1-1細い雲たなびく満月の下で三回唱えろ(前)
次の日である。茂蔵は満月をじっと見つめながらその時を待っていた。
もうお分かりだと思うが、三人称にバトンタッチである。これからは周囲の様子も少しは伝えられるだろう。茂蔵が暮らす田中家は、山が近いのどかな場所に、広い敷地を構えている。樹齢二百年を超える木が生えていても違和感ない庭が、どれほど立派であるか、田中氏がどのくらい財を成しているか、茂蔵は知らない。
夜になると静かな闇が広がる町でも、満月の夜は明るい。深い藍色の空の中に、白い光を放ちながら浮かぶ丸い月。周囲にはいつもよりは控えめに輝く星々が散らばっているも、雲は見渡す限りない。
茂蔵は夜が訪れる前から、じっと空を見上げていた。青空は夕暮れとなり、夜の暗がりが訪れても、一向に雲が現れない空をもどかしい気持ちで。
細い雲よ現れてください、と茂蔵は本当の願いの前に別の願いをしなければならなかった。今日の満月に条件が満たされなけば、次の満月を待てばよいのだが、希望を聞いた茂蔵は我慢が出来ない。そもそも彼は我慢をしないタイプだ。元気なのである。二百歳以上生きる長寿だが、木としての彼は、まだ若々しい気力で満ちているのだった。
曇り空であれば、分厚い雲ばかりで細い雲など出てこないだろう。晴れているからいいのである。ちょっと雲が現れてくれたらいいのである。頑張れ雲、一本でいい、月の近くに出てくれればいい、そして先っちょでもいいので重なってくれたらいい。後は全力で三回唱えるから。
「お願いします……」
思わず声にもれた時である。月の周囲の、淡い光が灯るあたり。夜空とは質感の違う、白い靄が見えた。
――雲かも知れない。
あまりに薄く、もしかしたら見間違いかも知れなかった。細い形状かも判断しずらかった。しかし、茂蔵は期待を込めた。
このまま月にかかってくれ。細くたなびけ。たなびけ。たなびけ。
血眼で見つめ、必死の声援を送る。
そうだいいぞ、細ーくのびろ、月に掛かれ、いい感じだ細い! 間違いなく細い雲! あっちょっと下がり過ぎ、そうそう上! あー太くなってきてない!? いいよ細くなった、いけ、かかれ、もう少し、お月様動かないで!
声に出ていたかもしれない。幹で眠っていた虫たちが蠢いた。鳥たちが飛んでいった。茂蔵は気にもせず、晴れた夜に現れた一本の雲に声援を送った。
やがて――ゆるやかに、しとやかに。
細い雲の先端が月の端に重なった。
茂蔵は息を飲んだ。
月に影が生まれた。雲のせいではない。よく見ていなければ気が付かないほどの、月明かりがわずかに弱まったような、ほんの少しの暗さだった。
茂蔵は心の中で、自分でも知らぬうちにつぶやいた。
(私を早く移動できる体にしてください)
三回。
彼はきっちり三回唱えた。
細い雲は今やはっきりと、月の真ん中を横切っている。
が、何かが起こったようには思えなかった。
満月、月明り、たなびく雲、いつもの夜より少し明るい藍色の空。ささやかな風。どこかの葉と葉が優しくこすれる音。
体を動かそうと試みた。動物のように、瞬く間に今までいた地が見えなくなる速さで動くことが出来ることを想像した。
しかし、茂蔵の幹も根も、今までと何一つ変わらなかった。
ぎゅっと心が固くなる。何も変わらない。願い事は叶ったりしない。当たり前だ、こんなことは全部嘘だ。
月を見上げることを止めて、うつむいた茂蔵の根元がふいに陰った。月の陰りと同じもの、だとなぜか確信した。
顔――のようなものを上げた茂蔵の上空、夜空いっぱいに、大きな大きな人が一人浮かんでいて、彼もまた茂蔵を見下ろしていた。
茂蔵は理解していた。大きな大きな存在が現れてくださったのだ。
神さまが。
「あなた様は」
茂蔵はたずねた。
夜の神だ、と大きな存在は言った。
つづく