知らない契約 2
「ギ、ギルバート様、待ってください……!」
このままでは本当にまずいと必死に抵抗しても、両手をきつく掴まれていて、逃げられそうにない。
(どうしよう、力が強くて振り解けない)
暴れる私をギルバート様は面倒そうに見下ろしている。
薄暗い部屋の中でも美しいアメジストの瞳に温度はなく、心底イルゼを嫌悪しているようだった。
「大人しくしていてください、もう時間がないので」
「時間……?」
「あなたも愛する夫を早死にさせたくないでしょう?」
皮肉めいた、煽るような表情の彼の言葉の意味は、私には分からない。けれどギルバート様にとってもこの行為が望まないものであることは、はっきりと分かった。
「…………っ」
何より「早死に」という物騒な言葉が気がかりで、動けなくなる。ギルバート様は冗談でそんなことを言うような人ではないと、小説を読んだ私は知っていた。
(ギルバート様にはイルゼを抱く必要がある……?)
困惑している間も、彼の手は止まってはくれない。前世でもこんな経験などなかった私はもう、限界だった。
「ぐすっ、もう……やめて……」
ぽろぽろと両目からは涙が溢れ、私の弱々しい掠れた声だけが静かな部屋の中に響く。
いきなり異世界で最低最悪な悪女に転生し、こんな理不尽な目にあっては泣きたくもなる。
良い年をした大人であることとか、ギルバート様からすれば彼の方が泣きたい立場であろうこととか、色々と頭では理解していても涙は止まってくれそうにない。
そんな中でも、どうかもうやめてほしい、許してほしいという気持ちをこめて、潤む目でギルバート様を見上げる。
「……へえ?」
するとなぜか真横に引き結ばれていた彼の形の良い唇は、美しい孤を描いた。
「面倒だと思いましたが、いつもよりはマシですね」
「え……?」
「好きだとか愛していると言いながら、卑猥な言葉を口にして行為を強請ってくるあなたに萎えていたので」
短く笑ったギルバート様の言葉に、より絶望感や羞恥でいっぱいになっていく。
(し、信じられない……元のイルゼ、痴女すぎない?)
大嫌いな相手にそんな風に迫られるなんて、ギルバート様からすれば地獄でしかないはず。
そう分かっていても私はもう真っ赤になってぐすぐすと泣くことしかできず、ギルバート様はさらに笑みを深める。
「その泣き顔は悪くない。せいぜいそのまま嫌がるフリをしていてください」
どうしようもなく憎い、いつも強気で高飛車なイルゼの泣き顔を見るのは初めてで気分が良いのかもしれない。
ギルバート様はふっと綺麗に笑い、私の肌に顔を埋めた。
(ふ、フリなんかじゃないのに──……)
それからのことは、ぼんやりとしか覚えていない。
意識が飛ぶまで何度も何度も繰り返し行為は続き、朝になる頃には喉も枯れ、私はもう何も考えられなくなっていた。
◇◇◇
「……う……」
目を開けると、陽の光に照らされた豪華な天井が視界に飛び込んできた。ぼんやりと「昼と夜では見え方が全然違うんだなあ」なんて他人事のように考えてしまう。
驚くほど喉が渇いていて、ひとまず身体を起こそうとすると腰や身体のあちこちに違和感を覚えた。
「痛った……って私、昨晩……」
昨夜のことを思い出し、顔どころか全身が熱くなる。
頭を抱えながら視線を下に向けると身体は赤い跡だらけ、噛み跡のようなものまであって眩暈がした。
「な、なんであんなこと……初めてだったのに……しかも、朝まで何回も……」
何もかもに耐えきれなくなった私はもうお嫁にいけない、誰にも会いたくないと毛布をかぶって丸くなった。恥ずかしくて悔しくて、泣きたくなる。
(でも、ギルバート様には大嫌いなはずのイルゼを抱く理由があるみたいだった)
しばらく毛布の中で一人絶望していたものの、時間が経つにつれてなんとか少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
今さら悔やんでも仕方ない上に、お互いに望まないものだったことは間違いない。二度とあんなのはごめんだし、一度きちんと話をして、絶対に離婚をしようと涙目で固く誓う。
「奥様、お目覚めですか?」
そんな声がして布団から顔だけ出せば、ニコニコ笑顔で部屋の中に入ってくるメイドのリタと視線が絡んだ。
「良かったですね、いつもは一時間ほどで退出なさる旦那様が朝までだなんて。何か特別なお薬でも使ったんですか?」
側へやってきたリタは愛らしい笑顔で、恐ろしいことを言ってのける。こんな姿の私を見ても、顔を洗うための水が入った大きめの盥を持った彼女に驚く様子はない。
「……どういうこと? いつもはすぐに終わるの?」
「それも覚えていないんですか?」
呆然とする私に対し、リタは眉を顰めた。「いつも」という言葉や彼女の話しぶりからは、あの行為が日常的に行われていたことが窺える。
「そもそも、私のことが大嫌いなはずのギルバート様が何であんなことを……」
「奥様がご結婚の際、月に二度子作りをするという制約魔法を無理やり結ばせたからでしょう? 破った場合、旦那様の寿命に関わるとか……」
「……嘘でしょう」
制約魔法は「同意の元で強制的に縛り付ける強い魔法」らしく、対象者は絶対に約束ごとから逃れられないという。
信じられない話に、思わず口元を手で覆った。今の私は青ざめていて、よほど酷い顔をしているに違いない。
「ただ籍を入れるだけでは、まともに夫婦としての生活ができないのは目に見えていましたから。子どもができれば少しは振り向いてくれるはず、とも仰っていましたよ」
「…………っ」
元のイルゼがどれほど自分勝手で残酷な人間だったのかを思い知らされ、ぞっとした。自分がそんな人物に成り代わってしまったことを思うと、より絶望感でいっぱいになる。
無理やりイルゼが結んだ制約魔法のことを、ギルバート様は「呪い」と言っていたのだろう。
(お母様の命を楯に取って結婚を迫った上に、そんなことまで強要するなんて……あれほど嫌われるのも当然だわ)
心から愛する相手に対してのものとは思えないほど、何もかもを踏み躙るような歪んだ所業に絶句してしまう。
昨晩のひどく切実で嫌悪に満ちたギルバート様の様子を思い出し、どうしようもなく胸が痛んだ。私自身がしたことではなくとも、罪悪感を抱いてしまうくらいには。
「……とにかく、早く離婚して解放してあげないと」
今の私にできることはもう、それしかない。お互いのためにも一刻も早い方がいいはず。
「この後すぐにギルバート様に会えないかしら」
そう思った私は毛布で赤い跡だらけの身体を隠しながら、真剣な表情でリタにそう尋ねた。
「ですが、奥様からのお誘いはお断りされるかと……」
リタは気まずそうに、悲しげな顔をする。過去の行いのせいもあって、イルゼからの申し出や誘いはギルバート様に取り次がれることもないのだろう。
それでも諦められるはずもなく、リタを見上げる。
「離婚についての話をしたいと言えば、ギルバート様も時間を作ってくれると思うの」
「えっ?」
信じられないという表情を浮かべたリタの手からは水の入った盥が落ち、ばしゃんと床に水溜まりが広がった。