雨日
翌朝は昨日までの大雨が嘘のような晴れ間が広がっていた。
拓は、早々に朝食を済ませるとしずくのいる医務室を訪れていた。
「しずくちゃん……起きてる?」
「うん……」
カーテンの向こうから声が聞こえて、拓はほっと息を吐いた。
「事情は聞いてる? 僕たち、早退することになったんだ」
「うん……けど、たっくんまで早退しなくてよかったのに」
「僕は……もうこの修学旅行を楽しむ資格がないから」
「どうして……?」
拓は、だって、と言いそうになったが、言わずに喉の奥にしまいこんだ。
「ううん、なんでもないよ……。それよりさ、君の体調がよかったら、今日の午後、特別に外に出ていいって言われたんだ」
「けどわたし……行きたいところなんてない……」
「だったら僕に付き合ってよ」
カーテンで素顔は見えないが、しずくは拓の強いまなざしを感じた。
「うん、わかった……」
「じゃあ午後」
拓はそう言って病室をあとにした。
***
昼食を一人で済ませ、拓はホテルのロビーでその時を待っていた。
俯いて床を見つめていると、声が聞こえて拓は顔を上げる。
「隣いいか?」
担任教師は、拓が頷くと隣のソファーに腰を下ろした。
「――のヤツな、白状したよ」
「そうですか……」
「やったのは――と男子二人。町田は参加しなかったみたいだな」
理由は拓の想像した通り、嫉妬のようなものだった。
拓は、町田がそれを知らなかった理由がなんとなくわかった。彼女は個別に計画を男子二人に伝えていたのだろう。少しイタズラしてやろう、それくらいの空気だったかもしれない。
「ベランダに運びだすところまでは男子らも手伝ったが、入室禁止の札……あれは――の独断だった」
「本気だったのは、――さんだけってことですか?」
「そういう言い方をするな……本人は魔がさしたって言ってる」
魔……そんなもので人の生死が左右されてはたまらない。たとえイタズラでも、外に人を放置したまま無事でいられるはずがないのは誰だって容易に想像できる。
だから最後の行為も、イタズラだとしてもそこに悪意が含まれていなかったとは拓には到底思えなかった。
「それで……他には?」
「ああ、お前とのことだが……あいつもこれ以上問題は大きくしたくないと言ってる。謝罪もいらないとのことだ」
「そうですか」
「お前からすれば、どっちだとしても不本意だろうが」
ぽつりと担任教師が言った言葉に、拓は珍しく反応した。
「お気遣いいただきありがとうございます。先生」
「ああ、じゃあな」
担任教師は席を立った。拓はまた視線を床に下ろした。
そして数分後、奥からしずくが姿を現す。拓は立ち上がってしずくに駆け寄った。
「体調は大丈夫?」
「うん、それでどこに行くの?」
「それは……行ってからのお楽しみだよ」
「なにそれ」
しずくがくすりと笑った。
***
喫茶店『Rainy days』は、最寄り駅から徒歩五分の場所にあった。外観は花屋で、どこか山奥にある小屋のような印象だが、意外にも店長は三十代の男性である。
立ち寄る客は幅広く、女性が四割ほどを占めている。そのほとんどが初回からのリピーターである。
小林静香はコーヒーカップを片手に窓の外を眺めていた。朝はあれほど晴れ間が見えていたというのに、いつの間にか……雲に覆いつくされている。
「私のせいじゃない……」
それが彼女の口癖だった。小中高大と大事なイベントになると天候に恵まれないことが彼女の最大のコンプレックスである。にも関わらず、就職したのは大手のイベント会社だった。幸いスタッフとして現場に駆り出されることは少ないが、大雨でイベントが中止になると人一倍落ち込んでしまう。
「まーたしょうもないことで落ち込んでんの?」
そう声をかけてきたのはこの喫茶店のマスターである。元は外資系企業のエンジニアだったが、脱サラし二十九歳のときにこの喫茶店をはじめた変わり者だった。
「ほっといてください」静香はそっぽを向いた。
「ここまでくるともう職業病ね……そんなに辛いなら転職したら?」
「でも……仕事はけっこう楽しいんですよ」そう言って静香はコーヒーを呷る。
「イベント会場の設営とか、現場じゃなくても大変さは変わらないし、準備が終わっても、大丈夫かな……って心配になるのは天候だけじゃないし」
雨が降ってもやるときはやるし、アーティストも良い意味で狂ったような人が多くて、「雨なんて俺たちのライブの熱気で吹き飛ばしてやる!」と若手グループが意気込みを語ったときには危うく心を奪われかけた。
私が勝手に悩んでるだけで、周りは意外と気にしていない。妙な責任感が功を奏して、若くしてプロジェクトリーダーに抜擢されたのは静香の数少ない誇りだった。
「だから、怖いし落ち込むけど……これで仕事を諦めるのはもったいないかなって」
「そう」マスターは笑って静香のテーブルの上にカップを置いた。「良い話聞けたから、サービス」
静香はコーヒーカップを受け取ってにっと笑った。
「ありがとうマスター、できる男!」
「男って言わないで」
すると、ちゃらんと入り口の扉が開いた。マスターが振り返り、「いらっしゃい」と独特な声で言うとやってきた高校生の男女二人組は、びくりと肩を震わせてその場に立ち止まった。
「ちょっとマスター、おっきな声出したダメだって。マスターの大声はほぼ威嚇なんだから」
「失礼ね」マスターはそう言って高校生二人に近づいた。「いらっしゃい。ここはデートには向かないお店なんだけど、大丈夫?」
はい、と男子の方が頷いた。女子はまだ少しうろたえている。
「そう、じゃあどうぞ入って」
マスターに案内され、高校生二人が共有スペースへとやってくる。共有スペースはテーブルやイスの配置こそ普通の喫茶店と同じだが、座る席はいつでも自由に変えられることが特徴だった。
「ココは来客同士の交流を目的としてる喫茶店なの。お客さん同士が共通の悩みを持っているから、それをお互いに話し合って、一緒にスッキリしましょっていうのがコンセプトよ」
「共通の悩み?」女子の方が首を傾げた。マスターが答えようとすると男子の方が先に答えた。
「雨女だよ」
「ええ、知っていてくれて助かるわ。悩みはお客さんによるから、もちろん雨女だけじゃないけど、お店の紹介では『雨女さん専門』ってことで公表してるの」
女子の方が少し驚いたような顔をした。マスターはなるほど、と内心頷いて男子の方に訊ねる。
「ここには何か目的があって?」
「まあ、いろいろ話を聞ければと思って」
「そう……だったら彼女が良いわ」マスターは窓際の席に座る静香を指差した。「あの子もう三年も通ってるベテランだから。色々教えてくれるわよ」
「ちょっとマスター」静香は立ち上がって言った。「そんないきなり言われても無理だって」
「大丈夫よ。あなたが初めて来たときもちょうどこんな感じだったんだから」
マスターはそう言って高校生二人をテーブルのある席に案内した。そして並んで座らせると、向かいに静香を強引に引っ張って来る。水の入ったコップを高校生二人の前に置いた。
「それじゃ、じゃんじゃん悩み相談してね!」
それだけ言ってマスターはカウンターに戻った。
「ええ……丸投げ?」と静香はマスターを睨みつけた。こんな日まで他人の世話を焼きたくないと、気だるげに前を見つめると目の前にいた二人の様子に自然とほんの少し背筋が伸びる。
「あの、突然すみません」と男子の方が言った。物腰柔らかく、大人びた印象の高校生だなと思った。
「僕は森嶋拓っていいます。彼女は空本しずく――雨女です」
芯のこもった強い視線に静香は一瞬気圧される。雨女と紹介された少女は俯いた表情のまま会釈した。
「こんにちは……」
静香は、自分もかつてはこんな感じだったのだろうと思った。田舎から都会に出てきて、右も左もわからないまま迷い込んでこの店にやってきた。マスターはさぞかし扱いづらかっただろう。この子たちの方がまだ礼儀正しい。
「こんにちは。わたしは小林静香、さっきのマスターが紹介してくれたみたいにかれこれ三年ここに通ってるわ。だから聞きたいことにはだいたい答えられると思う」
静香は後輩でもここまで親切に対応したことはなかった。それでも、いま目の前にいる二人の高校生は、明確な目的があってこの店にやってきたのだ。ならば先輩として、力になりたいとそう思った。
「聞きたいことはどういうもの?」
静香は私服のカーディガンをスーツのようにぴしりと引いた。すると少年が思い切ったように聞いてきた。
「あの……雨女って他にもいるんですか?」
静香は目を見開いた。思わず笑みがこぼれる。ぽかんとした高校生に向かって、「ごめん」と一言謝罪して答えた。
「いるよ、もちろん。わたしもそうだもん」自分に指を差して静香は笑みを浮かべる。
男子高生が、そうですか、と安心した表情を見せる。静香は女子高生の方を見つめた。
「あなたも雨女って……本当?」
「はい……」女子高生が頷く。
「そう……大変よね。私も大変だった、だから気持ちはよくわかるわ」
「あの……静香さんはどうして三年もここに?」男子高生が訊ねる。
「そうね……まあマスターが良い人なのはあるけど、ほかには色んなお客さんと出会えるからかしらね。今日はまだ来てないけどね」
静香は、今まで出会ってきたゆかいな客について高校生二人に話した。
「一人はそうね……雨女をビジネス化しようとしてる人とか」
高校生二人が首を傾げる。
「簡単に言うとね、雨女でも楽しめるテーマパークを作ろうとしてる人なの。ほら、雨女って遊園地とかでも雨が降っちゃうでしょ。だから室内にテーマパークを作ったらいいっていう人がいたの」
そういえばと静香は女子高生の方を見て言った。
「その人テーマパークのキャストを探してたのよね……」
「え、いや……わたしはそういうのは……」
「かわいいと思うけどね。他にも雨女だけを集めたアイドルを作ろうっていう芸能プロデューサーもいたし……あ、そうそう。一番ヘンだったのは雨女を研究してるおじさんね」
研究? と高校生二人が首を傾げる。それはそうよね、と静香は言った。
「その人ね、雨女を百人集めて砂漠化問題を解決しようとしてるのよ。ちょっとおかしいでしょ」
高校生二人が苦笑いを浮かべる。
「雨女じゃない人もたくさんいるんですね」男子高生が言った。
「そうね、そっちの割合が多いかも……変わり者ばっかりよ、実際」
静香は笑いながら言った。
「けどそういう人たちの話を聞いてるとね、たとえ冗談でも気持ちが楽になるのよ。ちょっとバカみたいだけど、それでも必要としてくれる人がいるとね」
「必要としてくれる人……」女子高生が呟いた。
「そういう将来を見つけられたらいいわよね」
少しは彼らの力になれただろうか。静香は少し不安に思ったが、女子高生の顔は少しだけ最初と違っていた。一つ何かに気付いたような、目に光が宿っている。
やがて、男子高生が頭を下げて高校生二人は立ち上がった。
「ありがとうございました」
「うん、少しでも力になれたら嬉しい……がんばってね」
静香は女子高生の方に向けて拳を握った。女子高生はぺこりと頭を下げた。
「どうだったの……彼ら」マスターが席に近づいてきて静香に訊ねる。
「私の頃より全然礼儀正しかったですよ。だからたぶん大丈夫です」
「ああー、あの頃のあなた……髪もボサボサだし、声も小さいし、ずっと泣いてばっかりでそれはもうひどかったものね」
「今はもう違いますよ。私もそれなりに成長したんですから」
そう言うとマスターは、そうねと頷いて言った。
「あなたでも成長できるんだから、彼女も大丈夫よね」
ひどい! と静香は笑った。