悪妻 イルゼ・エンフィールド 3
そんな私を見て、ド派手美形はきょとんとした表情を浮かべている。じわじわと頰が熱くなるのを感じながら見つめ返しているうちに、ふと彼が何者なのかを思い出していた。
「どうした? 月に一度はこうして会っているのに、初々しい可愛らしい反応をしてくれちゃって」
「い、いえ……何でもないわ」
笑顔で誤魔化し、必死にイルゼになりきろうとする。
──彼はナイル・ゴドルフィン、イルゼの兄であり、いずれ本当の妹のシーラを溺愛するキャラに違いない。
(身分至上主義だからイルゼが平民の子だと知った後、簡単に見捨てていたっけ)
小説では全てが明らかになった後、必死に縋り付くイルゼを冷たく突き放していた記憶がある。
「いい加減、あんな男とは別れたらどうだ?」
ナイル──お兄様と呼んだ方が良いのだろうか、彼はソファに座ると私の隣で足を組み、どかりと椅子の背に体重を預けた。やれやれという感じの態度からは、ギルバート様をよく思っていないことが窺える。
(この頃のナイルは何よりもイルゼを可愛がっていたし、ギルバートを毛嫌いしてたんだっけ)
ナイルとイルゼの関係について、小説では詳細まで描かれていなかった。ただ身分のことが明らかになるまでは溺愛されていた、ということしか分からない。
(……とにかくイルゼが平民だと知られるまでは、良い味方になってくれるかも)
口元に手を当て、最善の行動とは何だろうと考え込む。
──きっと今の私がすべきなのは、シーラが現れるまでに円満な離婚をすること、そしてこの世界で一人でも生きていける知識とお金を手に入れることではないだろうか。
元の世界に家族もおらず、未練だってない。そして実は私は魔法のあるファンタジーが大好きなオタクだった。
イルゼとしてのしがらみを無くして自由にさえなれば、異世界転生もご褒美みたいなものだ。
(そのためには、まず──……)
一瞬にして脳内でそこまでの答えを導き出した私は、きゅっと両手を握りしめ、ナイルお兄様に向き直った。
「実は……ギルバート様と離婚したいと思っているの」
超絶美少女なら相当な破壊力があるはずだと、うるうると上目遣いをし、悲しげなしおらしい顔と態度をとってみる。
「……本気で言っているのか?」
お兄様は私の言葉に対し、目を見開いて心底信じられないという表情を浮かべながら身体を起こした。
「やっぱり夫には愛されたいと思ってしまって……」
この調子だと心の中で手を握りしめつつ、引き続き健気な顔をして適当な嘘を並べ立てていく。
間違いなく可哀想で一番の被害者はギルバート様なのだけれど、お兄様は可哀想な妹を慰めるように私の肩にそっと手を置くと、眉尻を下げた。
「当然のことだよ。お前にはもっと良い相手がいるはずだ。可哀想なイルゼ、俺がお前を幸せにしてやるからね」
お兄様は私をイルゼをぎゅっと抱きしめ、なぜか目元にキスを落とす。いちいち心臓に悪すぎて変な汗が止まらないものの、間違いなく彼は今はまだ私の味方のようだった。
「立場上、まずはお前からあの男に離婚を申し出る必要があるんだ。拒否されることはないだろうし、手続きも二ヶ月ほどで終わるはずだよ。そうしたら公爵家へ帰っておいで」
「お兄様……ありがとう」
妹想いの優しいお兄様に対し、笑顔で頷く。
(あれだけイルゼを毛嫌いしていたし、ギルバート様も喜んで受け入れてくれるはず)
先程まで絶望感でいっぱいだったけれど、だんだんと希望が見えてくる。これなら離婚もすぐにできるだろう。
そんなことを考えていると、ナイルお兄様が読めない表情でじっと私を見ていることに気が付いた。
「……お兄様?」
「ごめんね、何でもないよ。さて、俺は帰って愛しいイルゼが戻ってくる準備をしておこうかな」
お兄様は私の手を引き、立ち上がる。そして眩しいキラキラの笑みを浮かべ、こちらにぐっと顔を近づけてきた。
「別れのキスは?」
「えっ」
「帰りはいつもお前からだっただろう?」
さも当たり前のようにそんなことを言われ、つい間の抜けた大きな声を出してしまいそうになる。
(こ、この兄妹、そんなことまでしていたの……!?)
前世ではキスの経験もなかったし、正直これほどの美形に近づくだけでも心臓に悪い。けれど今この状況で別人だと思われては、厄介なことになってしまう。
もう仕方ないと必死に心を決め、顔が熱くなって心臓が早鐘を打つのを感じながらも、つま先立ちをしてお兄様の頬に触れるだけのキスをした。
「…………」
するとなぜかお兄様は予想外の反応というか、驚いたような表情を浮かべ、私がキスをした場所に触れている。
「どうかしましたか?」
「ああ、ごめんね。ありがとう。またすぐに会いに来るよ」
優しく頭を撫でられ、優しい兄の顔を向けられ、心の中でほっと胸を撫で下ろした。
それからは屋敷の門の前までお兄様を見送り、彼が乗った馬車が見えなくなるまでぼんやりと見つめる。
短い時間だったけれどナイルは本当のことを知るまで、妹のイルゼをとても大切にしていたんだと実感した。
(……初めてこの世界で頼れる人ができたのに、いずれ冷たく突き放されると思うと寂しいな)
元の世界では家族を幼い頃に失っていることもあり、余計にセンチメンタルな気分になってしまう。
それでも一時的とはいえ強い味方ができて安堵しながら、最初よりもずっと軽い足取りで屋敷へと戻ったのだった。
◆◆◆
馬車に揺られながら頬杖をつき、いつの間にか見慣れた窓の外の景色を眺める。
ギルバート・エンフィールドといてもイルゼが幸せになれないのは明らかで、父からの頼みだということもあり、俺は月に一度、離婚するようイルゼを説得しに行っていた。
その度にイルゼは「絶対に別れない」と癇癪を起こし、聞く耳さえ持たない。それが当たり前の日常だった。
「……お兄様、ねえ」
一人そう呟くと、余計に違和感が大きくなっていく。
『ねえナイル、私はギルバート様のためなら死ねるくらい、彼を愛しているの。私には彼しかいないんだから』
イルゼは俺をお兄様なんて呼ばないし、あれほど執着していたギルバートと別れたいなんて間違いなくおかしい。
(何より俺からキスをするのも嫌がるイルゼが、自ら別れのキスをするだと?)
はっと呆れたような、乾いた笑いが口から溢れた。
「──あれは一体、誰なんだ?」