悪妻は離婚したい 3
「──え」
痛む身体を起こし、振り返る。大きな建物があったはずの場所には瓦礫の山が積み上がり、火の手が上がっていた。
何が起きたのか理解できず、呆然とその様子を見つめていると、ナイルお兄様がこちらへ駆け寄ってきた。
「イルゼ、大丈夫か!」
「……一体、何が……」
心から私の心配をしてくれているらしいお兄様は、飛んできた破片によってあちこち怪我をした私を見て、ひどく悲しげな表情を浮かべている。
あちこち血が滲んでいるものの、軽傷のようだった。
「大方、例の犯罪組織の仕業だろう。……まさかここまでするとは思わなかったが」
再び爆発が起きた場所へ視線を向けると、燃え盛る建物、逃げ惑う人々や泣き叫ぶ子ども、まさに地獄絵図だった。
(犯罪組織? そんな設定も小説にはなかったはず……)
分からないことばかりで強い不安や恐怖に襲われ、心臓がどくん、どくんと大きな嫌な音を立てていく。小さく震える私の身体をお兄様は両腕を掴み、支えてくれている。
「ううっ……誰か……たすけ……」
そんな中、すぐ近くで同じく破片で怪我をしたらしい男性が助けを求めながら、血塗れの手を必死に伸ばしていた。
私とは比べものにならないほど酷い怪我で、頭からは血が流れ続けている。
「薄汚い平民だ、放っておけばいい」
お兄様は苦しむ男性を冷ややかな目で一瞥し、吐き捨てるようにそう言ってのけた。
「それより、お前の美しい顔を早く治した方が──」
私はきつく両手を握りしめると、話しかけてくるお兄様から離れて立ち上がり、男性のもとへと駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「……っう……」
一番出血の多い頭に手をかざし、すぐに治癒魔法を使う。すると昨晩やメイドを治した時と同様に、傷が癒えていく。
「……は」
視界の端では信じられない、本気で理解できないといった顔でこちらを見つめるお兄様の姿が見えた。
身なりを見る限り、目の前の男性は平民なのだろう。ナイル・ゴドルフィンという人が身分至上主義だということも、もちろん頭では理解していた、けれど。
(……私もいずれ、あんな目を向けられるんだわ)
今は妹として優しく大事にされているから、勘違いしそうになっていた。いずれ全てが明らかになった後も、少しくらいは情を抱いてくれるのではないかと。
けれど彼は間違いなく、私を簡単に見捨てる。
何より生まれ持った立場の違いや価値観の違いがあると分かっていても、傷付いて苦しんでいる人に対してあんな言い方をしたことも許せなかった。
「良かった、治った……」
やがて無事に全ての怪我が治り、ほっと胸を撫で下ろす。
「あ、ありがとうございます……あの、私なんかを救っていただいて、どうお礼をすれば良いか……」
男性は明らかに上位貴族という身なりの私を見て、かなり戸惑った様子を見せている。
それも当然の反応で、平民から貴族に声をかけてはいけないこと、治癒魔法の対価は高額だということなどは、私も小説を読んで知っていた。
「いえ、お礼なんて必要ありません」
余計な心配はさせたくないと思った私は笑顔でそれだけ言うとスカートを握りしめ、別の怪我人のもとへ駆け出した。
「…………やはりあれは、イルゼじゃない」
◇◇◇
「うわああん、痛いよお……! うああん……」
「よく頑張ったわ。すぐに治すから、もう大丈夫よ」
瓦礫で裂けた足の怪我で泣き叫ぶ子どもの手を握り、涙を流す両親の側で、必死に治癒魔法をかけていく。
あれからずっと休みなく怪我人の治療を続けており、両手をかざしたまま、こめかみから流れていく汗を肩で拭う。
(こんな小さな子まで……それに怪我人が多すぎる)
周りにはまだ大勢の怪我人がいて、崩れた建物の中にもまだ人がいるらしいということも聞いている。
何が起こっているのか、これからどうなっていくのか分からないのも、どうしようもなく怖かった。
(それでも──)
周りに広がる悲惨な光景と、過去の記憶が重なる。原型を留めていない車、サイレンの音、血溜まりの中に倒れる両親の姿。幼い自分の泣き叫ぶ声が脳内でこだまする。
『お母さん、お父さん……やだ、やだよお……』
振り払うようにぐっと唇を噛み締め、前を向く。
あの頃の私は動かなくなったお母さんの身体に縋り付くことしかできなかったけれど、今は違う。
少しでも大勢の人を救いたい、あんな思いをする人がこれ以上増えないようにと、魔法を使い続ける。
(精一杯やっているけど、すごく効率が悪い気がする……)
正しい魔法の使い方なんて知るはずもなく、全て感覚でやっていることもあって、元のイルゼならもっと簡単に短時間でやってのける気がしていた。
そんな中、誰かが近付いてきて視界に影がさす。
「ここで一体、何を……」
見上げた先には今朝ぶりのギルバート様の姿があって、その後ろには護衛や側近らしい男性達が並んでいた。
(どうしてここに……そうだ、何か会議があるとか……)
部屋にあったギルバート様の予定を勝手に探ってまとめたイルゼの手帳に、そんなことが書かれていた記憶がある。その前後で騒ぎを聞きつけ、駆けつけたのかもしれない。
魔法を使い続けながらどう説明しようか悩んでいると、年輩の女性がこちらへ近づいてくる。
「こちらの方が治癒魔法を使って、大勢の怪我人を治療して回ってくださっているんです」
「……なんだと?」
女性の言葉に、ギルバート様の両目が見開かれた。