悪妻は離婚したい 1
「どうして離婚してくれないのよおお………」
ギルバート様に「絶対に離婚はしない」と宣言されてしまった翌朝、私は自室にて絶望しきっていた。
ソファに倒れ込んで泣き言を言い続ける私を、リタは穏やかな笑顔のまま見つめている。
「あんなに嫌っていたじゃない……まさか嫌がらせ? もしくは断罪まで逃がさないようにしてる……?」
何もかも悪い方向に考えてしまい、唸りながら頭を抱えることしかできない。ギルバート様が何を考えているのか、私にはさっぱり理解できなかった。
──ギルバート様はイルゼのことを強く恨んでいるようだったし、このままでは今まで犯した悪事を理由に小説通り追放、平民落ち、娼館行きは免れないだろう。
公爵に対して好き勝手していた平民なんて、本来命を取られたっておかしくはない。これまでのイルゼの行いを思い返すと、娼館に売り飛ばされることすら生ぬるく感じる。
「ここから善行を積んでいくしかない……?」
とはいえ、小説にはイルゼとギルバート様の結婚生活はそう長くなかったと書かれていた。
既に1年が経っていると聞いているため、ヒロインのシーラとギルバート様が出会うまで、あと半年もない気がする。
(……たった半年で過去の悪事の全てを挽回するなんて、絶対に無理に決まってる)
もう正攻法では無理だろうと、最善の方法を考えていく。
「離婚届を置いて強行突破で逃げるとか?」
「それだと月に二度子作りをするという制約魔法を破ることになるので、旦那様の寿命に関わりますよ」
「本っ当にバカじゃないの……」
冷静なリタに突っ込まれ、ローズピンクの髪をくしゃりと掴んだ。本当に元のイルゼが余計なことしかしておらず、全ての可能性が潰されていく。
「……でも、それさえどうにかなれば脱走もありよね」
生きていく方法もまだ確立できていないけど、娼館暮らしより野宿の方がマシなのは間違いない。最悪の未来に辿り着く前に、自由を手に入れたい。
決意した私はがばっと身体を起こし、リタに声を掛けた。
「まずは制約魔法を解きに行くわ! 準備をお願い」
◇◇◇
ギルバート様に制約魔法をかけた魔法使いがいるという店は王都の街中にあるらしく、早速地図を用意してもらった。
「はあ……まともな服も少しは買わなきゃ……」
クローゼットの中はドン引きしてしまうくらい露出の多いドレスばかりで、外出着を選ぶだけで体力が削られた。
なんとか支度を終え、部屋を出て廊下を歩いていく。
「おはよう、今日もお疲れ様」
今日も美しく手入れされた廊下にはメイド達がいて、素通りするのもあれだと思い、何気なく笑顔で声をかけてみる。
「お、おはようございます……」
すると彼女達はびくりと肩を跳ねさせ、今にも消え入りそうな声で挨拶を返してくれた。
「奥様は普段挨拶などされませんから、何か裏があると怯えているんでしょう」
「……更生ルートはやっぱり不可能そうだわ」
怯えきった様子を不思議に思っていると、リタがこっそりと耳元で教えてくれる。
普段のイルゼはメイド達に対して特に興味もなく適当な扱いだったものの、ギルバート様が絡んだ場合のみ大暴れしていたそうで、かなり警戒されているようだった。
「お、おはようござ……あっ」
やがて怯えすぎたメイドの一人が、磨いていた花瓶を床に落としてしまい、ガシャンという音が廊下に響く。
目利きなどできない私でも、細かく散らばった破片を見ただけで、かなり高価なものであることが窺えた。
「申し訳ありません、申し訳ありません……っ!」
割ってしまったメイドはもう半泣きで、粉々になった破片を必死にかき集めている。すると破片で手が切れてしまい、ぽたぽたと血が流れ落ちていく。
「待って」
私はメイドを制止すると、血が滴る手を取った。
「も、申し訳ありません……命だけは……」
「そんなもの、取らないわ」
「ですが、この品は奥様の──え?」
苦笑いしながら切れた手に治癒魔法をかけると、メイドは信じられないという表情を浮かべる。
(実は昨日、ちょっと練習してみたら使えたのよね)
昨日の夜にギルバート様との話を終え、ショックでふらふらと自室へ戻る途中、思い切り壁に頭をぶつけてしまった。
美しいイルゼの額にたんこぶができてしまい、恐る恐る魔法で治せないかと念じてみたところ、簡単に治ったのだ。
(……本当に魔法が使えるなんて、驚いちゃった)
誰でも人生で一度は「魔法を使ってみたい」という願望を抱いたことがあるはず。私自身、実際に使えた時の感動はかなりのものだった。
「よし、これでもう大丈夫」
一瞬にしてメイドの傷は癒え、ほっと息を吐く。
さすがの国一番の腕前で、きっともっと大きな怪我ですらこの魔法は治せてしまうのだろう。
「花瓶なんてどうでもいいから、怪我には気を付けて」
「あ、ありがとうございます……」
メイドは戸惑いを隠せない様子ながらも、お礼を言ってくれた。他のメイド達も、困惑しながら私を見ている。
ひとまず私がここにいてはみんな気まずいだろうし、急いで玄関ホールへ向かおうとした時だった。
「随分お優しいんですね。あの花瓶はゴドルフィン公爵からの贈り物で、あなたのお気に入りの品だったのに」
冷ややかな声が耳に届いて振り返ると、そこには昨夜ぶりのギルバート様の姿があった。
「で、出た……」
イルゼを避けている彼と屋敷の中で出会すことはほとんどないと聞いていたため、突然の登場に動揺し、うっかり心の声が漏れてしまう。
「随分な嫌われようで悲しいな」
もちろんギルバート様にも聞こえてしまっており、彼は笑顔のままそう言ってのけた。
悲しいなんて1ミリも思っていないのは明白で、やはり彼が何をしたいのか分からない。
「…………」
余計なことを言っては立場が悪くなるだけだろうし、警戒しつつ口を噤み、ふたつのアメジストの瞳を見つめ返す。
「無視ですか」
壁に軽く体重を預けていたギルバート様はコツコツとこちらへ近づいてきて、私の顎を掴んだ。
作り笑いで無言の圧をかけられ、仕方なく口を開く。
「用がなければ話しかけるなと言われましたから」
「では、それは無効にしましょう」
するとギルバート様はそんなことを言ってのけ、整いすぎた顔には、私を小馬鹿にするような笑みが浮かんでいた。
(同情はするけど……なんかこう、腹が立つのよね)
むっとしてしまいながらも無策で関わっては良いことがないと判断し、色々な言葉を呑み込んで唇を引き結ぶ。
ギルバート様は、切れ長の両目を薄く細めた。
「ああ、それとも無理やりこじ開けてあげましょうか? お好きなようでしたから」
そしてこちらへ手を伸ばし、なんと私の口にぐっと指をかけた。人差し指の先が口内に入り、慌てて後ろに飛び退く。
思い返せば、一昨日の夜もぐっと舌を掴まれたり「苦しいですか?」と嘲笑われながら口内を指で荒らされたりした。
苦しくて恥ずかしくて惨めで余計に涙が溢れる私を見て、ギルバート様は満足げに口角を上げていた記憶がある。
(やっぱりギルバート様はイルゼを恨んでいて、嫌がらせをするつもりなんだわ)