悪妻 イルゼ・エンフィールド 2
若くして父を亡くしたギルバート様は二十二歳にして公爵の座を継いでおり、多忙を極めていた彼が社交界に顔を出す機会はそう多くなかった。
それでもイルゼの悪評はギルバート様の耳に届いており、無理やり迫ったり高額な贈り物をしたりといったイルゼの常識から逸脱したアピールは、余計に嫌悪感を与えるばかり。
『ギルバート様、どうしたら私を見てくれますか?』
『申し訳ありません、今は家のことで精一杯なので』
『…………』
ゴドルフィン公爵家と同じ公爵家であっては、お得意の権力で物を言わせることもできない。
『どうして……どうしてなのよぉ……! うあああっ!』
生まれて初めて手に入らない物が、人生で最も強く欲しいと願った物となったイルゼは癇癪を起こすようになり、ゴドルフィン公爵や兄を困らせていた時だった。
『母が難病にかかってしまい、どの医者も既に手の施しようがないと……国一番の治癒魔法使いといわれるあなたなら、母を救うことはできないでしょうか』
ギルバート様のお母様が進行の早い難病にかかり、命の危機に瀕した結果、最終判断としてイルゼを頼ったのだ。
万事休すだったイルゼとしては願ったり叶ったりの展開でしかなく、ギルバート様の弱みを握ったも同然だった。
『私と結婚してくださるのなら、お母様をお救いします』
そしてイルゼはギルバート様のお母様を口実に、エンフィールド公爵夫人の座──妻の立場を得ることとなる。
(はあ……嫌われ者の、最低最悪の悪女じゃない……)
イルゼ周りのストーリーを思い返していた私は、本日何度目か分からない頭を抱える体勢になっていた。
『用がないのなら、俺に話しかけないでください』
夫婦といえども二人の間に愛なんてあるはずがないし、ギルバート様があんな態度をとるのも当然で。リタ曰く結婚してから既に1年が経っているらしく、これまでのイルゼの行動を想像するだけで目眩と吐き気がしてくる。
「もしかして私、いつもそんな風にギルバート様に無理やり迫っていたの……?」
「はい、所構わずほぼ毎日ですよ。旦那様と関わる女性はメイドですら厳しく罰していましたし、いつもお風呂や寝室にも全裸で押しかけていたかと」
「いやあああ……」
想像していたよりもはるかに最悪な答えが返ってきて、絶望感でいっぱいになる。
そんな状況下で最低限でも口を利いてくれたり、頭を打った後心配してくれたりするギルバート様、心が広すぎる。
(でも、本当にイルゼはギルバート様が大好きだったのね)
──いずれギルバート様とヒロインのシーラは出会い恋に落ちるけれど、イルゼは絶対に別れようとせず、シーラを虐げ、最終的に殺そうとする。
けれど最後にはイルゼとシーラが出生直後に取り違えられていたことが発覚し、悪事も全てバレたイルゼは公爵家から追放され、娼館落ちという悲惨な結末を迎える。
公爵家のお姫様という立場から最も嫌悪していた平民になるなんて、あまりにも皮肉な展開だと思った記憶があった。
(とにかく娼館は絶対に勘弁だわ。なんとかしないと)
シーラが大好きでギルバート様にも憧れていたのに、どうしてこんなことになってしまったのだろうと泣きたくなる。
はあああと深い深い溜め息をついていると、リタがじっとこちらを見つめていることに気が付いた。
「……まさか奥様、記憶がないんですか?」
「えっ? あっ、そうね! 頭をぶつけたせいか、ところどころ抜け落ちているみたいで……」
異世界から転生したなんて言えば、更におかしくなったと思われるはずだと、笑顔で必死に誤魔化す。
何か別の話題をと、すぐに再び口を開いた。
「ギルバート様のお母様はご無事なのよね?」
「はい。領地の方でお元気に過ごされていますよ」
「そう、良かった……」
イルゼの治癒魔法の力は本物らしく、心からほっとする。そんな私をリタは不思議そうな顔で見つめていた。
「とにかく、これからどうするか考えなきゃ」
まずはもっとこの世界のことを把握しつつ、覚えていることをまとめて……と真剣な表情で悩んでいたところ、不意にノック音が部屋の中に響く。
「奥様、お客様がいらっしゃいました。お通ししますね」
「えっ?」
こんな時に一体誰だろうと困惑する間もないまま、あっさりとリタはドアを開ける。そうして部屋の中へと入ってきたのは直視することすら躊躇われるほど、眩しい男性だった。
「ああ、イルゼ。会いたかったよ」
ミルクティー色の髪に黄金の瞳をした男性は、戸惑う私の元へまっすぐに向かってくる。歩くたびに首元のふわふわとした毛皮や耳元のチェーンのついたピアスが揺れていた。
(だ、誰なの……?)
今のイルゼと同じ、むしろそれ以上に全身がまばゆいド派手な装飾品で飾り立てられている。それでも本人の方がよっぽど輝いているのだから、恐ろしいほどの美形だった。
「今日もお前は世界一可愛いね」
そうして笑顔で頬に柔らかな唇を押し当てられた瞬間、私は声にならない悲鳴を上げ、全力で後ろに飛び退いた。