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夕日が反射したプールを囲う柵をよじ登って一息つく。隣で苦戦しているトモキに手を貸して、二人一緒に柵を飛び降りた。衝撃で足先がピリピリするけど我慢して、洗眼器が並ぶコンクリート製の蛇口の陰に急いで身を隠す。まだプール開きは先のはずだけど、数か月前真緑色だった水面はいつの間にか綺麗に清掃され、今日はキラキラとしたオレンジ色の光を放っていた。そう考えると、花子さんと出会ってからもう随分遊んだ事になる。
「確かに二階ではないけど、ちょっとズルくない?」
トモキは少し申し訳なさそうな顔をした。
「まぁ、たまにはいいっしょ。毎回同じ場所に隠れるのも味気ないし」
それにここなら、すぐには花子さんにも見つからない筈だ。
「それで、トモキは何があの子の心残りなのか分かりそうか? 今も休み時間に講堂のトイレ行って話すんだろ?」
「話すって言っても、別にただの雑談だよ? 仲良くなっても、花子さんあんまり自分の事話さないし。彼女が亡くなったの、たぶん僕たちと同い年くらいだよね? そりゃ未練もあるだろうし。本人から話してくれるならまだしも、僕たちから根ほり葉ほり聞くべき事じゃない気がしてやっぱり聞けないよ。……ケンちゃんの方は何か分かった?」
隣のトモキから視線を感じたので、俺は縦と横どちらに首を振るべきか迷って結局中途半端な感じになった。
「調べたら、うちの学校で制服がリニューアルされたのは十年前と十二年前。花子さんの着てる制服は十二年前に変わったやつっぽい。学校側は校舎建て替えを機に制服も格好いい高級路線にしたかったけど、親から値段が高すぎるって批判があって殆ど元の制服に戻したらしい。そこまで分かれば、その十年から十二年前の間にこの学校で亡くなった生徒とか事件があるはずだって思ったんだけど。ネット漁ったり、県立図書館で昔の新聞調べたりしても、なーんも見つかんない。十数年前って親の世代とも違うし、身近に聞ける知り合いもいないし、詰んだ感あるって」
「そこまで分かっただけでも凄いよ、ケンちゃん。体育会系と思ってたけど、もしかして意外と頭使う仕事向いてる?」
「え? そうか?」
褒められた様な気がして、照れ臭くて顔を赤くしているとトモキが呆れた顔でちょんちょんと脇腹をつつく。
「ちょっと。そこは、全国の体育会系敵にしたなぁとか、スポーツだって頭使うんだぞ、ってツッコんでくれないと。ケンちゃん、花子さんの事になると、ちょっと違うよね。……もしかしてさ、ケンちゃん。花子さんの事好きなの?」
予想外の方向から殴られたような驚きで、俺は振り返ったけどトモキはそっぽを向いたまま目を合わせてくれない。
「いやいやいや、何でそうなるんだよ!」
「だって花子さんが絡むと、明らかにケンちゃん変だもん。今までずっと一緒に遊んできたのに、そんな顔した事なかったし。……ずっと一緒にいたんだもん。ケンちゃんが最近何か隠してるって、分かっちゃうよ」
俺は納得できなくて、トモキの両方の頬っぺたを持ってこっちに振り向かせた。今までだったら何でも無かった、こいつの頬っぺたの柔らかさとか、眼鏡の奥の拗ねた目付きとか、少し尖った唇とか、その全てが俺の胸を掻きむしる。俺の高鳴る心臓の音が触れた両手からトモキに悟られていないか不安で、もう頭の中が真っ白だった。でも、このまま黙って見つめ合ってるわけにもいかない。
「それを言うなら、お前の方だろ。さっき言ってた雑談だって、別に三人で遊ぶときにしたっていいんだし。前に花子さんが言ってたお前と似たものを感じるって、一体何なんだ。いい加減教えてくれよ」
「……それは」
トモキが目を逸らしたまま黙るので、俺はもう限界で両手を頬っぺたからそっと離した。無言で隣にいるのすら辛くて立ちあがると、トモキはいつもみたいに俺のシャツを引っ張る。俺が「なんだよ」って言おうって振り返ると、何故か下を向いていて。しゃがんで覗き込むと、こいつの顔まで夕日みたいに真っ赤になってた。
「待って。僕も教えるから。……ごめん。やっぱりケンちゃんから言って。その後ちゃんと言うから」
「はぁ? えっ? ちょっ、今?」
トモキは伏し目がちに俺を見つめてくる。その顔はズルい。頭の中で今までのこいつとの思い出が頭の中でぐるぐると駆け巡っていく。俺の本心を伝えたとして、嫌われたり気持ち悪く思われたりしないだろうか。俺自身だって未だ困惑してるんだから。でも、受け入れてもらえないとしても、トモキなら俺を悪戯に傷つけたり周りに言いふらしたりはしない。それは分かる。距離は取られちゃうかもしれないけど、それはもう俺が一方的な想いを抱いてしまった以上しょうがないのかも。
俺はカチカチと唇を震わせながら、感情を絞り出す。
「俺は、トモキの事がす、好きなんだよ。お前の事は親友だってずっと思ってたけど、たぶんそれだけじゃなくて恋愛感情として。俺と違って勉強が出来るところも尊敬してるし、昔から変わらず俺の遊びに付き合ってくれるノリの良いところも、優等生みたいに思われがちだけど割と悪ガキなギャップとかも全部。……トモキ、花子さんと付き合ってるんだろ? それは俺に止める権利はないし、奪うつもりとかも無くて。ただ、お前が花子さんと親し気にしてると、取られたみたいに思っちゃってガラにもなく嫉妬してた。……ごめん」
顔が燃えそうなくらい熱く感じて、俺は無性に服を着たまま目の前のプールに飛び込みたい衝動に駆られたけど、トモキは俺のシャツを掴んだままで逃がしてくれそうにない。
「逃げないで。色々、その、誤解してるから。何から伝えればいいか分からないけど、僕もケンちゃんの事大好きだよ」
「へ?」
振られ待ちしてた俺は、トモキの言葉の真意が分からなくてフリーズしてしばらく動けなかった。暑くるしい視線を感じてプールサイドを振り返ると、花子さんも真っ赤な顔をして口元を両手で押さえながら立ちすくんでいる。すっかり忘れていたけど、そういえば今かくれんぼの最中だった。やばい。俺の人生史上一番気まずい状況かも。全員が黙りこくる中、花子さんにこの訳分かんない状況をどうやって説明するか悩んでいたんだけど。
「……尊い」
彼女のにやけて歪んだ口元から零れ出た言葉も、俺の想像とは全然違った。
「…………はい?」
「僕から説明するよ。えっと、花子さんは腐女子ってやつで。BLって、ケンちゃん分かる? 男の子同士の恋愛模様を描いた創作ジャンルをBL、ボーイズラブって言って、その愛好家を腐女子・腐男子って呼ぶんだ。僕が聞いたトイレの花子さんの噂、ケンちゃんにはちゃんと教えられていなかったんだけど、正確には『講堂のトイレには腐女子の幽霊がいて、合言葉を言うと出てきて遊んでくれる』なの。それが学校のBL好きの間で語り継がれてて。……言いにくいんだけど、その噂を知ったのも僕も腐男子だからで。BL好きってのが、僕と花子さんの共通点で仲良くなった理由なんだ」
俺は思い返してみるが、トモキがBLを読んでるのを見た記憶なんて一度もない。
「えっ。でも、トモキが普段教室で読んでるのって、推理小説だろ?」
「あれは表紙のカバーだけ入れ替えてるんだ。BLって性描写も結構あるから、大っぴらに読むのは抵抗あって。それでも、いつかバレるリスクはあるから、最近は花子さんのトイレに本隠させてもらってて。それに、僕は男だからBLの事語れる友達は今まで居なくて、花子さんは初めて出来た同士というか。それで雑談も弾んで……」
「じゃあ、別に花子さんと付き合ってるわけじゃない?」
トモキはこくんと頷いて、恥ずかしいのか顔を両手で覆った。見かねたように黙って聞いていた花子さんが助け舟を出す。
「あとは、トモキからの恋愛相談聞いたりね。今聞いた通り、あたしは腐女子だからあんた達二人の恋愛を応援してたんだけど、それで要らぬ誤解を生んじゃったみたい。ごめんなさい。でも、この目でリアルBLカップルの誕生する瞬間をお目にかかれる日が来るなんて。……あぁ、ほんと尊いわ」
言いながら花子さんが恍惚とした表情のまま昇天しかけていたので、俺は慌てて声をかけて呼び戻した。それから、花子さんは場所を移して講堂のトイレに行き、俺たちに話を続ける。
「あたしがここに居続ける理由だって聞いてくれれば、全然教えたのに。まぁ、聞きにくいか。あたしは生前から根っからの腐女子でBL本を買い漁っていたんだけど。心臓が生まれつき弱くてね、正直いつ死んでもおかしくなかったの。でも死んでからBL本を大量に読んでたの親バレするのは避けたくて。何処かにBL本を隠したかったときにこの場所を見つけてね」
彼女が二番目の洋式トイレの給水タンクを開けると、そこに水は溜まっていなくて代わりにビニール袋に入った大量のBL本が隠されていた。
「これ、あたしとかトモキの隠したBL本だけじゃないんだよ。初めに誰が見つけたのか分からないけど、あたしが亡くなってからも、ここをBL本の隠し場所にしてる生徒がいたみたいで。それを知ってからは、ここにいれば同志の子と話せるかもって、居座るようになったの。それに、トイレが修理されて隠し場所が見つかっちゃったら、ここに隠された本も捨てられるだろうから守護の意味もあってね。業者の他にもただの悪戯っ子とかも来たら、姿も見せずに追い返してたけど。あんた達は正直初めどっちか分かんなかったわ。めちゃくちゃ性癖に刺さるカップリングだったから見逃したけど、あの時本当追い返さなくてよかった……。あたしね、リアルBLカップル見れず死んだ事が心残りだったんだけど。まさか、その誕生に立ち会えるなんて……」
「おーい。戻ってこい」
俺はまたトリップしかけている花子さんの顔の前で、手をぶんぶん振ってみる。
「あぁ、ごめんなさい。でも、本当良いもの見せてくれてありがとう。あたしが見てたら、色々しにくいよね。ケンちゃんとトモキは、いつでもここ好きに使ってもいいからね。末永く幸せに!」
花子さんは赤面しながら俺たちに拝むように感謝を伝えると、ふっと消えた。
「……好きに使っていいってなんだよ。まぁ、変な子だったけど、良いやつだったな」
「BL好きに悪い人はいないよ」
トモキがあんまりにも真面目な顔で言うから、ちょっと笑ってしまう。それから、俺たちは花子さんが居た場所に二人で「ありがとう」と伝えて、その場を後にした。