序章 枝葉茂蔵の日記
私の名前は枝葉茂蔵。身長四十五メートルくらい、年齢は二百から二百五十歳、体重と性別はよくわからん。
住まいは田中さん家の南東の一画、よく日の当たるいい場所だ。お隣とは程よく離れており、風に乗じて全身を揺らしてけん制し合う必要もない。何より私は周囲の誰よりも太陽に近いため、誰よりも常に満腹満足である。地面は適度に湿った養分豊富な土が、奥深くまで続いており、心ゆくまで体を伸ばしている。
そして、思うのだ。決してうぬぼれではなく、思うのだ。
私は田中さんに結構大切にされている。
だってである! 私は田中さんの前の前の前の――何代も前、最初の田中さんと一緒にいた、唯一の杉の木だからである。
少し前の話をしよう。私の最初の記憶である。まだ、人間の子どもでもぽっきりと体を折ってしまえるような若木の頃だ。田中さんは私を根の周囲の土ごと掘り出し、なにやら移動を始めた。田中さんの手に包まれながら、今までいた地を離れながら、私は見た。けたたましい音と共に、周囲の大きな木々がバタリバタリと倒れていくのを。
これが私が初めて〈移動〉を体験した日である。
私は数度引っ越しをした。むろん、そのたびにすくすく育って大きくなった。若輩者だった私も、お引っ越しをするごとに年下の者が増えた。今の家に引っ越した時には、誰よりも大差をつけて年上になっていた。
だてに二百歳以上生きていないので、このように人間の言葉も話すことが可能だ。田中さん家には田中さん一家以外にも人が良く訪れた。何か話しているが何を言っているかわからないのがもどかしく、百年ほど前から、彼らの言葉を聞いて習得に励んだ。特に私は大きな体の包容力を見込んでもらい、根元でゆっくりしていく者が多い。人間には話せないことも私には話せるようで、言葉を覚えて以降の歴代田中さんの初恋相手を、記念に脳内リストアップさせてもらっている(脳内、はもちろん言葉のあやである)。
言葉を知るにつれ、人間の世界のことも知った。今ではちょっとした談笑くらいなら出来る自信がある。
しかし一つだけ問題がある。私は声が出せないのだ、杉の木だから!
励ましや共感の言葉の一つくらい、かけてやりたいこともあるが、人間側もびっくりするかもしれないので、大きな体を貸してやりながら、そっと見守るだけにしている。
ここまで聞いた貴方は気づいただろうが、私は順風満帆な人生を送らせてもらっている。大切にされていることにいい木になって、いや、いい気になって、ずっと田中さん家で生きて来た。
そんな私だが、ひっそりと実行していることがある。
実はちょっとずつ田中家の外に移動しているのだ。
おいそこ、木は生まれた場所にずっと突っ立っているものだと思っているか? 我々植物界隈では常識も常識なのだが、寿命の長い植物は移動できるのだ。
ふふ、ドヤ顔をさせてもらおう。正確に言うと、全ての植物は移動できる。ただし速度が動物とは違う。例えば人間一歩の距離を、我々は数十年かけて移動する。全ての植物は移動できるのだが、寿命が短いと数ミリ移動する前に寿命を迎えてしまう。私たちにとっては立派な移動だが、動物界隈の皆さんから見れば、移動とは言えないだろう。寿命が長い植物でないと、景色が変わるほどの移動は難しいと言うことだ。
ちなみに動きたくなければじっとしている。「うちの庭の木はずっと同じ場所に生えてるけど?」などという顔したお前、単にその木が動いてないだけだからな! お前んちがすっからかんになる可能性も秘めているんだぞ。そのときはぜひ温かく見守ってやってくれ。
話しは戻るが、とにかく私は移動をしている。なぜかと言えば――旅をしようと思っているからだ。
なぜ旅に出ようと思ったかって? 貴方は旅行に行きたいと思わないか? 「青い海と白い砂浜」で遊びたいとか「太陽光食い倒れツアー」をしたいと思わないのか?
いいじゃないか旅に出たって……そういうことだ。もう聞くな。
旅は五十年前から始めた。実は初期地点から人間の一歩半くらい移動しているのだが、誰にも気づかれていない。毎日私を見に来る田中さんですら、ご自身が生まれる前から私が移動し続けていることに全く気がついていないようだ。
今日も元気に移動していると、雀の雀吉が私の枝にとまった。雀吉は友人の中でも長い付き合いだ。ちなみに、雀の寿命が脳裏に横切った貴方、何も間違っていない。雀の寿命は三年ほど。雀吉は初めて知り合った先代雀吉から数十代目になる。私から見れば、代が変わりすぎて何が何だかわからないから、初代雀吉から現雀吉までなんかもうまとめて「いち友人」としている。昨日今日で世代交代している感覚だ……お前らもっと頑張れよ……
「よお。相変わらずおそい足してんなあ」
口を開くなり、嫌味なことを言うではないか。
「む。お前らこそ寿命が短すぎるんだ」
「おれ今年で三才なんだああああ死にたくないいい」
言い返したら、雀吉は一瞬で泣きそうになった。あわててフォローに入る。
「私は雀吉を全世代で一人にカウントしてる。そう考えると長生きだ」
「ふざけんな! もっと早く歩ける方法教えに来てやったのに言わねえぞ」
「え、なんですかそれお体大事にしてほしい雀吉さん」
「調子いいなほんと……なあ茂蔵、そんなスピードで旅行とかバカだと思うんだ。あと数百年かかって家を出たところで、人間にとってはただの怪奇現象だし、良くて神がかった木だとか噂されて見世物になるだけだ。んで結局、脇の道に出たあたりで「さすがに邪魔」ってひっこ抜かれて戻されるか、お払いのあと伐採かの二択だぜ」
「いやー!」
私は悲鳴をあげた。旅のわくわくが一気に絶望となる。私はただ、ちょっと旅に出たいだけなのである。
「どうしてなんだ……別に永久にどこかへ行こうというんじゃないんだ。ちょっと旅行して、帰ってくる予定なんだ」
「何千年かけるつもりだよ……さすが木、時間感覚が果てしなく長いな。なあ茂蔵。人間に見つからないように、夜のうちに家を脱出できたらいいと思わないか」
「いい、いい」
「その速度ほしいだろ?」
「ほしい、ほしい」
「いい話しを持って来たんだよ」
得意げに雀吉は胸を張った。素晴らしい展開である。やはり私の日ごろの行いが良いからか。物語の始まりとは、こうでなくてはならない。
「ありがとう雀吉!」
「耳の穴かっぽじって聞け」
「耳の穴ないけどわかった」
「どこでおれの話し聞いてんの?」
「わからん。雀吉もなんで私の声が聞こえるんだ」
「しらねー」
「お互い様だな」
「まあいいや。いいかよく聞け……」
雀吉は声をひそめて、私の耳があったらここだろうという樹皮にくちばしを寄せた。
「これは森の大樹さまに聞いた話なんだけどよ。満月の夜に注目しろ。満月の日に、細い雲が月の真ん中を横切ったら、全力で三回唱えるんだ。『早く動けるようになりたい』って。すると願いがかなうらしいぜ」
「なんと……」
森の大樹様と言えば、ここより遠くにおわすという、森羅万象を身の内に取り込めたお方らしい。さすがの私も、植物ネットワークで何度も耳にしている。あの方が言うなら間違いない。
「移動し放題になれるのか」
「でもおまえ、願いが叶っても、移動は夜の間だけとかにしろよ。昼にでっかい木がすげえ速度で移動したら人間がビビるぞ。あいつら小心者だからな。伐採される、即伐採」
「いやー!」
わめいた瞬間、はっとした。
「満月は……明日じゃないか! 細い雲がたなびくことを期待しよう。教えてくれてありがとう、雀吉」
「いいって。おれは空を飛べてどこに行くのも自由。五十年で一歩半しか動けない茂蔵に情けをかけてやろうと思ってな」
「雀吉……お前ってやつは本当に、なんていいやつなんだ……私もお前の寿命が延びる方法を知っていればいいんだけどな……そろそろ平均寿命のお前の延命方法……」
「そうだった死にたくないいいい」
枝の上でもだえる雀吉を眺めながら、私は早く明日の夜にならないかと、今からわくわくしていた。
この時、私はまだ知らなかった。何気ないきっかけが、私を長編大スペクタクル来春映画化決定アドベンチャーへといざなうことも知らずに――
――ちょっと言ってみただけです――
つづく