表と裏 1
シーラを見送った後、心身ともに疲れ果てていたせいか、再び翌朝までぐっすり眠ってしまった。
シーラとギルバート様を引き合わせるという作戦は失敗したものの、あの様子では今のシーラを彼と会わせても恋なんて始まらないのは明白だろう。
『私、もう我慢したりしませんから』
シーラの愛情はなぜか私へ向けられているままで、憧れのヒロインに好かれているのはもちろん嬉しい。けれど「こっちじゃない」という気持ちで内心は複雑だった。
(でも、公爵令嬢になったシーラが味方してくれれば、最悪の未来は避けられるはずよね)
小説のファンとしてはギルバート様と幸せなハッピーエンドを迎えてほしいけれど、ひとまずは自分の娼館落ちエンドを避けることを最優先にしたい。
「……よし、今日も頑張らなきゃ!」
昨日もゆっくりしてしまった分、午後からの予定まではやるべきことをしようと気合を入れる。少し早く目が覚めたこともあって、朝食まではまだ時間があるはず。
図書室で本でも借りてこようかなと自室を出てすぐ、廊下でばったりとギルバート様に出会してしまった。
「おはようございます」
「お、おはようございます……」
彼と顔を合わせるのは地獄の羞恥プレイの最中、意識を失って以来で、今すぐにでも逃げ出したくなる。
まだ身体だってあちこち赤い跡まみれで、今朝も着替える間も目を背けたくなったくらいだった。
「体調はどうですか?」
それでもじっと様子を窺いながらそう尋ねると、ギルバート様は両目を瞬いた後、なぜかふっと笑った。
柔らかな笑みに一瞬どきっとしてしまったものの、このタイミングでは小馬鹿にされているような気がしてならない。
「ど、どうして笑うんですか……!」
「いえ、あなたは本当にぶれないなと」
ギルバート様は口角を上げたまま近づいてくると、手を回して私の後頭部をぐっと引き、耳元に唇を寄せた。
「良くないと言ったら、また助けてくれるんですか?」
「…………っ」
一昨日の夜もこんな風に引き寄せられ、耳元で繰り返し色々と囁かれたことを思い出し、顔が熱くなる。
慌てて彼の肩を押して数歩下がり、距離を取った。本当に油断も隙もなく、いい加減にしてほしい。
「朝からこんな嫌がらせをするくらい元気があるようで、心配して損をしました」
「お蔭様で。ああ、よければ一緒に朝食を食べませんか」
「……えっ」
予想外の誘いに、戸惑いの声が漏れる。食事なんてこれまで一度も、一緒に取ったことがなかったというのに。
「ど、どうして……」
「あなたと食べてみたいと思ったからです」
そんなことを当然のように言うギルバート様が何を考えているのか、理解できない。それでも一緒に食事をして良いことなんてないと判断した私は、さらに数歩後ろへ下がった。
「以前も言いましたが、これまで通り私のことは放っておいてください! 本当に! お気遣いなく!」
「ははっ、やけに大きな声ですね。随分な嫌われようだ」
「…………っ」
口元に手を当てて笑うギルバート様から顔を背けた私は、逃げるが勝ちだと思い、今来た道を走って戻った。これ以上一緒にいたら、彼のペースに完全に飲まれてしまいそうだ。
(……なんで、あんな風に笑うのよ……)
これまで向けられていたものとは違い、あまりにも毒気のない笑顔だったから。ほんの一瞬だけ、彼の言葉をそのまま受け取ってしまいそうになった。
本当に調子が狂うと思いながら、私は自室のドアを思い切り閉めて、大きな溜め息を吐いた。
◇◇◇
それから書類仕事をして軽く勉強をした後、私は王都の街中にあるカフェにやってきていた。
白と金を基調とした広い店内は高級感に溢れていて、よく磨かれた床やふかふかの椅子、ティーカップひとつまで全て最高級のものであることが窺える。
「お前は今日も可愛いね、目に入れても痛くなさそうだ」
「あ、ありがとう……」
私はというと、そんな店内で目の前に座り、ニコニコと微笑むナイルお兄様の視線を受けながら、やけに良い香りのする紅茶をいただいていた。
そう、今日はお兄様と離婚対策会議をするという名目で、街中へとやって来ている。先日の「気分転換に街へ出かけようか」という発言を、有言実行してくれるつもりらしい。
まだ先日の首絞め事件の恐怖心も残っているし、全てがバレれば即座に殺されてもおかしくないという恐ろしいリスクはあるものの、しっかり頼らせてもらおうと思っている。
「でも、とても素敵なお店なのに空いているのね」
場所だって街の一等地だし、ケーキも美味しいし。サービスだって完璧で、雰囲気も最高に良い。けれど店内には私達と一組の女性客しかいないのが、不思議で仕方なかった。
「ああ、俺が来る時は伯爵家以下の人間は入れるなって言ってあるからじゃない?」
「…………」
お兄様はどこまでも身分至上主義で下位貴族にまで厳しいらしく、清々しさすら感じる。
私をただ眺めるだけにもようやく飽きたのか、お兄様は紅茶に口をつけると、小さく息を吐いた。
「制約魔法については俺の方でも調べているけど、やはり有効な手は見つからないな」
「そうなのね」
「それと、あいつは最近も我が家を含めてお前の周りを調べ回っているみたいだ。それもかなり周到にね」
「…………っ」
あいつというのは、もちろんギルバート様のことだろう。動揺した私が置いたティーカップのガシャンという音が、静かな店内に響く。
小説を読んで分かっていたことであっても、こうして実際にギルバート様が動いていると聞くと、落ち着かなくなる。
(……一緒に食事をしようなんて言い出したのも、やっぱり私から情報を引き出すためなんだわ)
油断してはならないと、改めて自分に言い聞かせる。
小説の後半ではギルバート様とシーラの恋愛をメインに描かれていたため、イルゼがどんな悪事をしていたのか詳細は知らない。だからこそ、余計に怖くて仕方なかった。
「大丈夫だよ、あのことは絶対にバレないから。俺だって平穏に暮らしていたいんだ」
そんな不安でいっぱいの私の様子に気付いたのか、テーブルに頬杖をついたお兄様はふっと笑う。
「……あのこと?」
「ああ、そうか。別人のお前にはイルゼの記憶も一切ないから知らないんだったね。忘れていいよ」
「…………」
「ほら、あーんして?」
そして話題を変えるようにお兄様はフォークを手に取ると私の食べかけのケーキを切り分け、差し出してきた。
無視もできず口を開けると、笑顔のお兄様によって生クリームがたっぷり乗ったケーキが舌の上に乗る。それでも味なんて分からなくて、何度か咀嚼してぐっと呑み込んだ。
(イルゼの過去の悪事を知っているような……ううん、違う)
──まるで、イルゼとナイルが一緒に何かをしていたような口ぶりだった。
イルゼとナイル、それぞれ異なる異常性を持つ兄妹なら、悪行の限りを尽くしていてもおかしくない気がして、胸騒ぎが止まらなくなる。
もしも取り返しのつかないことをしていたなら、私が必死に足掻いたって悲惨な結末は逃れられないからだ。
半端に小説の知識があるせいか、この世界での自分の知らないことが怖くて仕方がない。
「この後はオペラを見に行こうか。俺は好きじゃないけど、元のイルゼは好きだったんだ」
「……え、ええ」
「それにお前はもっと華やかな装いの方が綺麗だよ。あとで俺が好きなだけ買ってあげる」
笑顔のお兄様に腕を引かれてカフェを後にしながら、私の心臓はずっと嫌な音を立て続けていた。