代償
担任の男性教師は後に、その他の先生たちにも連絡し事情を説明した。ただ、いじめがあったことは明言せず、体調不良の女子が一名出たとだけ報告する。
やがて、教師陣がホテルに常駐している医務員の女性と一緒にやってきた。医務院の女性がしずくを見るなり、側にいた拓に訊ねる。
「あなたが処置したの?」
拓は頷いた。「体だけは拭かなきゃと思って……あの、彼女は大丈夫なんですか」
「心配しないで」医務員の女性が言った。「体は冷えてるけど、対処が適切だったから大事には至っていないわ……けど、自分一人で何とかしようとしないで。賢明だけど、誰かに連絡することも忘れないで」
「はい……」
拓が頷くと、医務員の女性はにっこりと笑った。そして検診の後、部屋にいた担任教師に報告する。今日一日は休養する必要はあるが、病院に行くほど深刻でもない。
医務員の女性は、別に部屋を取る必要があることを教師陣に伝えた。他の生徒がいる空間だと落ち着かないだろうという配慮からだった。
しかし……と教師陣はあまりそれを受け入れがたい様子だった。他に部屋がないわけじゃない。そうなれば宿泊代を二倍払わなければならないのだ。もちろん、それを生徒に払わせるわけにはいかない。
「では、ホテルの医務室を貸し出します。それでしたら問題ないでしょう?」
それなら……と教師陣もしぶしぶ受け入れた。すぐに雫は外に運びだされた。
結局、残ったのは二人だけだった。
「……先生は、行かないんですか」
拓は座り込んだまま担任教師に視線を向けた。担任教師は、拓の方を見て言った。
「――のこと、聞いたぞ。どうしてあんなことをしたんだ」
「どうして……ですかね、僕にもわからないです」
拓は薄ら笑いを浮かべた。お前はそんな生徒じゃないと思っていたと担任教師から聞かされると、拓はじゃあと担任教師に言った。
「――さんたちは、先生にはどう見えてたんですか」
普段の彼女らの様子を見ていれば、いずれ問題が起こることは想像できただろう。拓なんかよりも印象に残る生徒なんていくらでもいる。
「結局、問題が起きてからじゃないと先生は何もできないんだ」
拓に担任教師を責める気持ちは微塵もなかった。他人のことなんて完全に理解できるはずがない。生徒は表面的に生徒を演じている。それは集団の中の役割のように、クラスが円滑に機能するためのものだ。
無害な生徒が、教室の外でも害がないとは限らないのだ。
「俺は大人だからな。お前になんて言われても大して傷つきゃしないが、――の方は冗談じゃ済まされないぞ。親御さんにも話さなきゃならん」
「その時は、彼女のいじめの件もちゃんと伝えてくれるんですよね」
「問題を大きくするな……森嶋、俺が言いたいのはだな……」
「僕は覚悟を持って――さんを罵倒しました。だったら彼女にも、しかるべき処罰があるべきだと思います」
担任教師は拓の横に座り込んだ。
「森嶋、お前はまだ高校生だが他のやつよりも幾分賢い。俺の時なんて、お前みたいにちゃんとした意見なんて持てなかった。自分より力の強いヤツの意見に流されてばかりだった」
担任教師は、だからと拓に向かって言った。
「俺は、教師として取るべき行動をとる。一番は生徒の心のケアだ。特に学校外での問題は学校の存続に関わる。いじめなんてもってのほかだ。普段教師は何をやっているんだって、あちこちからクレームが殺到する。だから俺たちはできる限り問題を小さくする。おそらく今回外部に出るのは、修学旅行中に一人の女子生徒が男子生徒と喧嘩になって精神的ダメージを負った。もう一人の女子生徒は体調不良を起こした……これだけだ」
その裏に女子生徒間のいじめがあって、それを知った男子生徒がいじめた方の制裁に乗り出したなんて、公表できるはずがない。
「……不満か?」担任教師が訊ねる。
拓は首を振った。
「空本と――の方は、学校内でも問題にはならないだろう。だが、お前の方はおそらく他の学年にも広まる。お前がこれまで無名だった分、生徒たちからの印象はかつてないほど悪いものになるだろう」
目撃者があれだけいたのだ。どんな生徒が噂を広めるのか。それはゴシップネタが好きな人間かもしれないし、人の不幸が好きな生徒かもしれない……あるいは、正義感の強い生徒かもしれない。
あらゆる人間からの客観的評価が、拓の人間像を形作る。暴言を吐いて女子を泣かせた。その事実だけで、拓の払う代償は比にならないほど大きいものになる。
「恨むなら恨んでくれて構わない」担任教師は言った。必要以上に拓が責められることを気にしているのだろう。
拓は、「恨みませんよ」と首を振った。「僕はそこまで、学校に期待してないので」
「そうか……立派だな」
担任教師は立ち上がって言った。「何か飲むか? せめて奢らせてくれ」
「じゃあ、コーヒーを」
「ブラックでいいか?」
拓が、「じゃあカフェオレで」と言うと、担任教師は安心したように頷いた。
***
その日の午後、早退者が二名出たことがホテルのロビーで生徒たちに伝えられた。すぐさま誰がという話になり、騒ぎを知っている何人かの生徒がその場に拓がいないことに気づいてこっそりと他の生徒に教えた。もう一人の方は、一部の生徒と教師陣以外は誰も知らなかった。
拓は担任教師と同じ部屋に移動することになったが、その際、丸田の班にだけはあったことを話したいと担任教師に訴えた。担任教師はそれを受け入れ、午後のミーティングが終わったあと、丸田たちを呼び出した。
何も知らない丸田たちだったが、その場に拓がいないことには気づいていた。言われるまま、拓のいるホテルの部屋に連れていかれ、やがて扉が開く。
「森嶋くん」
視線の先の友達は想像していたより元気だった。丸田は拓に向かって事情を尋ねた。
「ゴメン、丸田くん……みんな」
聞かされたのは、およそ彼の人間性からは想像できない出来事だった。何かの間違いだと思いたかったが、彼は「僕がやった」と正直に言った。
「君が……何の考えもなしにそんなことをするとは僕は思えない。まだ知り合ってそんなに経ってないけど、それくらいは僕にもわかるよ」
何か理由があるんじゃないかと丸田が訊ねると、拓は「何もない」と答えた。
「たとえどんな理由があったって、身勝手に人を傷つけちゃいけないんだ、だから……」
だから……、その先に続く言葉を拓は言おうとして……やめた。
丸田は、それでも、と拓に向かって言った。
「僕は……君があのとき言ってくれた言葉を信じるよ」
「丸田くん……」拓が丸田と、その後ろにいる仲間たちを見つめた。
「ありがとう」