きっかけ
「いつ……戻ってきたの、しずくちゃん」
訊ねると、しずくは去年の一学期の時と答えた。一年の時は別々のクラスだったから、ほとんど面識がなかったのはそのせいだろう。引っ越した理由も聞きたかったが、それはやめておいた。
「わたし、たっくんと同じクラスだよ」
「もう高校生なんだし、たっくんはやめてよ……」
照れながら拓は答える。一年の時のような自己紹介をした覚えはないが、名前を呼ばれることもあるといえばあるので、そのときに気付いたのだろう。
「ごめん、気付けなくて……」
「いいよ。私も森嶋くんに声かけられなかったし」
「二人のときは、拓でいいよ」
そう言うとしずくは、わかったと笑顔で頷いた。
「けどこんなところで弁当食べるなんて……ちょっと意外だったな」
「そう……?」
しずくは小首を傾げた。拓は頷いて言う。
「だってしずくちゃん、明るいし……友達だってすぐにできると思ってたから」
「幼稚園の頃はね。拓くんがいてくれたし、人も少なかったからなんとかやってこれたんだ。けどそれから先は全然ダメだったなあ……休むとすぐに噂になるし、変な子だって思われて、ちょっと学校いけなくなって」
ああ、自分もそうだったと拓は思った。学校に行けなくなることはなかったけど、居場所なんてどこにもない気がした。同じ空間にいても、こうして同じ息を吸っているのかわからないくらい、見える世界が違っていた。
中学になると、逆にそういった人間はどんどん空気に埋もれていく。存在がないみたいに周りでは認識されて、いざ発言をしようとするものなら、心底驚かれる。
「明るかったのは……拓くんのおかげだよ」
「いや僕の方こそ……まともに話せる女子が君以外に全然見つからなくて」
久しぶりに、幼稚園の頃に戻ったようだった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。二人は同時に立ち上がって、拓はしずくの方を見つめた。
「先に行って」
わかったと頷いて、拓は教室に戻った。すると出るときにはくぐもって聞こえていた教室の中の声が、前よりもはっきりと耳に届くようになっていた。
雨のせいかな、と拓は思った。
六時限目の授業が終わると、いつもなら拓は誰よりも早く帰るのだが、その日はずっとしずくの姿を追っていた。教室での彼女は、言っていた通り寡黙で、影が薄かった。二人の時に見せた明るさは微塵も感じることなく、俯いたまま授業を受けていた。
「あーあー、中練だりーよー」
サッカー部の男子が教室を出る去り際に周りにいた仲間に愚痴をこぼした。バスケットボール部やバレー部など、室内で練習する部活にとっては大した問題ではないが、屋外スポーツの部活にとって、雨は嫌う対象以外の何物でもない。
それが、直接的に彼女を非難しているわけではないとしても、彼女が雨女である以上、普通よりも悪い捉え方をしても不思議じゃなかった。
教室も人が少なくなってきて、多少動いても目立つことはない状況になると、拓は立ち上がってしずくの席に近づいた。
「空本さん、帰ろう」
「うん……」
——必要以上に罪悪感を感じていなければいいけど……。
拓は、昇降口前で大きな人だかりができていることに気づいた。おそらく、傘を持ってきていない学生たちだろう。
「空本さんは傘もってる?」
聞くと彼女は無言で頷いた。当たり前だ、聞く必要のないことだった。拓はリュックから折りたたみ傘を取り出した。このまま学生たちの陰鬱な空気の間を通るのも心苦しいと思っていると、目の前で声がした。
「あっ、あのっ……先輩、いっしょに帰りませんかっ!」
それは、全く知らない女子生徒だった。先輩と言っているので、おそらく一年生だろう。その女子生徒は、自分の折りたたみ傘を開いてその先輩にめがけて差し出していた。
いわゆる「相合傘」である。するとその先輩は、「いいよ」と女子生徒の傘に入った。
おおーっという歓声が上がる。陰鬱な空気が一変して、幸せな空間に包まれた。
拓も、公衆の面前でそれを実行した女子生徒の勇気に拍手を送りたい気分だったが、それ以上に、となりの彼女の表情があまりにも先ほどまでと違っていて、拓はその時、何か自分にできることがあるかもしれないと思った。