イルゼとシーラ 2
「どうして、あなたがここに……」
そこにいたのはなんと、先日あの事件現場で最後に助けた女性だったからだ。顔色もとても良く元気そうで、やはり年齢を感じさせないほどの美人だった。
「お母さん? どなたかお客様がいらした、の──」
「……え」
驚きながらも無事で良かったと思っていると、女性の奥からさらに人影が現れる。
そして彼女も私もお互いの姿を見た瞬間、石像のように固まってしまった。
(本物のシーラだわ……)
絹のように輝く美しい金髪に、イルゼより少し濃いアイスブルーの瞳。小さな顔には果実のような唇、すっとした鼻、金色の睫毛に縁取られた大きなふたつの目が並んでいる。
イルゼだって信じられないほどの美人だけれど、シーラは可愛い雰囲気を纏いながら儚さもあって、言葉では言い表せないくらいに愛らしかった。
色々言いたいことがあったはずなのに「下界にも天使って存在したんだ」なんて陳腐な感想しか出てこないくらいに。
(……待って、今「お母さん」って言った?)
大好きなヒロインを前に感動しきっていたものの、我に返った私はシーラと女性を見比べた後、口元を手で覆った。
──小説の中でシーラは孤独な一人暮らしの中、ギルバート様と出会う。
過去に母親を亡くしたと書いてあったけれど、もしかしなくても私がその母親を救ったのではないだろうか。
そして、つまり。
(この人が、イルゼの本当のお母さん……)
イルゼと同じ色の瞳や美貌にも納得がいく上に、先日感じた既視感の正体はこれだったのだと、今になって気付く。
あの日は深くフードを被っていたから顔は見えなかったけれど、声だって間違いなく同じだった。
何もかもに対して驚きを隠せずにいる私の右手を、女性は両手で宝物のように包んだ。
「本当に、本当にありがとうございました……! 命を救っていただいたのに、先日はお礼も言うことができず……」
目にいっぱいの涙を浮かべる女性からは、心から感謝してくれているのが伝わってくる。
そんな女性を制止するかのように護衛の男性が手を伸ばしたけれど、私は小さく首を左右に振った。本来、平民が公爵家の人間に許可なく触れるなんて、あってはならないことだというのも分かっている。
それでも私は触れられていない方の手で、そっと女性の手を握り返した。
「いえ、元気なお姿を見られて良か、った、です………」
すると突然ぽろぽろと涙が溢れて止まらなくなって、女性やシーラ、そして護衛の男性の顔に困惑の色が浮かぶ。
ごめんなさい、と慌てて女性から手を離して涙を拭ったものの、止まってくれそうにない。
(……私「お母さん」を助けられたんだ)
もちろん目の前にいる女性が、実際には私自身とは縁もゆかりもない相手だと分かっている。それでも無性に泣きたくなってほっとして、どうしようもなく嬉しかった。
「ぐすっ、本当すみません、こんないきなり……」
「イルゼ様……ありがとうございます」
「えっ? 何がですか……?」
「本来ならお話をすることすら叶わないくらい高貴なお方なのに、見知らぬ平民のために涙まで流してくださって……」
「いやあの、そういうわけでは……」
「ええ、イルゼ様は女神様のようなお方です。ご自身も限界だったはずなのに、命懸けで救ってくださったんですもの」
なぜか私の名前を知っていた二人は心底感動した様子で、口々に私のことを褒め称えている。
勝手に自分の過去と重ねてセンチメンタルになっていただけなのに、二人の目には慈愛に満ちた姿に映ったらしい。
「旦那様である公爵様も素晴らしいお方で、身分を問わず大勢を救おうとするお二人の姿には本当に感動しました。なんて素敵なご夫婦だろうと、胸を打たれてしまって」
「あっ……ありがとうございます…………」
「もしかして今日は私なんかの心配をして、こんなところまできてくださったのですか……?」
「そ、そんなところ、ですかね…………」
「イルゼ様……ありがとうございます……!」
このとてつもなく感動溢れる空気の中で「その夫とシーラさんに愛し合ってもらいたくて来ました」なんて馬鹿げたことを言えるはずもなく。
私は必死に笑顔を作り、話を合わせることしかできない。
「おや? 奥様の仰っていたお話とは随分違いますね」
「やだ、私ってば……助けられたと助けたを言い間違えちゃったみたい……おほほ……うっかり……」
耳元で護衛にそう囁かれ、無理のありすぎる強引な言い訳をしておく。これは絶対にギルバート様への報告コースだろうと思いながら、ここからどうしようと内心頭を抱えた。
◇◇◇
それから10分後、私はシーラと共に近くの草原を並んで歩いていた。シーラのお母さんはあの日、血を流しすぎたこともあってまだ安静にする必要があるらしい。
そもそもシーラと二人で話をしたかったため、護衛の男性にも離れた場所で見守っているようお願いしてある。
「イルゼ様にまたお会いできると思っていなかったので、本当に嬉しいです」
「私もシーラ……シーラさんと会えて嬉しいです」
あの日、ギルバート様が私をイルゼと呼んだのを聞き、名前を覚えてくれていたらしい。こうしてシーラと並んで歩いているなんて夢みたいで、ドキドキしてしまう。
それでいて肩が触れ合いそうなくらい距離が近くて、落ち着かない。私からすれば憧れの芸能人が隣を歩いているようなもので、緊張しっぱなしだった。
ふわりと風が吹くたび、シーラからは甘い花のような香りがして、私が異性だったら恋に落ちていたに違いない。
「ふふ、イルゼ様さえよければぜひシーラと呼んでください」
「本当? じゃあお言葉に甘えて」
いちいち笑顔も眩しくて、声だって想像していた通りで甘くて可愛らしい。どこまでも完璧なヒロインで、ギルバート様だってナイルお兄様だって夢中になるのは当然だった。
「……私はずっと母と二人で暮らしていて、母が私の全てだったんです。イルゼ様が助けてくださらなければ、今頃はひとりぼっちになって、どうなっていたか分かりません」
「シーラ……」
「本当にありがとうございました」
シーラは足を止めると私に向き直り、深々と頭を下げる。私は慌ててシーラの手を取り、顔を上げるようお願いした。
「もう十分お礼を伝えてくださったので、大丈夫ですよ」
「でも、どうお礼をすれば良いのか分からなくて……お恥ずかしながら、私には何もありませんから」
切なげに微笑むシーラに対して「あなたは本当は公爵家の生まれなんです」と言いかけて、ぐっと堪える。
お母さんの話を聞いて、彼女にとってどれほどその存在が大きいのかも伝わってきた。
そんな中、今ここで私の口から「実は二人は本当の家族じゃない」と伝えるのは違う気がする。もしも伝えるにしても別の、彼女の心が落ち着いたタイミングがいいだろう。
(そもそも、私が勝手にしたことだもの)
とはいえ、ここで「何かあった時に私を助けてほしい」くらいはお願いしておくべきなのかもしれない。
それでも、心から感謝してくれているシーラに対して、利用するようなことはしたくないと思ってしまった。
「……実は私ね、ずっとシーラに憧れて励まされていたの」
「えっ?」
私はシーラの手を両手で握りしめながら、続けた。
「元々あなたを一方的に知っていて、どんな状況でも誠実でまっすぐな姿を見ているだけで私も頑張れて……あ、お母様を助けることができたのは偶然なんだけど」
小説を何度も読んで、シーラに励まされていたのも、憧れていたのも全て本当だった。
同じく家族を亡くしてひとりぼっちの中でもシーラは強くてまっすぐで、それでいて他人を心から思いやり続ける凛とした姿に、何度も心を動かされていた。
「本当に、本当に大好き」
そんなシーラと実際に会えたこと、言葉にするとさらに好きの気持ちが大きくなって、笑みがこぼれる。
すると同時にシーラの両目が、大きく見開かれた。
(……はっ)
そこでようやく一方的に姿を見ていて「大好き」なんて伝える、気色の悪いストーカーのような存在になってしまっていることに気が付き、冷や汗が止まらなくなる。
画面の向こうの推しに「大好き」「いつもありがとう」と感謝を伝えるような気持ちだったけれど、私が何も知らないシーラの立場だったなら、怖くて普通に泣くと思う。
「ご、ごめんなさい! いきなり一方的にこんなことを言われても気持ち悪いですよね」
「…………」
「あの、それで何が言いたいかと言うと、お礼はもう十分もらっているってことで──っ」
やらかしてしまった、オタクの悪いところが出た、もうさっさと帰った方がいいだろうと思った瞬間、シーラの手を掴んでいた手をぐいと引かれる。
そして気が付けば、視界は彼女でいっぱいになっていた。