虚像と実像 1
作戦は失敗したものの、なんとかゴドルフィン公爵邸での結婚記念日パーティーを乗り切った翌日。
私は馬車に揺られ、アンカー伯爵邸へと向かっていた。昨日約束した通り、病気の娘さんを治しにいくためだ。
エンフィールド公爵邸からは馬車で一時間半ほどの距離らしく、流れていく窓の外の景色を見つめる。
(それにしても、シーラはどこまでも良い子だったわ……)
昨晩ナイル──お兄様と和解した後、シーラの元へ行ってお礼と「もう帰って大丈夫」と伝えた。
すると訳の分からないお願いをしたにも関わらず、シーラは私以上にお礼を言ってくれた。
『ちなみに、ギルバート様に会ったりとかは……?』
『お会いしました。イルゼ様と共に母を救ってくださったお礼をすることができて良かったです』
『は、話したのってそれだけ……?』
『はい。公爵様は「助けたのは彼女だ」と仰っていました』
『…………』
シーラが話しかけていたのはそれだったのかと、全く恋の始まりからは遠いやりとりだったことに愕然とした。
『その、ギルバート様を改めてしっかり見て、こう、何か感じたりとか……』
『イルゼ様の旦那様なんて羨ましいなと思いました』
微笑みながらそんな返事をされた時は、その場でひっくり返りそうになった。シーラの矢印が私に向きすぎていて、これは本当にまずい気がしてならない。
(とにかく大事な出会いを失敗させてしまった以上、なんとかしないと……)
そして大変残念なことに、憂鬱なのはそれだけではない。
「溜め息ばかりついていますが、何か困ったことでも?」
今現在、私の隣に座っているギルバート様は、内心頭を抱える私に笑顔で尋ねてくる。
なぜか伯爵邸に向かう私に、ギルバート様が同行してくれているのだ。酔った伯爵に手を上げられた以上、安全のために護衛を用意してほしいとお願いしたけれど、まさかギルバート様本人が来るとは思わなかった。
「ギルバート様はお忙しいのでは……」
「暇ではありませんが、これくらいは問題ありません。それに護衛の騎士達よりも俺の方が腕が立ちますから」
当然のようにそう言ってのけたギルバート様は、魔法にも剣にも秀でており、流石の主人公だった。公爵家の騎士達もギルバート様の指示に従う以上、私に拒否権などない。
きっと、どこまでも私を見張るつもりなのだろう。けれど間近で更生しようとしている姿を見せるチャンスだと、ポジティブに解釈することにした。
「それにしても、隣に座る必要はない気がするんですが」
「俺達はいつも馬車移動の際、隣に座っていましたよ。あなたがひと時も離れたくないと腕にしがみついてくるので」
「…………」
本当に元のイルゼは余計なことばかりしてくれると、恨み言が止まらない。
「記憶が欠けてそれも忘れてしまったんですか」
「そんなところです……」
「では、1番最後にあなたと一緒に馬車に乗った時のことを教えてあげましょうか」
「えっ──」
途端、視界が暗くなって、気付けばギルバート様の整いすぎた顔がすぐ目の前にあった。吐息がかかりそうなくらい顔と顔が近くて、息を呑む。
馬車の中で壁ドンのような状態になっているらしく、私の両手首もギルバート様によって窓に押し付けられていた。
「あなたは馬車の中でこうして俺に迫ってきたんです。今すぐキスしてくれないと死んでやる、なんて言って」
「…………っ」
常にそんなことを言われて迫られていたら、やはりギルバート様もノイローゼになるに違いない。ギルバート様に対し心から同情した。
「俺はどうぞご勝手に、と言ったのですが──……」
この再現する状況も心臓に悪いものの、ギルバート様と元のイルゼは結婚式以来キスをしていないと聞いている。
だからこそ、これで終わりだと思っていたのに。
「んっ……ん、う……!」
ギルバート様の顔が近づいてきて、唇が重なった。それも触れるだけのものではなく、無理やり口をこじ開けられるような激しいもので、だんだんと苦しくなっていく。
「はあっ……もう、……んんっ……」
「鼻で息を吸って」
「そんなこと、言われても……っ」
「挨拶なんて言っていたくせに、ド下手ですね」
ギルバート様と何度もキスしているけれど、慣れるどころか上達するはずなんてない。
そしていつの間にかギルバート様の右手は私の首に添えられていて、軽く首を締められていることに気付く。
(絶対、私がわざと苦しくなるようにしてる……!)
ようやく解放された頃には、私は肩で息をして、酸素を取り込むのに必死だった。一方のギルバート様はいつもと変わらない様子で、私を見下ろしている。
「な、なんで……こんな……」
「望まない相手に触れられるのがどんな気持ちか、あなたに教えてあげようと思いまして」
私の目元の涙を指先で拭い、ギルバート様は満足げに口角を上げて元の体勢に戻った。
やはり元のイルゼに対する嫌がらせらしく、こんなことまでするなんて本当にどうかしている。
(私にこんなことをしたって、何の意味もないのに)
恥ずかしさと悔しさでいっぱいになりながら、私は1秒でも早く目的地に到着することを祈らずにはいられなかった。
ようやく到着した伯爵邸では夫妻に丁寧に出迎えられ、悲痛な表情で何度も繰り返し謝罪をされた。
「本当に申し訳ありません。どんな罰も受ける覚悟です」
伯爵も昨日とはまるで別人のように腰が低く丁寧で、やはりお酒のせいもあってあんな行動に出てしまったのだろう。
ひとまず娘さんの元へ案内してもらうと、ベッドの上に横たわる、ひどく痩せた少女の姿があった。かろうじて意識はあるものの、もう指先ひとつ動かせない状態だという。
(どれほど辛くて苦しい想いをしてきたんだろう)
魔法による治療でなんとか延命しているけれど、それを止めた途端に命を落としてしまうそうだ。虚ろな瞳で天井を眺める姿を見ていると、どうしようもなく胸が痛んだ。
「……ごめんなさい、絶対に助けるから」
三人に見守られる中、ベッドの側へ行き、そっと骨と皮しかない手を取る。私が悪いわけではないと分かっていても、もっと早くに助けてあげられていたらと思ってしまう。
(どうか無事に治せますように)
ここへ来る前、昨夜パーティから帰宅した後、実は公爵邸にある図書室で治癒魔法について朝方まで勉強していた。
治癒魔法は精神的な病気や、体力の回復などには効かないものの、病気にも効果があるという。ただ魔法というのはイメージが大切らしく、私自身がどんな風に治したい、どんな風になってほしいということをしっかり思い描けなければ効率がかなり悪くなるようだった。
今の私に医学の知識なんてないし、今はとにかく必死にやるしかない。そして私は目を閉じて両手で小さな手を包み、治癒魔法を使い始めた。
◇◇◇
「良かったんですか、あんな約束をして」
伯爵邸から帰宅して屋敷へ続く道を歩いていると、不意にギルバート様にそんな問いを投げかけられた。
彼が言っているのはきっと、伯爵夫妻から難病の子どもがいる家族のコミュニティがあることを聞き、私が治療して回るという約束をしたことだろう。
ちなみに娘さんの治療は無事に終わり、まだ体力なんかは回復していないものの、病気は治ったようだった。
(……本当にすごい力だわ。怖くなるくらいに)
あの状態から完全に治せてしまうなんて、イルゼの治癒魔法は神様みたいだと本気で思う。涙を流す夫妻からも心から感謝をされて、安心した。
伯爵に暴力を振るわれた件については、いつか私が困った時に助けてほしいという条件のもと、許すことにした。
伯爵はそんなことでは済まないと言ってたけれど、シーラの時と違って相手に明確に非がある以上、頼りやすい。
「はい、大丈夫です。勝手なことをしてごめんなさい」
この力でしか治せないこと、そして実際に病に苦しむ子どもや両親の姿を見たこと、病気が治って心から喜ぶ姿を見たこともあって、私にできることはしたいと強く思った。
お母様のこともあった以上、ギルバート様だって良い気持ちにはならないはずなのに、治療を終えた後は私の体調を気遣う言葉をかけてくれていた。
(ずっと嫌な態度なら、恨むこともできるのに)
彼にとっては仕方ない事情があったり、私を助けてくれたりしてくれることもあって、自分でもギルバート様に対してどんな感情を抱けば良いのか分からずにいる。
「俺の許可なんて必要ありませんし、あなたの自由です」
「ありがとうございます。付いてきてくださったことも」
「礼を言われるようなことではありません」
ギルバート様はそれだけ言って、屋敷の中へ入っていく。
その背中を見つめながら自分にできること、やるべきことを引き続き頑張って行こうと改めて決意した。
それからは誓約魔法について調べたり、シーラやお兄様に会ったり、病気の子どもの元を回って治療したり、一時的とはいえ公爵家の女主人の仕事をしたりと、全力で過ごした。
──1ヶ月後、ギルバート様が倒れるまでは。




