天気
遠い彼の背中を追いかける。逃げようとする彼に、忘れてきた傘を届けるように。
「拓くん、待って!」
拓が屋上に続く階段を上がった。そして曲がってきたしずくに向かって叫ぶ。
「どうして! 僕は君にあんなことを言わせるために助けたんじゃない!」
拓の全霊を込めた叫びをしずくはまっすぐに受け止めた。
「うん、わかってる……けどごめんなさい。我慢できなかった」
子供の言い訳のように言うと、拓が呆然としずくを見つめる。
「ねえ、覚えてる? あなたが昔言ってくれたこと」
拓が顔をしかめると、しずくはあのとき、と言った。
***
それは、いつか幼稚園で押し入れに閉じ込められたときだった。ふすまに閂をされて、引っ張っても叩いてもびくともしなかった。そのときはさすがに苦しさが限界を超えて、強がることもできず涙がぽろぽろと流れた。
すると、とんとんと扉を叩く音が聞こえて、やがてふすまが開いた。
「たっくん……」
助けに来てくれたと思い、彼が手を差し伸べてくれるのを待っていると、拓は何を思ったのか押し入れに入ってきた。そしてなぜかふすまを閉める。
しずくは、なんでと拓に問いかけた。
「ここ、僕のひみつの部屋なんだ。イヤなことがあったら、ここにきて全部吐き出すんだよ。音も漏れにくいし、便利なんだよ」
楽しそうに語る拓に、しずくは泣きじゃくるように言った。
「わたし、いじめられてるの。コーキくんたちに」
こーきって誰と、拓はまったく興味のない様子だった。
「みんなに雨女ってバカにされて。イヤなの……もうしんじゃいたい」
「そうなんだ」拓はさも興味なさげに言った。「けど雨女って、いうほど珍しいかな?」
「どういうこと?」
「本で読んだんだけど、日本には雨女とか雨男って言われてる人たちが、人口の三割くらいいるらしいんだ……たとえば人口が一億人なら、だいたい三千三百万人がそういう人達で、三十万人くらいの町でも、だいたい十万人はいるってことなんだよ」
難しい話はしずくにはわからない。教えてほしいのは雨女とバカにされないための方法で、日本に雨女がどれだけいるかではなかった。
けれど拓は、難しい問題を解くように楽しそうに続きを語る。
「僕はこれに納得してるんだ。これは、確率と統計の問題なんだよ。日本は一年間のうち、百日近く雨の降る地域なんだ。これはサンブンのイチの確率で雨に出くわす人がいるってことなんだよ」
日本人全員が同じ日にまったく同じ行動をとるなら話は別だが、そんなことはあり得ない。ただし、同じタイミングで家を出る人もいれば、帰る人はいるだろう。一日のうちに一億人近くの人間が別々の行動をしているなら、二十四時間で一億通りの行動パターンがあり、そのうち雨と出くわす行動パターンがあるのは、何ら不自然なことじゃない。それが年間で何回重なるかなんて、計算はできないがありえない話じゃない。
「もし毎日外に出て一年中ずっと雨の日が続くようなら、その時は僕が間違ってる。けど、もしそうじゃなかったら、雨女なんて現実には存在しない。あるのはサンブンノのイチの確率を引き当てるのが強い人達なんだ。じゃんけんと同じさ。逆に言えば、じゃんけんで負けたことがない人と同じくらいの運でしかないんだ……そんなの、大した自慢にもならないでしょ」
この時の自分は、拓の言っていることが半分も理解できなかったが、あとになって調べてみたら、似たようなことがネットに書かれていた。
しずくは階段上に立つ拓に向かって言った。
「雨女なんて、周りが……私が勝手にそう思ってるだけ……その通りだった。だから私は周りにどれだけバカにされても大丈夫でいられた。苦しんでるときは、あなたが傘を差してくれた……そんなあなたが傘を忘れたときくらい、わたしが代わりに差してもいいでしょ?」
すると拓が、屋上に飛び出した。
「あああああああああああああああああああ!」
屋上で彼が叫ぶ、想いを声に、空に向かって放つ。けれどそれは雨音でかき消され、自分以外、誰の耳にも届かない――それでいいのだ。
しずくは拓の後を追って、屋上に飛び出した。傘は忘れてきたけれど、隣で、同じように叫んだ。心が叫びたがっていたのだ。
やがて、雲の隙間に晴れ間が見えた。
***
社会人の朝が、家で始まるとは限らない。同僚が買ってきてくれた朝食のコンビニ弁当を自分のデスクでもさもさと食べていた拓は、男性社員たちの騒ぎ声に顔をしかめた。
居残りが続くと精神的にもおかしくなってくるのかと思いたくなるが、これは日常の風景である。それはさもアイドルを応援するオタクのような熱気で、拓の方にも伝わってきた。「おい森嶋、おまえもこっちこいよ」
同期の田村からそう呼ばれ、僕はいいよと拓は首を振った。仕事マジメな拓を目の前に、何人かの同僚は誘うのを諦めたが、田村はいいからと強引に拓を連れ出した。
男性社員は一台の4Kテレビを目の前に大いに盛り上がりを見せていた。彼らが注目していたのは、テレビ画面の中のとある女性キャスターである。
『みなさんこんにちは、お天気キャスターの空本しずくです!』
アイドルのコンサートよろしく、キャスターの名前を叫ぶ男性社員たち。拓は細い目を向けながら、画面の彼女を見つめた。
『本日の天気は晴れの予報です。しかし午後からはところにより雨の降るところもあります。みなさん傘を忘れずに』
「はーい」と、男性社員たちは自分の折りたたみ傘を上に掲げて返事をする。キモイなあと拓は思ったが、画面の中にいる彼女を目の前にして言葉を飲み込んだ。
彼女が続けて言った。
『はい、それでは本日の【雨女の嫉妬】のコーナーです。お手紙を読ませていただきます。お手紙をくださったのは二十代の雨女さんです。せっかくの遊園地なのに雨に降られて何もかも台無し……彼氏にも振られてしまうのか不安……だそうです。はっきり言って羨ましいです。わたし、家族と遊園地にも言ったことありません。だから大丈夫。彼氏の方が優しい人なら、きっとおうちデートも二人で楽しめます。だから頑張ってください』
「いまどき遊園地に行ったこともない女性キャスターってのも珍しいよな」
「本気で悔しがってるし、なんか……こっちこそ応援したくなるんだよな」
拓は真剣なまなざしを向ける男性社員たちを見つめた。画面の中の彼女が、二通目の手紙を読む。
『次は同じく二十代の……雨男さんからのお便りです。彼女いない歴イコール年齢のさえない男です。こんな自分でも好きになってくれる女性は現れると思いますか?』
けっこう切り込んだことを聞くなと拓は思った。以前の彼女だったら、答えられなかった質問かもしれない。画面に視線を向けると、彼女は手紙を降ろして拓達を見つめた。
『出会いは人それぞれです。わたしも彼氏いない歴イコール年齢のさえない雨女なので、お辛い気持ちはわかるつもりです。だからといってこの場で彼氏募集はしませんが』
軽く笑みを浮かべて彼女は笑った。拓は思わず、右手で口元をおさえた。
『けれどわたしが出会った素敵な方々は、たとえ彼氏彼女がいなくても素敵な人達ばかりです。あなたの素敵な部分をわかってくれる人が見つかれば、自然とできると思います……けど、雨だからといって外に出ないように何もしない間は相手はあなたの良さには気付いてくれないと思います。雨でも傘を差せばどこにでも歩いて行けますし、傘を忘れた人にはあなたの傘に入れてあげてほしいと思います……こんな感じでいかがですか?』
最後、自信なさげにカメラを見つめた彼女に向かって男性社員たちが拍手を送った。
『さて次は、あなたの傘に入れてあげたエピソードです。まず一人目は——』
ぷつりと、テレビが消える音が響いた。
「モテ男どものエピソードなんて俺たちにはクソくらえだ」
そう毒ついて、男性社員たちは散り散りに自分たちのデスクに戻った。
拓はやれやれと肩を竦めてガラス張りの外を眺めた。青空に少し雲がかかったような天気だ。午後には雨が降るかもしれない。傘は持っているので、昼は外で食べようと思った。
すると懐で携帯がプルプルと音を立てた。拓は慌てて携帯を取り出し耳にあてる。
「もしもし……うん……久しぶり。元気だったよ……え、明日?」
拓は少し戸惑った。少し急だったが、明日は休みで特に予定もない。
「うん、たぶん大丈夫……それじゃ」
拓は携帯を内ポケットにしまおうとして、ふと明日の天気が目に入った。
明日は雨らしい。うーんと悩ましい顔を拓は浮かべた。雨でも彼女なら喜んでくれるだろう。晴れでも曇りでも、きっと彼女が側にいれば自分は気にせず楽しめる。
けれど再会は、やはり晴れがいい。彼女とは一度も、晴れた日に顔を合わせたことがなかった。彼女と明るい日差しの下で遊ぶことが、拓の子供の頃からの夢だった。
拓はふと、良いことを思いついたように顔をあげた。昔から一度も明日の天気を占ったことはない。気にしたこともない。けれど今は――願っている。
革靴のつま先をトントンと鳴らし、かかとだけ外に出す。そして、いつもは見せない無邪気な笑みを浮かべて、拓は足を高く上げたのだった。
「あーした天気になーれ」
おわり