは、いったい誰に剣を向けようとしているのか)


セレーネは後退らなかった。


むしろ一歩踏み出し、顎をわずかに上げ、白い首筋をさらした。


「どうぞ、お好きに」


凍てつく声で言い放つ。


「ここで私を斬ればいい」


初めて、エヴァンデルの眉が僅かに動いた。


彼は静かに剣を抜く。


その刃が空気を裂く音は、薄く、しかし重く響いた。


セレーネの喉元へと剣先が向けられる。


鋼が、肌のすぐそこにある。


そして――セレーネが、動いた。


わずかに、ほんのわずかに前に。


剣の冷たさが、皮膚に触れる。


彼女の瞳は揺るがない。


恐怖の色は、一切なかった。


長い沈黙。


空気が張り詰め、雷鳴すら鳴らせずに凍りついたかのような緊張が、室内を支配した。


エヴァンデルは微笑みを崩さぬまま、何も言わなかった。


だが、剣も引かれなかった。


そして――血が滲んだ。


にじむどころではなかった。


――ドクン。


血が溢れ出した。


膝が崩れ、セレーネの身体が倒れかけたその瞬間。


エヴァンデルは瞬時に動き、彼女を抱きとめた。


そして懐から、小さなガラス瓶を取り出した。


ポン。


陽気な音を立ててコルクが外れる。


紫の液体を、彼は迷いなく喉の傷口に注ぎかけた。


「少し痛むぞ。……じっとしていろ」


その言葉通り、灼けるような激痛が走った。


魂そのものが鋼で打ち付けられるような、異質な苦痛。


「ッ……ガハッ!!」


呼吸が戻ると同時に、激しく咳き込む。


手を喉にやったが、そこには傷も、痕もなかった。


床に飛び散った鮮血だけが、それが現実だった証拠だ。


エヴァンデルは黙ったまま彼女を見下ろしていた。


純白の鎧に飛び散った血と、少年のような整った顔立ち――その対比は、どこか狂気じみていた。


「……なぜ、そんなことを?」


「――怖かったんだろうな、きっと」


「……でも、あなた、私が死なないって確信してたように見えた」


彼の言葉に、セレーネは黙した。


確かに――死なないと、思っていた。


それが、剣よりも何よりも恐ろしかった。


(だって私は、呪われた存在なのだから)


そんな言葉が、セレーネの頭に浮かぶ。


かつて読んだ小説の中で、無限回帰の主人公たちは、自ら命を絶つことで時間を巻き戻した。


だが、自分は少し違った。


奴隷にされても。


身体の半分が麻痺しても。


死をもたらす疫病にかかっても。


――死ななかった。


まるで、この世界があらかじめ「死ぬ日」を定めているかのように。


それ以前に命を落とすことは、決して許されないかのように。


もし、その日が来る前に死ねるのなら。


彼のような男に、いっそ頼んでいたかもしれない。


この呪いを、終わらせてくれと。


……まさか、本当に実行されるとは思わなかったけれど。


屋敷に戻ったのはつい先ほどのことだった。


だというのに――


招かれもしないのに他人の屋敷へずかずか入り込み、初対面でいきなり首に刃を突きつけてくる男がいるなんて、誰が想像するだろうか。


彼は明らかに、正気ではなかった。


そしてもしあのとき、彼が傷口にかけた“謎の薬”がなかったら――正直、どうなっていたか想像もしたくない。


「……まさか、エリクサー?」


思わず、信じがたい声が漏れた。


幾度となく生まれ変わってきた人生の中でも、本物のエリクサーを見たのは片手で数えられるほどだ。


それを――まるで水でも撒くように浪費する男。


呆然と見つめるセレーネに、エヴァンデルは視線を逸らした。


珍しく、気まずそうな様子だった。


「……まさか、本当に血が出るとは思ってなかった」


「なら最初から剣を抜かなければよかったでしょう」


「手加減してたら、君の胆力は見えなかったな」


「どうしてそんなに私を過大評価するんですか」


「――本能だ」


あまりに即答だったせいで、思わず聞き返した。


「……は?」


エヴァンデルは真っ直ぐ彼女を見つめた。さっきまでの軽口は消え、瞳には一切の揺らぎもなかった。


「本能に、嘘はない」


「今、思いっきり外してましたけど?」


ピシッと皮肉が滑り出た。


エヴァンデルは目を細めて、ジッと睨んでくる。


その顔は――よく見ると、わりと整っていて可愛い。


(……ただし、完全にイカれてさえいなければ、の話)


容姿も地位も申し分ない。帝国一の“理想の結婚相手”になれただろう。


初対面で斬りかかるような男でさえなければ。


「……君、私がエリクサーを持ってるって知ってたのか?」


「知るわけないでしょう。貴族の第一声が“首を差し出せ”なんて誰が想定しますか」


「……まだ私をからかうつもりか?」


「事実を述べてるだけです」


苛立つ彼をよそに、セレーネは平然と答える。


エヴァンデルは短くため息をつくと、立ち上がった。


「……責任を取ろう」


呆れたような口調だった。


セレーネも警戒しながら身を起こす。


そして、次の瞬間――


彼は静かに一礼した。


「遅ればせながら、正式に自己紹介させていただきます。私はマイエルー家の嫡男にして、“紅騎士団”の指揮官、エヴァンデル・マイエルーです」


「……なんで今さら敬語?」


「本日は家を代表して、正式に求婚の申し出に参りました。セレーネ・アシュフォード嬢に、結婚を申し込みます」


「いやです。はあああああ!? ちょ、まずその剣を腰から離してくれません!?」


彼の手が再び柄に触れたのを見て、セレーネは即座に悲鳴じみた声を上げた。


呪いのせいで死なないとはいえ、痛みは痛いのだ。


会話とは名ばかりの攻防は、引き続きぎりぎりの温度感で進んだ。


エヴァンデルは相変わらずご機嫌に、テーブル越しに視線を合わせてくる。


一方セレーネは、内頬を噛みながら激しく後悔していた。


「……真剣であることは伝わりました。でも、どうしても納得がいかないんです」


「理解はする」


「じゃあ……お願いだから、貴族然とした態度をやめてくれません?」


「やれやれ。私は“演じている”ように見えるのか?」


じっと睨みつけると、彼は悪戯っぽく笑い、ふっと肩の力を抜いた。


その瞬間、セレーネは気づく。


高貴な態度ではない。これは――鍛え上げられた騎士の所作だ。


隙のない構え。洗練された動き。


柔らかさなど一切ない、本物の戦士の気配。


「……失礼ながら、私はあなたにふさわしい相手ではありません」


基本に立ち返るように、静かにそう述べた。


彼が結婚したという話は、これまでの人生の中で一度たりとも聞いたことがない。


それに、今の時代は特に不穏だった。


帝都と北部諸侯の関係は、いつ内戦に発展してもおかしくない。


その中で、エヴァンデルは“帝国の剣”とまで呼ばれる存在。


だからこそ、彼女はずっと関わることを避けてきたのだ。


「あなたは誤解してます。私は、しがない地方伯爵家の後継候補にすぎません。さっきの精霊術だって、見せかけだけの手品です。本当に注目する価値なんてありません」


「ほう。意外と自己評価が低い」


「……そこは否定してくれません?」


全力で自分を売り下げたというのに、何の効果もない。


こうなったら――


「……でも、あなたが私を求める理由、分かります」


エヴァンデルが眉を上げた。興味を引けたようだ。


セレーネはすかさず言葉を繋ぐ。


「帝国は崩壊寸前。中央と北部の対立は限界ギリギリ。誰も望んでいないけれど、誰も止められない。戦争は目前です」


エヴァンデルは否定しなかった。


北部は魔物の脅威に追われ。


中央は宮廷政治で崩壊寸前。


いまや両者は、それぞれの領地で手一杯だった。


だが北の力は、あまりに大きくなりすぎた。


その象徴こそ、目の前にいるこの男――人の姿をした“怪物”。


「こういう時、最も手っ取り早いのが政略結婚です。形式的なつながりでも、均衡を保つには充分」


「続けて」


「中央貴族とつながりがあるけれど、中立で、野心も力もない家。そして――おとなしく後ろに下がっていてくれる相手」


「……つまり、君というわけだ」


「その通り」


エヴァンデルは瞬きを一つ。


「奇妙だな。結婚したくないと言っていたのに、今では“選んでほしい”ように聞こえる」


「……致命的な問題が、ひとつあります」


「なんだ?」


セレーネは真顔で答えた。


「私、あまりにも有能すぎて、飾りの妻なんて無理です」


その瞬間、エヴァンデルの眉間にしわが寄った。


……初めて、痛いところを突けた気がした。




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