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カトレア

 七月、休日の夕暮れ時、私は暗くなり始めた茜色の石畳を歩いていた。ガス灯に明かりがつき始め、行き交う人々は、休日の和やかさに満ちた幸福そうな表情で、みな誰かと共に歩みを進めている。そんな人々を他所眼に、私は黒のジャケットに、黒のスレンダーパンツといった装束で、古びた木製の杖を右手に一人、猫背の姿勢のまま俯き気味に歩いていた。シャランという鈴の音のような音を小耳に捉え、ふと顔を上げると、前方の道の右側に面している店先で、アラビア風のドレスに身を包んだ一人の踊り子が、踊りを踊っていた。その肢体の流れ方、動き方は、自身の体の可動域を熟知した上で、その身体の先にまで迫力が広がっている、とても艶めかしく魅惑的で、人々の目を一瞬にして釘づけにして離さないような、そんな踊りであった。その踊り子の周りには観衆が数人おり、そのうちの一人、十歳くらいに思われる、ベレー帽を被り、白シャツにサスペンダーという格好の少年が、私の目を強く引いた。周りの観衆が皆成熟した男たちであり、その踊り子に対して性的な甘美と侮蔑の視線を向けているのに対して、その少年は、踊り子の魅惑的で性的な雰囲気に、未熟者らしくあてられ、恥ずかしがるでもなく、逆に、自身の純粋性に基づく性的な表現への嫌悪の表情を表すでもなく、ただ鋭く光る眼光で、その踊り子の踊りに内包される芸術性のみを余すところなく感受しようと、引き締めた表情で見つめているのであった。そして、その少年の力強い雰囲気は、私にかつてのある記憶を呼び起こさせた。


 それは、私がまだ年端もいかない少年であったころ、母と共にある町はずれの商店街に買い物に出かけた際の記憶であった。母と共に一通りの買い物を済ませ、夕暮れ時、そろそろ家路につこうかと穏やかな雰囲気に包まれていた際、私は街路に咲いてある桃色の大きな一凛の花に気を惹かれた。近寄って見てみると、その花の香しい芳醇な香りや、茎の根本から生えている細く長い葉のザラザラとした感触は、不思議と私を虜にさせた。しばらく見惚れ、ふと顔を上げ周りを見渡すと、先ほどまで一緒にいた母の姿が何処にも見当たらなかった。私は驚きと共に、和やかな世界から、一瞬にして知らない街に独りぼっちとなってしまった孤独を感じ、激しい動悸に襲われ始め、その場に蹲ってしまった。その時の寂しさと言えば、今まで生きてきた世界には存在しなかった初めての孤独で、その衝撃や不安感、焦燥感は、今でもまざまざと思い出せる。そんな状態で、私が膝を抱え、俯き、泣きべそをかき始めてしまった時、私は、少し遠くの方で、ある歌声が響いているのを聞いた。私が涙ぐんだ目を手の甲で擦りながら、その歌声の聞こえる方へ歩いてみると、洋風の可愛らしい素朴な衣装に身を包んだ女性が、地元の民謡歌と思われる歌を歌っていた。その歌声は、とても透明で、かつ温かみのある毛色を帯びており、周りの聴衆はみな、彼女の歌声や、その明るく優しい笑顔に、聞き惚れ、見惚れていた。彼女は歌い終わると、聴衆に向けて一礼をし、聴衆はそれに応えるよう、惜しみのない賞賛の拍手を彼女に送った。私が少し呆然と、彼女が地元のおじいさんや、友達、幼い子供たちやその母親と他愛無い会話をしながら、笑いあっているのを見つめていると、私の視線に気づいた彼女は、軽い足取りで私の前にき、少ししゃがんで私と目線を合わせ、「はいこれ」、と手に持っていたカトレアの花を私に手渡した。私がその花を見つめていると、彼女は、「君、どこから来たの?ここら辺じゃ見ない顔だね、親御さんとかは居ないの」と私に質問してきた。私が、母親と逸れてしまったことを伝えると、彼女は少し同情の眼を向け、「それは大変、早くお母さんを見つけないとね。大丈夫、私に任せて」と、私の左手を引き、母を探すため、共に商店街を歩き回ってくれた。私は、手を引かれている間、彼女のそのしなやかな背中に、何か、温かみと安心と勇敢さを含んだ、優しさの光を見た。その後、私は無事母と再会することができ、私は彼女にお礼を言い、きっといつか、また貴方に遭いに来て、お礼をすると誓った。彼女は笑って私の頭を撫で、「またいつかね」と言い、スカートの裾を少したなびかせながら、私たちに背を向けて去っていった。


 結局、あれから何度かあの街に赴き、彼女が何処かで歌を歌っていないものかと探したのだが、ついに彼女との再会を果たすことは出来なかった。そんなことを思い出していた折に、気づけば観衆はみな去っており、残っているのは踊り子と、あの少年だけであった。踊り子は、優しい笑顔で何かを少年に語り掛け、少年は神妙な、もしくは情事的な面持ちで踊り子に何かを伝えていた。すると、踊り子は何かを思いついたように、身を翻し颯爽と店の中に入っていったかと思うと、何かを片手にすぐに少年のもとに戻ってきた。彼女は少年と目線を合わせるようにしゃがみ込み、少年にその手に持っていたものを手渡した。それは、真っ赤なカトレアの花であった。

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