英会話
八月某日、隅々までマンション情報の書かれたビラを片手に、私は駅前で一人、溜息をついていた。行き交う人々は、肌の色が白い者か黒い者、もしくは理解しがたいような言語を話すものばかりで、こんなところで学生向けマンションのビラなんかを配ってどうしろと、最もビラを配る客層から離れた人々を前に、強い日差しに照らされながら一人、憂鬱に耽る。私はとある不動産会社でアルバイトをしている一介の大学生であり、今日は近くの大学のオープンキャンパスに合わせてビラ配りの業務に駆り出されたのだが、高校生の姿を見ていたのは朝の時間帯のみで、今の時間帯はただただ駅前に突っ立ち、頭がタコのように煮え切るまで辛抱強く立ち続けるという、非常に不毛な時間を過ごしていた。これを読んでおられる皆様は、
いや、それならビラ配りをしている意味がないだろう。他の場所に移動するか、もしくは早々に業務を切り上げ、店長に文句を言うべきだ。
と、思われるだろう。むろん、私もそうしたかった。しかし、店長の主張する論理では、オープンキャンパスから帰る高校生にビラを渡すため、最低一人はそこにいる必要があるとのことで、ゆえに私はそこを動くことが出来なかったのだ。ここで、有識者である皆さんは、また少し違和感を覚えたかもしれない。
最低一人?他にも何人かビラ配りしてるってこと?
その通りである。まだ朝早くの学生が通っていた時間帯、私の隣にはともに汗を搔きながら、一生懸命にビラを配っていた少女の姿があった。彼女は看護系の学校に通っている新入生で、そのビラ配りが初めてのバイトであったため、ほんの少しの緊張感を持ちながら、駅から大学へ向かう高校生たちへ、元気よくビラを渡していた。引っ込み思案で臆病な私は、隣でハツラツと頑張っている少女を横目に見ながら、そんなに張り切って体力は持つのかと不安に思っていたが、彼女とバイト前に少し話していた際、高校まではバトミントン部に所属していたと言っていたので、スポーツ系の元気ハツラツの子ね、はいはい、なら大丈夫か、とぼんやり思っていた。まだ太陽が昇り切っていない昼前頃、彼女は少しフラフラとした様子で、どうやら熱中症に罹ったらしかった。店長に電話すると、無駄にオレンジ色の目立つ社用車が迎えに来て、白馬の王子様さながら、ガンガンにクーラーの効いた車内に彼女を捻じ込み、会社へと連れ帰ってしまった。そんな訳であるから、一人残された私は、本当は居たはずのペアと代わる代わる休憩を取ることも出来ず、炎天下の中、一人でジリジリと太陽が頭を煮え立たせるのを待つという、非常に珍妙な状況下に置かれてしまったのだ。
マージで早く帰りたいと思いつつ、行き交う異国の人々をぼーっと見つめながら、私は煮え切った頭で、この夏の出来事を何となく振り返っていた。実は、私は新学期が始まると同時に自由の国に飛び、そこで三か月ほど英国の生活を謳歌していた。形式的には短期留学という形であったが、その内実は、語学学校で簡単な英語を学びながら、放課後や休日は完全自由という、ほとんど観光旅行に近いものであり、私は、ゴールデンゲートパーク、ピア39、ミューアウッヅやアルカトラズ島など、カリフォルニア州の主要と思われる観光地はほぼすべて回った。私は海外に行った経験がほとんど無かったため、その英国での生活がとても刺激的であり、中々にいい観光旅行になったなあと思っていたのだが、一方で、趣名目であった語学の方はからっきしで、親に留学費用のほとんど肩代わりしてもらっていたのもあいまり、少しの罪悪感を胸に抱いてもいた。実際、日本に帰ってから全く英語を使わず2週間も経つと、約3ヶ月で培った私の英語力は、留学前とさほど変わらなくなったように思われ、そこには、自己嫌悪や空虚感など、少しの虚しいものばかりが残っていた。
確かに、観光してばっかりではいたけど、少しは勉強頑張ってたんですよ?積極的にホストファミリーに話に行ったり、留学最後の2週間では、ボロクソ言われながらインターンシップ頑張ったり。少しは頑張ったんです。
そんなふてくされたような感情を引きずったまま、私は炎天下の中、ビラ配りをしていたのである。小一時間ほどが経ち、太陽がギラギラと輝きを増してきた頃、私は突如、一人のインド系の観光客に話しかけられた。
「Excuse me, can I smoke here?」
茹で上がった私の頭は、まずその観光客に話しかけられたという事象を認識するのに数秒を要するほど機能が落ちており、ましてや久しぶりに聞いた英語であったため、その解釈にもかなりの時間を要した。最初は、何言ってんだこの人?という感じだったのだが、留学での経験を思い出しながら、たどたどしい英語で、
「Oh...,I think You can’t smoke around here.」
と返した。
「in public space?」
「Yes」
「Ok, thank you.」
私は、そう言って手を合わせて去っていく彼の背中を見つめながら、意外と英語いけたなあと、あの留学も何か意味があったのかなあと、少しの充足感を感じていた。