悪妻は離婚したい 5
手のひらだけでなく、口から溢れた鮮血もぽたぽたと顎を伝って服や地面に垂れていく。
燃えそうなくらいお腹も喉も何もかもが熱くて痛くて、ぐらりと視界が揺れる。
「ど、して……げほっ……」
「……魔力切れか」
再び咳き込む私の側で、ギルバート様は眉を寄せた。
魔力切れというものが何なのか、私は知らない。けれどこの数時間、ずっと全力で魔法を使い続けていたのは事実で、どんなものにも必ず限りはあるはず。
必死だったこともあって、こんな代償があることを私は想像すらしていなかった。
「もうやめた方がいい、あなたの命に関わります」
「そんな……!」
呆然とする私に、ギルバート様は淡々と告げる。いくら心の底から憎んでいる相手でも、ここで命を落とすことは望んでいないのかもしれない。
「うっ……お母さん……ごめんね……」
「…………」
まだ治療は半分も終わっておらず、素人目でも薬などではもうどうにもならないこと、魔法によって治さなければいけないことは分かった。
ここで私が手を止めれば、間違いなく女性は命を落とす。一方このままでは、私の命が危ういという。
(──それでも、諦めたくない)
そう決意して口元の血を手の甲で拭い、治療を再開した。
何もしなければ確実に命が失われるけれど、私が諦めずにいることで、二人とも助かる未来も開けるはずだと信じて。
「……は」
そんな私を見たギルバート様はやはり、信じられないという表情を浮かべていた。
「はあ、……はあっ……」
「どうして、そこまでしてくださるのですか……?」
掠れた声で女性の娘にそう尋ねられ、もう返事をする余裕もない私は、小さく笑顔を返すことしかできない。
──私は漫画や小説のヒロインみたいに、いつでも他人のために自分の命をかけて全力で頑張ることができ、誰からも愛されるような、出来た人間じゃない。
ここが異世界なんて場所で、自分ではない誰かになっているからこそ、できた選択だと思う。昨日の今日で、まだどこか現実味がなかったこともあるかもしれない。
また別の場所で同じような重傷者を前に同じ行動ができるかと問われれば、きっと分からない。
「……っう、……はあ……」
けれど両親が亡くなってひとりぼっちになって、もっとありがとうを伝えれば良かったとか、もっと一緒にご飯を食べれば良かったとか、わがままを言わなければ良かったとか。
些細なものから大きなものまで、ずっとたくさんの後悔を抱えて生きてきた辛い日々を、他の誰かに味わってほしくないという気持ちだけは本当だった。
「…………っ」
ぼやけていく視界の端で、ギルバート様がこちらへ手を伸ばしかけた後、きつくその手を握りしめるのが見えた。
本来、小説では誰よりも優しくて正義感の強い彼は、イルゼなんかのことも心配してくれているのかもしれない。
それからも意識が朦朧としながら治療を続け、目に見える外傷がほとんどなくなったところで、女性の指先が動いた。
「……っう……」
「お母さん! お母さんっ……!」
やがてゆっくりと目が見開かれ、美しいアイスブルーの瞳が現れる。年齢は30代くらいだろうか、改めて見るとかなりの美人で、それでいて不思議な既視感を覚えていた。
(本当に、本当に良かった……)
涙を流し抱きしめ合う二人の様子を見つめながら、自然と笑みが溢れるのを感じる。
私が救いたかったのは彼女達だけでなく、あの日の自分自身だったのかもしれないと、今になって思う。
そんな中、黒い煙が上がる瓦礫の周りはまだ騒がしく、大勢の人が走り回っていることに気付く。
「他に、怪我人は──」
幸い私自身も無事で、痛みも苦しみも先程より感じなくなっている。もしかすると平気なのかもしれないと立ち上がろうとした途端、ぐるぐると視界が歪んだ。
「イルゼ!」
ギルバート様がすぐに支えてくれたものの、力が入らず自分の足で立つことすらかなわない。先程より楽になったように感じるのは、逆に危険な状態だからなのかもしれない。
(全く身体が動かない……本当に限界なんだわ)
ギルバート様は確認するようにじっと私を見つめた後、赤い液体の入った小さな瓶を取り出した。
「これを飲んでください。魔力切れの応急処置薬なので、少しは楽になるかと」
「…………」
蓋を開けた小瓶を口元に差し出されたものの、全身の力が抜けてしまって呼吸だけで精一杯で。まるで自分の身体ではないみたいに、口を開けることすらできずにいる。
ギルバート様もそれを察したのか眉を寄せると、表情ひとつ変えずに自身が小瓶に口をつけた。
「んんっ……!?」
そして顔を近づけてきたかと思うと、私と唇を重ねた。突然のことに驚く私の後頭部を掴み、唇をこじ開ける。
やがて口内にはやけに甘ったるい液体が流れ込んできて、口から溢れそうになる。それでも無表情のギルバート様によって蓋をするように、ぐっと深く唇を塞がれた。
「飲み込んで」
合間にそう囁かれた私は、なんとか最後の力を振り絞ってごくん、と液体を飲み込んだ。その後すぐに、唇が離れる。
いきなりのことにパニックになりながらも、すうっと全身に何かが広がる感覚がして、一気に身体が楽になっていく。
なんらかの魔法によるものなのか、こんなにも早く薬が効くとは思っておらず、驚きを隠せない。
「な、なななっ……!」
一瞬にして身体が動くようになった私は、ギルバート様を見上げながら自分の口を両手で押さえた。必要な処置だと分かっていても、気持ちはすぐにはついてきてはくれない。
「もう重傷者はいないようですし、とにかくあなたは帰って休んでください。送ります」
動揺する私とは裏腹にギルバート様は冷静なまま、私をお姫様だっこ状態で抱き上げ、歩き出す。
これ以上面倒なことはするな、大人しく黙っていろという強い圧を感じ、ぐっと口を噤む。
「……ありがとう、ございます」
迷惑をかけているのも、自分の足で屋敷まで帰ることすらできないのも事実で、私はそれだけ言うと身体の力を抜いてギルバート様に体重を預けた。
薬が効いても、やはり色々と限界なのには変わりない。
(……あたたかい)
たくさんの人を救えて良かったと改めて思うのと同時に眠気が込み上げてきて、彼の腕の中で静かに目を閉じた。
──そんな私を、ギルバート様がどんな表情で見つめていたのかなんて知らずに。
◆◆◆
「こうして命を救っていただいたのに、お礼を伝えることすらできなかったなんて……」
「…………」
「シーラ?」
喧騒の中、深く被っていたフードがふわりと風で外され、隠されていた顔と長く美しい金髪が露わになる。
その圧倒的で儚げな美貌を偶然目の当たりにした、辺りの人々は一斉に息を呑む。
それでもシーラと呼ばれた女性は気に留めることなく、遠ざかっていく馬車をぼうっと見つめ続けていた。
「イルゼ、様……」