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『ケンちゃんは、ウチの中学にも幽霊出るの知ってた?』
頭の中でさっきのトモキの言葉が繰り返される。噂の場所は薄暗くて、やけに重みのある嫌な空気で満ちていた。講堂の共用トイレなんて普段だれも使わないはずなのにどこかで水漏れでもしているのか、壁や床一面に貼られた濃い紺色のタイルはしっとりと湿り気を帯びている。そして、その艶やかな一つ一つが天井の黄ばんだ白熱電球の光を怪しく反射させていて、ドアを開けた瞬間無数の目に見つめられているような何とも言えない気持ち悪さがあった。後ろについて来てるトモキが俺の制服の端を強く握りしめる。こいつの、いつもの癖だ。普段はシャツが伸びるからやめて欲しい時もあるけど、今ばっかりは一人じゃないのが心強い。実際に幽霊がいるか、いないかは分からないけど、確かにここにならいても変じゃない気がする。まだ放課後の明るい時間で良かったなと、心底思う。
友達の前だから顔には出せないけど、正直言って俺は怖い。自分が今どんな表情をしているのか確かめたくて洗面台に向かいかけたけど、もし鏡に何かが映ったら悲鳴を上げてしまいそうで、俺は黙ってそのまま通り過ぎた。
「ケンちゃん? トイレの花子さんが出るのは二番目の個室らしいから、そんな奥じゃないよ?」
トモキがシャツをつんつん引っ張りながら話しかけてくる。その声は、あんまり怖がっている様には聞こえない。たぶん怖いもの見たさというか遊園地のアトラクションくらいの感覚だ。幽霊の被害にあった誰かを助けたいとか(そもそもそんな奴がいるのか知らないけど)、謎を解いてやるみたいな使命感とかとは無縁だと思う。俺もそうだし。
「いや湿気てるから、ここ開けようと思って」
俺はごまかすみたいに窓ガラスに手をかけるけど、ここの窓はハメ殺しみたいでピクリとも動かない。手が少し汚れてガラスに心霊写真みたいな手の跡が付いただけだ。そこから覗けるプールの水面も、夏以外放置されているからか真緑に濁っていて、そんな事すら今の俺は不気味に感じてしまう。バツが悪くて、トイレの入り口に戻って電気の下の換気扇のスイッチをカチカチ押してみるけど、とくに何の変化も起きなかった。
「噂の個室のトイレ壊れてるらしいんだけど、業者が直そうとすると変な物音とかポルタ―ガイストが起きるから、近付けなくてずっと放置されてるらしいんだよね。換気扇もダメなのかも。じゃあさ、そろそろ花子さん呼んでみる?」
要らない情報を付け加えながら、他人事のようにトモキは話す。振り返ってみると、トモキは興奮と恐怖といたずら心がにじみ出た、ちょっと悪い顔をしていた。先生や友達の皆は、眼鏡をかけていて勉強が出来て色白な見た目ってだけで、トモキを真面目で大人びた優等生みたいに扱うけど、こいつは意外とこういうのが好きな悪ガキだ。小学生の頃から全然変わらない。だからこそ、この前クラス替えでバラバラになっても、ずっと一緒につるんでる。俺の家からは少し遠いけど、この中学を選んだのだってトモキが居るからだ。
「で、どうするんだっけ?」
「確か三回ノックして、『花子さん、遊びましょ?』って呼ぶらしいよ?」
深呼吸をしてから、噂の個室の扉を一応開けてみる。もちろん誰も居ない。俺は安心して扉を三回ノックして、トモキと声を合わせる。
「「花子さん、遊びましょ」」
何も起きなくて俺が鼻で笑おうとしたその瞬間、遅れて返事が返ってきた。
「……じゃあ、何して遊ぶ?」
それは俺たちどちらとも全く違う、はっきりとした女の子の声で。触ってないのにゆっくりと扉が開きかけて、俺とトモキはどちらともなく上げた悲鳴とほぼ同時にトイレから逃げ出した。講堂から校庭のど真ん中まで全力で走って、俺たちは肩で息をしながら苦笑いするしかない。トモキも腰が抜けたのか俺と一緒で地べたにへたり込んでいる。自分の胸に手を当てると、心臓が太鼓の音みたいにバコンバコン鳴っていた。一瞬、俺はこいつが仕掛けた壮大なドッキリかもって思ったけど、そんな感じもない。
「やばぁ。マジで出たじゃん。これ呪われたりすんのかな」
「僕たち、花子さんに結構失礼な事しちゃったんじゃ。自分たちで遊ぼうって誘ったから花子さん出てきてくれたのに、逃げてきちゃったし」
俺が冗談で言った言葉にトモキは真顔で返す。
「まぁ、かたち的にはピンポンダッシュに近くなったけど」
「こっくりさんは途中で手を離したり、最後ありがとうございましたって言わないと、憑りつかれるって聞いた事あるよ。花子さんもマズいかも。……ケンちゃん、どうしよ。一応謝りに戻る?」
「マジで? 別にこのまま帰っても良くない?」
トモキは深いため息をついてから、先に立ち上がって俺に手を差し伸べた。
「この前、ケンちゃんが教室の掃除中ふざけて花瓶割った時も似たような事言ってたね。その後、なんですぐ言わないんだって、先生に怒られてたじゃん。こういうのって、初めが肝心なんだと思うよ。ポーズだけでもさ」
俺もトモキの手を取って立ち上がる。
「さすが優等生。しゃあない。じゃあ、謝りに行くかぁ。……やっぱり、行かないとダメ?」
「大丈夫。骨は拾ってあげるから」
「それ、俺死んでるって」
トモキは俺のツッコミには触れず、後ろに回って俺の肩を掴んで講堂へ向かわせた。何も言わないけど、絶対今こいつ笑ってる気がする。
もう一度、講堂の共用トイレに入ると、開きかけた二番目の個室の扉は完全に閉まっていた。それが逆に怖い。隠していた悪いテストの答案がバレて、おかんに笑顔で怒られている時みたいな。笑顔なんだけど、目が笑ってない時みたいな、威圧感のような怒気が扉の向こうから感じられる。花子さん、もしかしたら割と短気。俺は振り返って、小声でトモキに耳打ちする。
「で、なんて謝るよ?」
トモキは俺のシャツを掴んだまま少し前に出て扉を三回ノックし、俺の代わりに口を開く。
「花子さん、さっきはごめんなさい。本当に返事が貰えるとは思っていなかったので、僕たちから誘ったのにびっくりして逃げちゃいました。もし、許してもらえるのなら返事してもらえますか?」
今度は返事の前にゆっくりと扉が開き、長い黒髪を三つ編みで纏めた女の子が仁王立ちで腕を組んで現れた。俺たちより目線の高い彼女は見覚えのない古いデザインの制服を着ていて、むすっとした表情で見下ろしてくる。俺より身長の高い女の子なんて同じクラスにいないからびっくりしたけど、よく見ると彼女は地面から浮いていて足先が透けていた。幽霊は怖いみたいなイメージがあるけど、目の前の女の子は脅かしてくるでもないし、彼女が怒る理由もまぁ俺たちのせいなので、花子さんと対峙してるのに何というか怖いというよりも申し訳なさが勝つ。あと初対面のポージングって大事。彼女は仁王立ちをやめると息がかかるくらいの距離でなめ回す様に視線を動かし、俺たちを品定めする。それから、口元を右手で隠しながら、じゅるりと唾を飲み込んだ。
「今度怒らせたら、家まで憑いていくから。それで、君たちはあたしと何して遊んでくれるの?」
意外と話せそうなので、今度は俺が口を開く。
「実は、本当にいると思ってなかったから全然ノープランで。放課後、普段はこいつと校庭でPK戦したり、スマホのゲームで協力プレイするんだけど。あんた、サッカーボール蹴れたり、スマホ持ってたりは……痛ってぇ!」
トモキは遠慮なく俺の脇腹をつねった。
「とりあえず、道具無くても出来る遊びがいいよね。鬼ごっことかいいんじゃない? 花子さんは僕たちに触れられないだろうけど、捕まえるタイミングに口で言ってもらえれば分かるし」
「あたしは別に触れるよ?」
花子さんは近づくと、俺の鼻先をピンと指ではじく。
「ほらね? 幽霊でも意外と何でも出来るもん」
彼女は抗議するように頬を膨らませたけど、赤くなった鼻先を擦りながら俺は「触れられるなら、マジで怒らせたらヤバいじゃん」としか思えなくて、少し遅れてから苦笑いを浮かべるしかなかった。
「じゃあ、校庭で鬼ごっこしよっか。初めはケンちゃんが鬼ね」
「いや、何でだよ!」
「ケンちゃん、運動神経良いしハンデでいいじゃん」
隣にいるトモキも同じ恐怖を感じているだろうと思い込んでいた俺はびっくりして振り返るけど、既にあいつは笑いながら逃げ始めていた。それを見て花子さんも笑う。
「ちゃんと十秒数えてからきてよ。ケンちゃん?」
それから、俺たちは幽霊の花子さんと鬼ごっこするっていうよく分からない状況を楽しんだ。傍からみれば男子中学生が奇声をあげながら校庭を走り回っている異様な光景なんじゃ……って思ったけど、よくよく考えれば俺たちはいつもそんな感じだった。当の花子さんは浮いているからかそんなに足は速くないけど俺たちと違って疲れないし、自由に消えたり姿を現せたり出来るみたいで神出鬼没で何というかズルい。俺が指摘してもトモキは彼女を怒らせたくないのか、異様に花子さんの肩を持つし、ちょっと複雑だ。鬼ごっこ自体は全然楽しかったけど、俺たちが謝る時に彼女がふと見せた嘗め回す様な視線や、ほくそ笑む口元の歪みは、まだ俺たちの知らないとても邪な本質があるように思えてならない。それを、あの賢いトモキが見逃すとは思えないんだけど。花子さんと遊んでいるとき、あいつはいつになく凄く楽しそうで。結局俺はその日学校前で分かれる最後まで、トモキがどう思ってるのか聞けなかった。