イルゼとシーラ 3
一体何が起きているのだろうと、頭が真っ白になる。
何かの間違いだと思っても、感じられる体温や感触、何もかもがリアルで現実だと思い知らされてしまう。
「……恥ずかしいです」
やがてシーラは私からそっと離れ、幸せそうにふわりと微笑んだ。頬を赤く染める照れた表情も驚くほど可愛くて、ヒロインはすごいなあなんてどこか他人事のように思う。
(えっ……シーラは今、何を……な、なんで……?)
まだ唇に残る柔らかな感覚に呆然としている私にシーラはするりと抱きつき、甘えるようにそっと背中に手を回した。怒涛の展開に、パニック状態の私は動けないまま。
「イルゼ様のお言葉、全て本当に本当に、嬉しかったです。私も全く同じ気持ちだったので」
「お、同じ……?」
「はい。あの日、イルゼ様に出会ってからずっと胸がドキドキしていて、苦しくて切なくて……あれから毎日、イルゼ様のことばかりを考えていました」
どこかで聞いたことのあるセリフだと思っていたものの、小説の中でシーラが告白時、ギルバート様に伝える言葉によく似ていることに気付く。
そんな超重要なものがどうして私なんかに向けられてしまっているのか、さっぱり理解できない。
シーラが顔を上げたことで、至近距離で視線が絡む。宝石のような両目に映る私は、ひどく間抜けな顔をしていた。
「イルゼ様、お慕いしております」
「…………」
「美しくて強くて、優しくてまっすぐで……こんなにも誰かに心が動いたのは生まれて初めてでした」
パニックでまともに働かない頭で必死に考えた結果、母親を救った私に対しての感謝の気持ちを、何か別の感情と勘違いしてしまっているのではないかという結論に至った。
シーラのお母さんの怪我は本来、命を落とすはずだったくらい酷いもので、助かったのは奇跡に近い。
その上、私まで吐血して死にかけるという、いらないドラマチックな見せ場もあったことで、あの場にいたら誰だって嫌でも心が動いてしまうはず。まさに吊り橋効果の極み。
シーラが私を好きだなんて言い出しているこの状況にも、ある意味納得ができてしまった。
(もちろん、大好きなシーラの気持ちは嬉しいんだけど、求めていたのはこれじゃないというか……)
恋愛経験がない私でも、彼女から向けられているものが友愛ではないことくらいは分かる。
私が熱烈な告白をしたことで、ある意味両想いとも言える状況だったけれど、シーラがいきなりあんなことをしたのも驚きだった。私の知る小説でのシーラは、控えめで恥ずかしがりやで、ギルバート様に押されていた印象があったからだ。
そもそも矢印を向く方向が間違いすぎていて、このままでは謎の百合展開により原作が大崩壊してしまう。
まずいと思った私はシーラの両肩を掴み、距離を取った。
「あの、お気持ちは大変ありがたいのですが、何かとてつもない誤解というか、勘違いをされているかと……」
「いいえ、勘違いなんてしていません」
けれどシーラは笑顔のまま、はっきりと否定してのける。
「イルゼ様のためなら、どんなことでもします。ですから、お慕いしていてもいいですか……?」
熱を帯びた瞳を向けられながら、私は一体どこから間違えてしまったのだろうと内心頭を抱えた。
◇◇◇
シーラとの一連の出来事で衝撃を受けた結果、豪華な食事の味すらよく分からないまま夕食を終え、食堂を後にする。
(今後、シーラとどう関わっていけばいいの……?)
あれは愛情というより、崇拝に近い感じがした。
頭を悩ませながらふらふらとエンフィールド公爵邸の廊下を歩いていると、ギルバート様に出会してしまった。
「ふらついていますが、部屋まで運びましょうか?」
「け、結構です……」
とにかく今日も心身ともに削られてしまったし、さっさと寝て一度落ち着いてから今後の対策を立てたい。
こんな状態ではボロが出てしまいそうで、ギルバート様ともこれ以上関わらず、そそくさと部屋に戻ろうとしたのに。
「そういや今日は白昼堂々、浮気をしていたそうですね」
「げほっ、ごほっ……う、うわ……?」
「夫以外の人間とキスをしたなんて、浮気以外の何物でもないと思いますが」
笑顔のギルバート様に爆弾を落とされ、その場で倒れそうになった。あの護衛──ギルバート様の側近が親切丁寧に報告してくれたのだろう。
「あ、あれはなんというか、挨拶みたいなものです! 女性同士ですし、スキンシップ的な」
「……へえ?」
壁際に追い詰められ、ギルバート様の文句のつけようがない顔が一気に近付く。
「スキンシップでしたら、俺達も取り入れましょうか」
「本当に結構です」
「結婚式以来、一度もしてくれないと泣いていたのに、酷い変わりようですね」
「……えっ?」
短く笑ったギルバート様の言葉に、引っ掛かりを覚える。初めて彼に抱かれた日から、何度もキスをされた記憶があったからだ。それも全て嫌がらせなのだろうか。
やはりよく分からない人だと思いながら、再びその場を去ろうとしたところ、今度は腕を掴まれた。
「それと来週末のパーティーですが、俺も同行しますので」
「パ、パーティー……?」
「あなたのご両親の結婚記念日のお祝いです。毎年ゴドルフィン公爵邸で行われているでしょう」
もちろん初耳だったし、元のイルゼのストーカー手帳にも何も書かれていなかった。どうでもいいことばかり書いて、肝心なことは書いていないのが本当に腹立たしい。
(どうしよう、パーティーって何をするの……?)
たくさんの貴族が集まるパーティーなんて場で、上手く立ち回れるだろうかと不安になる。所作やマナーなんかはイルゼの身体が覚えていたけれど、知人どころか両親の顔も分からないとなると、さすがに怪しまれるに違いない。
それでも今回のパーティーから逃げたところで、こういった機会は次々とやってくるはず。明日から必死に勉強をして何とか乗り切るべきだろうと、腹を括る。
それと同時に、ふとひらめいてしまった。
(もしかして、シーラとギルバート様を出会わせる良い機会なのでは……?)
──小説での二人の出会いは、シーラが日雇いのメイド仕事をしていたパーティだった。そこでギルバート様とシーラはお互いに一目惚れをして、身分差の恋が始まる。
それからも運命に導かれた二人は、様々な場で偶然再会しては、互いにより惹かれていく。
けれど二人には公爵と平民という身分差だけでなく、イルゼという悪妻がいる妻帯者という、数々の障害があった。
そして誠実な二人は決して愛の言葉を口にすることもないまま、ただ想い合うだけの日々を過ごす。
(本っ当に最高の切ない両片想いなのよね……)
けれど物語の終盤でイルゼとシーラの取り違えが発覚し、全てがひっくり返ってハッピーエンドという物語だった。
とにかくシーラをパーティー会場に呼び出し、ギルバート様と出会わせれば物語や恋は始まるのではないだろうか。
先日の事件現場ではシーラは深くフードを被っていて顔は見えなかったし、シーラもギルバート様に一目惚れをする余裕だってなかったはず。やはり全てをやり直すべきだろう。
(まずは明日、シーラに手紙を送らないと)
このままシーラに私への妙な恋心もどきを抱かせたままではいけないし、きちんとギルバート様と出会ってもらい、目を覚ましてもらいたい。
そんなことを考えていると、ギルバート様がすぐ目の前で私の顔を覗き込んでいることに気が付いた。
「一人で百面相をしていましたが、大丈夫ですか」
「はい、大丈夫です! 来週末のパーティー、絶対に絶対に一緒に行ってくださいね! 約束ですよ」
「……ええ、そのつもりです」
眉を寄せるギルバート様を他所に、私は新たな打開策を胸に自室へと軽快な足取りで向かったのだった。