プロローグ
パチンッ。
頬を打つ鋭い音とともに、セレーネ・アシュフォードの頬に平手打ちが飛び、彷徨っていた意識が無理やり現実に引き戻された。
目の前には、今にも怒鳴り出しそうな目で彼女を睨みつける貴族の青年が立っていた。まるで全てを踏みにじられたかのような怒りを宿した表情で。
セレーネはこみ上げるため息を奥歯で噛み殺した。
(……また、これか。)
この瞬間を迎えるのは、もう何度目だろう?
かつて十回までは数えた覚えがあるが、それ以降は曖昧になった。
前世の記憶もすでに薄れており、それと共にこの厄介な繰り返しに意味を見出そうという意志も失われつつあった。
「セレーネ・アシュフォード! 婚約者である私を差し置いて、他の男と戯れるとは……まさか、気づかれないとでも思ったのか!」
怒りに震える声。
頬は羞恥で紅潮し、その目からは一粒の涙が零れ落ちた。
それでもセレーネは、その完璧な演技に感嘆せずにはいられなかった。
(……哀れね、本当に。あなたにはもっと期待していたのに、エイドリアン。)
エイドリアン・メリヴェイル。
彼女の婚約者――そして何より、この茶番劇の脚本家にして主演俳優。
今のセレーネは、悪名高き令嬢の体を借りてこの場に立っている。
だがそれでも、彼女の魂は確信していた。自分の手は汚れていない、と。
元のセレーネは確かに奔放ではあった。だが、不誠実ではなかった。
何度も繰り返した輪廻の中で、それは確かめられていた。
(浮気をしたのは彼の方……なのに――)
エイドリアンの瞳を真正面から見据える。
その容姿は相変わらず絵画のように整っていた。亜麻色の髪、整った顔立ち、悲劇の貴族を体現するような美貌。
だがその美しさの奥に潜むのは、羞恥も罪悪感も持たぬ、冷淡な打算。
裏切られた恋人を演じる彼は、あたかも深く愛した女性に踏みにじられたかのような面を作っていた。
しかも今日――帝都で開かれた大舞踏会、貴族と名家の跡取りが集うこの場で、彼は彼女を打ったのだ。
(この世界では、女性の名誉など、一つのスキャンダルでいともたやすく壊れる。)
婚約だけではない。
社交界での立場、将来、名誉、すべてが、一つの物語で粉々にされる。
この婚約を自ら破棄すれば、批判の矛先が自分に向く。
だがセレーネが悪女として描かれれば――冷酷で、裏切り者で、情け容赦のない女であれば――彼は無傷で済む。むしろ哀れまれる。
すべては計算づく。
精巧に編まれた罠。
彼はセレーネを社交界の前に追い詰め、自らの悲劇の舞台装置に仕立てたのだ。
「……何か言い訳はないのか?」
その一言すら、あらかじめ用意された筋書きの一部だった。
以前、別の輪廻で彼の筋書きに逆らおうとして、無様に足掻いた記憶がよみがえる。
(……あの頃は、どうでもいいと思っていたのに。)
だが今回は違う。
胸の奥に、重く沈む何かがあった。
沈黙のまま去るなんて、もう嫌だった。
だから、彼女は言葉ではなく――行動で応じた。
静かにエイドリアンの瞳を見つめながら、手袋を外す。
優雅に、しかし明確な意志を込めて――その手袋を彼の足元へと投げ捨てた。
「エイドリアン・メリヴェイル殿。」
「……なに?」
「あなたに決闘を申し込みます。」
「……け、決闘だと?」
白い手袋は、風に舞う花びらのように舞踏会の床に落ちた。
そしてその瞬間、会場の空気は凍りついたように静まり返った。
***
月が高く昇り、決闘の場を静かに照らしていた。
白銀の光が磨き上げられた石畳に降り注ぎ、辺りを囲む貴族たちはその場に釘付けになっていた。
衣擦れの音だけが静寂を破る。
「まさか……メリヴェイル殿とアシュフォード令嬢が?」
「令嬢のほうから申し込んだのか?」
「正気の沙汰とは思えん……」
場の中央には、セリーヌ・アシュフォード。
一歩も引かぬ姿勢で立ち、手袋を嵌めた右手は静かに刀の柄に添えられていた。
その向かいにいるのは、エイドリアン・メリヴェイル。
余裕を装った笑みを浮かべながら、ゆっくりと円を描くように歩く。
「くだらん見世物に、最後の矜持まで投げ捨てるとはな」
エイドリアンが嘲るように言った。
「答えてみろ、セリーヌ。お前、本気で勝てるとでも思っているのか?」
セリーヌは答えなかった。
その沈黙は、怯えではなく——あまりに落ち着き払っていて、むしろ緩慢にさえ見える。
その態度が、エイドリアンの怒りにさらに火をつけた。
ふと、彼女の口元がゆるやかに歪んだ。
微かに浮かぶ、挑発の笑み。
「吠えるばかりで噛みつけない犬は、見苦しいだけよ」
その声は、氷のように冷ややかだった。
セリーヌは静かに刀を抜いた。
金属の鳴る音が夜気に溶けた。
「さあ、始めましょうか」
エイドリアンの顔が怒りで赤く染まり、低く唸りながら踏み込んだ。
初撃の衝突が、甲高く響き渡る。
だがセリーヌは微動だにしない。
一閃を滑らかに受け流し、肩をかすめる一撃すら無意味に変えた。
「まだその誇りに隠れてるの?」
涼しげな声で言い放つ。
エイドリアンは歯を食いしばり、次の瞬間、全力の一太刀を振るった。
その剣に宿るのは、貴族だけに伝わる精緻な剣技——光の気が刃に集う。
観客席にどよめきが走った。
「気でも狂ったのか!? あれを女相手に使うなんて……!」
しかし、その一撃は届かなかった。
セリーヌの剣が空中でそれを受け止めたのだ。
まるで時間が止まったような瞬間。
彼女の瞳は微動だにせず、剣先の輝きがすっと消える。
一瞬の静寂。
エイドリアンが動こうとしたその時——
セリーヌの蹴りが、彼の腹に正確に叩き込まれた。
呼吸が止まり、彼は後方によろめく。
そして顔を上げたときには、すでに目の前にセリーヌがいた。
その刃が上へと舞う。
エイドリアンは慌てて防御の構えをとったが、彼の剣は弾き飛ばされ、床を転がった。
気づけば、セリーヌの剣が彼の喉元に突きつけられていた。
まるで一分の隙も許さぬように。
汗が額から滴る。
エイドリアンは言葉を失った。
セリーヌはその様子を見下ろし、短く告げた。
「終わりよ」
そして剣を下ろし、踵を返す。
観客たちは誰一人として声を上げなかった。
ただ、彼女の足音だけが石畳に響いた。
喝采も、称賛もなかった。
ただただ、その背を見送るだけ。
決闘の場に現れたのは、噂と侮蔑にまみれた一人の令嬢だった。
だが去っていく姿は——誰もが恐れる何か、もっと別の存在だった。
***
(さて……次は、何をすればいい?)
貴族たちのどよめきを背に、セリーヌ・アシュフォードは舞踏会場を後にした。
振り返ることもなく、その足取りは静かで、すでに思索の中に沈んでいた。
今度の人生では、何をして生きていけばいいのだろう?
その答えは、まだ見つかっていない。
(……もう、ほとんどのことは試したけどね)
初めての人生で奴隷として生きたことを除いても、数え切れないほどの転生の中で、様々な人生を歩んできた。
国も名前も、生き方すらも変えて。
だが、この身体——セリーヌ・アシュフォードという器は、あまりに脆かった。
新しい何かを極めるには、時間が足りない。
(あと三年)
病か、戦か、あるいは何の前触れもなく心臓が止まるのか。
終わり方は違えど、結末は変わらない。
セリーヌ・アシュフォードは、三年で必ず死ぬ。
例外は、一度たりともなかった。
(……それが、私を壊した)
逃げても、足掻いても、結末は変わらなかった。
三年。繰り返し、何度も。
それでもまだ、狂いきってはいない。
不思議なことに。
国を変え、名前を変え、生き方を変えても、虚しさだけが積み重なっていった。
今の彼女には、希望も、未来も、何も残っていなかった。
(……ただ、もう疲れたの)
心が踊ることもなく、何をしても空虚だった。
それでも、歩みは止めない。
冷めたまなざしで、前だけを見て。
たったひとつの信念だけを頼りに。
——飢えて笑うより、黄金の上で泣くほうがマシ。
「……お困りですか、お嬢さん?」
不意に背後からかけられた声に、セリーヌは反射的に振り向いた。
見覚えのない男——
それだけで、彼女の胸に微かな興味の火が灯る。
その男は、月光の下で銀の甲冑をまとい、まるで神話から抜け出したような気配を纏っていた。
肩には贅沢な毛皮のマント。
そして腰の剣には、ひと目でわかる紋章が縫い込まれている。
黄金の獅子。
それを掲げるのは、この帝国でただ一つ——
(……マイエル家)
北方を統べる公爵家にして、「帝国の盾」と謳われるその家系。
その嫡男にして、剣と魔術の両方を極めたこの世界の中心人物。
エヴァンデル・マイエル。
セリーヌの喉がひとりでに震えた。
「え、エヴァンデル・マイエル……!?」
避けてきた。
どの人生でも、彼との関わりだけは徹底的に避けてきた。
「ほう……ご存知のようですね?」
「は、ははっ! 失礼しました、あまりにも神々しいお姿に見惚れてしまいまして!まるで月光に包まれた神のようなお方……それでは、私はこれにて失礼を!」
逃げなければ。今すぐ。
この男は——エヴァンデル・マイエルは、ゲームの開発者すら明言した「バッドエンド量産装置」だった。
関わった者は、決まって三年以内に破滅する。
それが彼の運命。
それに、王宮の舞踏会に剣と鎧で現れる男なんて、まともなはずがない。
(ここで退く)
セリーヌは踵を返し、一礼と共に言葉を残す。
「光栄でした、エヴァンデル殿下。ですが急用がございますゆえ、これにて!」
「ま、待ちなさい!」
彼が手を伸ばしたその瞬間、セリーヌは滑るように身を翻した。
「……風よ、旋りて、我を運べ」
低く唱えると、足元に風が集まり、身体が軽く浮き上がる。
精霊術。
彼女は風に乗って跳躍した——が。
「……今の、精霊術か?」
その声を聞いた瞬間、背筋が凍りついた。
普通の者には、魔術と精霊術の違いなど判別できない。
だが彼には、見えていた。
常人ではない——その証。
(……見抜かれた? あり得ない)
振り返れば、エヴァンデルは追わず、ただ静かにその場に立っていた。
(近寄らないで。それが一番安全だから)
息を吐きながらも、彼の気配が完全に遠ざかるまで、警戒を解くことはなかった。
無人となった舞踏会場。
その静寂の中、エヴァンデルは低く名を呼ぶ。
「……マーティン」
柱の陰から現れたのは、沈黙をまとった男。
「お呼びでしょうか、隊長」
彼女が去っていった扉を見つめたまま、エヴァンデルは呟いた。
「馬を用意しろ。馬車はいらん」
「お出かけに?」
「面白いものを見つけた」
その笑みは、獲物を見つけた獣のもの。
風が残した余韻を辿るように、彼の視線が虚空をなぞる。
マーティンが苦々しい顔で言った。
「……失礼ながら、本日は陛下のご意向により、北方との友好を深める場かと。
この場を離れるのは、政治的に問題が……」
「心配無用だ。すでに手は打ってある」
その声には、一分の迷いもなかった。
マーティンは一瞬言葉を失い、眉をひそめる。
「……申し訳ありませんが、そのお顔、どうにも得意げに見えます」
「……マーティン?」
冷えた声に、マーティンは即座に背筋を伸ばし、深く頭を下げた。
「ただちにご用意いたします」
空気を読む補佐官であった。
やがて、二頭の頑強な軍馬が用意される。
「目的地は?」
手綱を取ったエヴァンデルは、即座に答えた。
「アシュフォード邸だ」
「えっ、アシュフォード……って、まさかセリーヌ・アシュフォード!?隊長、それはさすがに——」
だが、その言葉が終わるより早く。
「——ハッ!」
エヴァンデルは馬を蹴り、風のごとく駆け出していた。
その背には、危険な光——
好奇心と、狩人の決意が、燃えていた。