聖女に振られたせいで廃嫡寸前の王太子の奮闘
王太子のレナートは、聖女に振られた。
正確には、聖女と王太子の結婚は既定のものと考えられていたのだが、婚約申し込みの儀式の際に、聖女にあっさりと、「お受けできません」と言われたのだ。
それが、事の始まりだった。
このバルテガン王国では、数百年に一度、王国全体に張り巡らされた結界の張り直しが必要となる。そのために、召喚されるのが聖女と呼ばれる異界の女性である。
結界が綻びを見せ始めたのは、約十年ほど前のことだった。
通常は、結界が破壊されたとしても、それはすぐに自動的に修復され、侵入者があったとしても、それは王国軍によって討伐される。
しかし、十年ほど前からその修復速度が遅くなり、それをいち早く察知した王国を取り巻く森に住む魔族達がその動きを活発化させた。ついには、たびたび王国への侵入を繰り返し、被害をもたらすようになった。彼らは豊かな土地を常に狙っていたからだ。
時間のかかる聖女の召喚の準備と並行して、王国軍の強化がはかられた。その時が来るまで、この王国を守り抜くために。
現在二十三歳の王太子レナートは、そんな王国の危機に接しながら育ち、自らも剣を取ることを選んだ。
十五歳で初陣を飾ってからずっと、彼は王国軍の先頭に立ち、民のため、国のために戦い続けてきた。
その彼の人気は絶大であり、聖女の召喚と結界の張り直しが成され、平和が訪れると同時に立太子された。
彼も聖女と同様に、救国の英雄と称されている。
頑強な肉体に、端正な顔立ち、そして、王族として身についた美しい身のこなしに夢中になる令嬢は後をたたない。品行方正を絵に描いたような真面目な若者だった。
彼は、戦いの日々を収束させ、平和をもたらしてくれた聖女に、妻となる人として最大限の敬意を払いながら接していたつもりだった。
だからこそ、冒頭の仕打ちに、彼は頭を悩ませる事になったのだ。
聖女は召喚されてやって来た異界の者である。
今代の聖女としてやって来たのは、十八歳だと言う、黒髪と黒い瞳が神秘的な女性だった。本名はミナと言い、「ニホン」という島国で暮らしていたのだという。
彼女は一通りの修行を終えると、見事にその役割りを果たした。
そして、役目を終えた聖女は、聖職者や官吏から、「聖女は王族と婚姻を結ぶ」という慣習のもと、王太子との婚約を告げられた。
その際、けして喜びとは言えない表情を浮かべたそうである。
だが、この国の慣習と、未来の王妃となる事が確定している旨を説明されると、納得したように見えたと言う。
だからこそ、王太子からの婚約の申し込みの儀式は挙行されたのだ。しかし結果は、皆の期待を裏切るものであった。
異界からもたらされる、その尊き血は、この国において数千年の間、王権の寄って立つところとされてきた。
聖女を娶り、子を成さなければ、王太子レナートには国王となる資格が無くなる。
父の跡を継ぎ、次代の国王となることを当然のことと考えていた彼にとって、それは婚約が出来なかったという以上の意味を持っていた。
「聖女を懐柔せよ。もし、そなたの弟や従兄弟たちに王位を継がせる事態に落ち入れば、英雄であるお前をこのまま王家に置いておくことは出来ない。内乱の火種となるからな。だが、余はそなたを廃嫡したくはない。なんとか事を収めろ」
との王命により、彼は聖女とお茶の時間を過ごすことになった。
レナートは真面目な青年だった。彼は女性に好かれる術を知ることなく、この歳まで生きて来た。そのため、その第一声が多少ぶっきらぼうになってしまったとしても、この王国にはそれを非難する者はいなかった。これまでは。
「そなたの希望に沿うように善処しよう」
「そう言われても。あたし、あんまり筋肉がついている人はちょっと。細マッチョも無理なくらい」
言っていることの意味が一部分からなかったが、レナートは律儀に答えた。
「……この身体は、侵入した魔族を屠るため鍛え上げたもの。私が国を守って来た証でもある」
「はあ。そうなんですね。でも、私が結界張ってあげたし、もうほとんど魔族なんて入ってこないんでしょ? もうどうでも良くないですか? そんなの」
「…………」
「理知的って言うか、細身でメガネが似合う人がタイプなんですよね、あたし。
あ、はっきり言っちゃってごめんなさい。あたし、いつも、サバサバしすぎって怒られちゃってて、友達とかに。まあ、それがいいっていう男子も多くて、かなりモテたんですけど」
彼女は、くるくると真っ直ぐで艶やかな自分の黒髪を指で弄んでいた。レナートの顔を見ようともしなかった。
困りきったレナートは、その翌日、友人を王宮に呼び出した。
幼馴染でもあり、軍でも共に鍛錬する仲である、エドワード・ソルトナー侯爵令息だった。年齢はレナートよりも一つ下の二十二歳である。
彼は美男子で有名であり、女性との浮名も聞かれる。相談相手としては、うってつけだと思ったのだ。
だが彼も、昨日の聖女との会話を話して聞かせると、眉を寄せて黙り込んでしまった。
「……筋肉を落とせと言いたいのか? その聖女は。これからも、魔族の侵入だけでなく、国内外で起こるだろう問題に対処していかなくてはいけないお前の立場を、理解していないのではないか?」
「それは、説明したと聞いたが」
「聞いても理解しない者はいる。その聖女、聖女としては優秀だったかもしれないが、王妃の器ではないな」
「……滅多なことを言うな」
「まあ、そうだよなぁ。妻にするしかないもんなぁ」
エドワードは、自分の手にも負えないと言い放った。そして、女心は女性に聞けと、もう一人の幼馴染を呼び出させた。
ルカティア・アルトバルン公爵令嬢である。才色兼備と名高い、現在十九歳の女性だった。
万が一、レナートと聖女との婚姻がなされなかった場合、次に聖女の相手として名が上がるのは、第二王子である。そして、ルカティアはその第二王子の婚約者だった。彼女も利害関係者の一人である。
「まあ……。なかなか発表がないと思っていましたら、そんなことに……」
「そうなんだよ、ティア。この朴念仁に、女心を教えてやってくれ。あと、見た目も納得させなければならないらしいからな。こちらの方が問題だ」
ルカティアも、レナートとエドワードを交互に見つめながら、困りきった顔をしている。
「申し訳ありません。私にも聖女様のお気持ちが分かりません。なぜ、レナート殿下のような国王となるべきお方を拒まれるのか」
「この筋肉がお気に召さないそうだよ、ルカティア。こればかりはどうしたら良いのか分からない」
レナートが苦笑しながら言うと、ルカティアは眉をさらに寄せた。
「そこが一番分かりませんわ。なぜ殿下の素晴らしいお身体に不満を漏らされるのでしょうか!」
「ティア、ティア、落ち着いて。君の好みは聞いてないから」
ルカティアは、はっとした表情をして、無礼を詫びると、「せめて清潔感を感じられるようになさるとよろしいかと」と言った。
「筋肉質な男性は、とかく汗臭いと思われやすいのです。もちろん、殿下はそんな事とは無縁でいらっしゃいますが。その辺りを考慮して、お衣装や髪型を変えられてはいかがかと」
結局、それくらいしかやりようは無かった。ルカティアや侍女の見立てのもと、レナートはいつもとは違う、明るい色の衣装と、前髪を上げ、それを後ろに流した髪型で、二度目の聖女とのお茶会に臨んだ。
エドワードとルカティアも物陰から見守ってくれているという。
だが、聖女は「全然ダメですね。あ、またはっきり言っちゃった〜。ごめんなさ〜い」と言ったきり、レナートを見ようともしなかった。なぜか、仕切りに自分の爪を気にしている。
「あたしの結婚相手って、第二王子になりません? 彼なら、かなりタイプだし。優しいし。女心分かってるなって感じだし。
ね? ダメなんですか? 王族と結婚すればいいんでしょ?」
レナートは、弟と聖女が知り合っていたことは知らなかった。しかし、それはおかしなことではない。弟は、まず間違いなく王位を狙っている。そこに最短で辿り着くための道があるのなら、それを取るのは当然のことだろう。
「せ、聖女様それは……。第二王子殿下には婚約者もおられますし……」
側に控えていた、聖女の侍女が顔色を無くして彼女を止めた。
が、止まらなかった。
「あたし、希望の大学にも受かって、やってみたい仕事もあったのに、いきなりこっちの世界に連れてこられたんですけど。
それなのに、頑張って国の一大事を救ってあげたわけでしょ? 恩人でしょ?
その恩人に普通、結婚相手まで勝手に押し付けたりします?」
レナートもそれは申し訳なかったと思う。しかも、元の世界に戻してやることも出来ない。出来るだけ彼女の希望に添おうとしたのもそのためだ。
「それは詫びよう。だが、これもまた習わし。王位を継ぐ者が聖女を娶るのだ」
「は? 娶るとか、気持ちわるっ。それに、王位を誰が継ごうが大して変わんないでしょ? 平和になったんだし。政治をするのは官僚だろうし。
それに、第二王子に婚約者、でしたっけ? そんなのいくらでも婚約解消出来るでしょ? まだ結婚してるわけでもないんだし」
「だが、それは大変非常識なことだ。お相手の公爵令嬢にとっては不名誉にもなる」
レナートは、この様子を見聞きしているであろうルカティアのためにも、聖女の心を自分に向かせなければ、と思った。
しかし……。
不機嫌そうに彼を睨みつけた聖女は、もし大勢の耳に入れば、王国全体に激震を走らせるであろう、その言葉を口にした。
「あ、結界って、壊せますよね? 新しいのを張った後に、古い方の結界を壊したけど、それと同じことすれば、新しい結界も壊れちゃうんじゃないかな〜〜って」
その場がどよめき、レナートの背筋にも冷たいものが流れた。
その日は緊急で、国王も臨席する、元老院が開かれた。
レナートと、第二王子のチャールズも同席させられている。
二人は母親が違い、見た目も正反対だ。
線が太く、鍛え上げられた肉体を持つレナートとは対照的に、チャールズは線が細く、繊細な印象で、どちらかと言えば女性的な顔立ちをしている。
チャールズは王位が転がり込みそうな展開に大層機嫌が良さそうだ。
「これは、過去の文献にも例のない事態だ」
国王が頭を抱えて言った。
「しかし、万が一、聖女様がそんなことをなさるはずがないと思いますが、万が一、結界が破壊されれば、いや、万が一ですが、大昔の混沌とした不浄な時代に逆戻りとなります」
「もちろん、慈悲深き聖女様はそんなことはなさらんでしょうがな。しかし、安全策を取る方がよろしかろうと。さよう。大変に残念なことではありますが」
元老院は、レナートの廃嫡を決定し、国王もそれを認めるしかなかった。
「レナートには、大公位を授け、現在レナートが管理する王家の領地の一部を譲り渡すこととする」
国王はそう言いながら、手を握りしめて、苦しげに顔を歪めていた。
レナートは、それが国王である父が、息子に対して出来る最大限の事であると分かった。
彼は父に首肯すると、今後のことを話し合うという元老院を後にしたのだった。
それから一月後、聖女ミナと王太子となったチャールズの婚姻の儀式が執り行われた。
王国の人々は、二人の婚姻を祝いつつも、英雄である元王太子がなぜ廃嫡されなければいけなかったのか、その理由を知りたがった。だが、それは秘密厳守の国王命令のもとに秘匿された。
レナートは式に出なかった。そんな気分ではなかったのだ。そんな彼の元に、当主ではないため式に招かれていないエドワードがやって来た。
「聞いたか? 当然だろうが、ティアの姿も式には無かったそうだ。可哀想にな」
「彼女が一番の被害者だろう。聖女の召喚の代に当たらなければ、王妃にもなれたであろう、素晴らしい女性だと言うのに」
「……今頃、公爵邸で泣き腫らしているかもな。幼馴染のよしみで、慰めに行こうかな」
エドワードは、「お前もこんな所抜け出せよ。今日くらい」といって、レナートも連れ、アルトバルン公爵邸に乗り込んだ。
式に出席している公爵夫妻は当然不在であり、ルカティアが慌てた様子で二人を出迎えた。
レナートはとりあえず、ルカティアが泣き腫らした様子がないのにほっとした。
「お二人とも、こんな日に出歩いてよろしいんですか?」
「この堅物を王宮から連れ出したかったんだ。ティアの様子も気になったしね。でも、悲しんだりはしていなそうだ」
ルカティアは、「お父様は大層がっかりしておいででしたけど」と、特に無理をした様子もなく微笑んだ。
「相手が聖女様では仕方ありませんから」
「まあね。で、傷心ではないティアは何をしていたの?」
「ここ数日は書庫に籠りきりでしたの」
彼女のその言葉にレナートが笑いを漏らした。
「相変わらずだな。ルカティアは。そんなに読みたい本が溜まっていたのか?」
「あ……」
ルカティアは口元を押さえたが、意を決したように言った。その眉はひそめられていた。
「リチャード殿下との婚約が決まってから、ほとんど本は読んでいなかったのです」
「……なぜだ?」
「リチャード殿下は、賢しい口を聞く女はお嫌いだと仰って。それを聞いた父に禁じられたのです」
「……なんだそれは」
「ひどいな。あいつ、ティアにそんなことまでしてたわけ? 自分はやりたい放題で……あっ」
レナートには分からなかったが、エドワードとルカティアの間では共通の認識だった事がすぐに分かった。
「リチャード殿下は幾人も愛人をお持ちですからね」
「ティア、知ってたの?」
「わざわざ教えてくださる方がおりますのよ。聖女様にも近いうちにそういう者が近づいて、耳元で囁くのでしょうね。お気の毒ですわ」
レナートは、リチャードに対して怒りを感じた。感心するような点は一つも持っていない弟だったが、せめてルカティアのことは大切にしていると思っていたのに。
「辛かったな、ルカティア」
「いいえ。仕方のないことと……思っておりましたから」
ルカティアの健気な様子に、レナートは庇護欲を掻き立てられた。婚約を破棄されるという、貴族女性にとっては大変酷い目に合わされ、今後の縁談にも支障が出ると分かっていても気丈に振る舞う彼女を、自分の手で守ってやりたいと思ったのだ。
「エドワード。証人になれ」
「は?」
レナートは、エドワードを押し除けて、ルカティアの前に跪いた。
「え、あの、殿下?」
「ルカティア・アルトバルン公爵令嬢。あなたにお話ししたいことがある」
「は、はい……」
「私は近く王都を離れ、大公領に移り住む予定だ。もしあなたが嫌でなければ、一緒に来てはくれないだろうか」
「え、は、あの、それは、客人として……?」
戸惑って目をキョロキョロと動かしながら、頬を染めていくルカティアの様子に、レナートは胸が締め付けられるようだった。
惹かれていた。ずっと前から。
「違う。私の妻になって欲しい。昔から、未来の王妃に相応しいのは、あなただけだと思っていた。今までは立場上あなたの事は諦めざるを得なかった。だが、今はその立場もなくなった。どうか、この申し込みを受けてはもらえないだろうか」
「……本気で仰って……」
「私は心に無いことは言わない」
レナートは、手を差し出した。ルカティアは自分の両手を胸の前で握りしめていた。その手に触れたかったのだ。
ルカティアは頬を染めながら、そっと彼の手の上に自分の手を重ねた。
「もちろん、もちろん喜んでお受けいたします! ずっとお慕いしていました……レナート殿下……」
レナートは彼女を引き寄せて、その頬を伝い落ちる涙に口づけた。
その後、聖女と新たな王太子の婚姻の儀式と、その後の夜会から戻った公爵夫妻は、その疲れを一瞬で吹き飛ばされることになった。
証人だからとレナートに引き止められていたエドワードが公爵邸を後にしたのは、明け方近くになってからだった。
聖女らの婚姻の儀式から遅れること二ヶ月半、大公領で、その地位からは想像もできないほど、こじんまりとした婚姻の儀式が執り行われた。
参列したのは、新婦の実家である公爵家の面々と、彼女の親しい友人、そして、エドワードをはじめとする、新郎の友人たちだけだった。
質素にも思える式だったが、大公妃となったルカティアの衣装は、この短期間で用意したとは思えないほど、豪華で美しいものだった。彼女の夫となったレナートからの贈り物の一つだ。
参列者は皆、二人が本来の地位から追いやられた経緯を完全には知らない。エドワードを除いては。
だが、仲睦まじく微笑み合う新郎と新婦を見ていれば、二人が心からこの結果に満足していることは分かる。
参列者は、心の底から二人を祝福したのだった。
「レナート様。お願いがあるのですが」
「あなたの願いならなんでも聞いてやりたい」
レナートは彼の妻となった愛しい人を腕の中に閉じ込めていた。ベッドの上で。
「ルカティアと呼ぶのではなく、愛称で呼んでいただきたいのです」
「ティア、と?」
「あの、出来たら、皆んなが呼んでいる呼び方ではなく……」
「それは光栄なことだ。だが、なんと呼ぶのがいいだろうか」
彼は妻の手触りの良い金色の髪を撫でながら、考えを巡らせた。
「ルカ、では可愛げがないかな……」
「あ、それがいいです。そう呼んでください」
彼女は頬を染めた。
「今まで一度も、そう呼ばれたことはありませんので」
その可愛らしい様子に、レナートはついつい彼女の額に口づける。
「では、私の呼び名も考えてくれ。今まで愛称で呼ばれたことは……無いと思う」
「そうですわね。殿下を愛称でお呼びする事ができる方は限られますものね」
ルカティアは、しばらく眉を寄せて可愛らしく考えた後に、はっと目を輝かせた。
「レン、とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「そうしてくれ。二人の間だけの呼び名だ」
「嬉しいです。殿下」
「レンだろう?」
ルカティアは「さっそく間違えてしまいました」と言ってクスクスと笑った後、とても優しい声で彼を呼んでくれた。
「レン。あなたを愛しています」
「私もだよ、ルカ」
二人は心から満ち足りた気分で、相手を思いやるように、優しく口づけを交わした。
それから数ヶ月の時が流れた。
大公領は気候も良く、とても過ごしやすい土地だった。
この日は庭の一角の東屋に、三人分のお茶が用意されていた。
しかし、レナートの姿はない。
「なんだ、あいつ。人を呼び出しておいて」
「ごめんなさい。エドワード様。お客様がなかなかお帰りにならないようなの。よろしければ先にいただきましょう? 今日のために我が家の料理人たちが腕によりをかけましたのよ」
確かに、エドワードの前には、甘そうな菓子類、小ぶりに切り揃えられたサンドウィッチ、さらには様々な形のパイまで、たくさんの軽食が並べられている。
空腹を感じたエドワードは、大公妃となったルカティアに勧められるまま、それらを口にした。
どれもうまい、と言うと、彼女は嬉しそうに笑う。幸せそうで良かったと心から思う。
だが、三人ならともかく、二人だけではそう話題も続かない。野暮な事を聞くのもいかがなものかと、話題を探していたエドワードにルカティアから声がかかる。
彼女は給仕の侍女たちを下がらせていた。
「エドワード様、あなたはとても口が固くていらっしゃるわね?」
「ん? まあ、人並みには?」
「では、聞いていただきたい事があるのですけど」
エドワードは下世話な事を考えた。もちろん聞くに決まっている。
彼が頷くと、ルカティアは唐突に言った。
「前世はお信じになる?」
「は、え?」
「私、実は前世の記憶がありますの。そして、面白いことに、私はこの国に生まれかわる前、あの聖女と同じ、『ニホン』という国で暮らしていたのです」
エドワードがむせると、ルカティアはスッと水のグラスを彼の前に押しやった。
「もちろんあんな小娘は知らなかったけど、まあ、あの子は帰りたそうだったし、少しは可哀想だとも思ったわ。
ああいう女、大嫌いだけど。
でも何? レナート様を振った? 聞き間違えかと思った。バカすぎでしょ、あの子。レナート様よりも素敵な方なんてどこにもいやしないのに。
でも感謝すべきよね。あのクソみたいな婚約者を持ってってくれたんだから。どうやって破談にしてやろうかと思ってたんだけど、手間が省けたわ。ほら、やっぱり次に行くためにも効率って大事じゃない?
その上、レナート様が私を好きでいてくれたなんて、やっぱりこの世界は夢で、ここで目が覚めちゃうのかな、とか思ってたわけ。でも、そんなこともなくて。今は幸せ。前世よりもずっっっとね」
ルカティアは一息にそう言うと、優雅な仕草でお茶を飲んだ。
エドワードは何も言えなかった。平民が使う言葉とも少し違う、あの聖女の特徴的な話し方とそっくりなルカティアの話ぶりに圧倒されていた。
内容は、まあいい。そういうことだと受け止めよう。
だが、エドワードは戦慄を覚えていた。
聖女はあの喋り方をする時は、醜く口や顔を歪めていた。
だが、ルカティアは、いつものように貴婦人らしい微笑みをたたえたまま、それをやってのけたのだ。
離れたところに控えている侍女や従僕たちは、いつものように他愛のない話に花を咲かせていると思ったことだろう。
「で、あとでレナート様からもお話があると思うけど、あの頭の悪い二人の事をお願いしたいのよ。あの女が意味のわからない事を言い出しても、あたしに言ってくれたら、多分意味が分かるから」
「……は? なんで俺があの二人を」
「クリアデン侯爵夫人」
「!! おい、そんな昔の事。それにあれは、向こうが身分を隠しててっ」
若気の至りを持ち出され、エドワードは焦った。もし今からでもその件が表に出ると、なかなかに面倒な事になる。
顔色が悪くなったエドワードを尻目に、ルカティアの優雅な微笑みは変わらない。
こういう時、幼馴染はたちが悪い。だいたい何でも知られている。
「そういうことだから。あのバカ達に、この幸せな生活の邪魔をさせないで。よろしく」
彼女が強引に会話を終わらせると同時に複数の足音が聞こえ、レナートが護衛を引き連れてやってきた。
「待たせたな」
「殿下!」
ルカティアは、先ほどの会話などまるで無かったかのように、優雅に立ち上がるとレナートに駆け寄った。頬を染めて夫を迎えた彼女は、初々しい新妻そのものだ。
レナートは彼女に手を引かれ、その彼女を愛おしそうに見つめながら、その隣に腰掛けた。
少しばかり近すぎはしないだろうか、とエドワードは思った。
「すまなかったな。エドワード。わざわざ来てくれたのに」
「いや、それは別に……。客が?」
「ああ、王都の様子をひとしきり話し終わるまで動かなくてな。あの二人が随分と酷い有り様だから、何とかしてくれと泣きつかれた。私にはもう何の権限も義務も無いのだがな」
「まあ、俺もいろいろ聞いているが、国王陛下がその地位においでの間は大丈夫じゃないか?」
レナートはエドワードの言葉に頷いた。そして、ゆったりと笑顔を浮かべながら言った。
「そこで、だ。エドワード、今から文官になって出世して、宰相になれ。ある程度の地位までは私も後押ししてやれそうだ。その程度の影響力は持っていてくれと、方々から泣きつかれているからな」
「まあ、素敵ね。エドワード様のお祖父様は宰相を長くなさっておいででしたものね。きっとエドワード様も素晴らしい宰相におなりだわ」
「……俺に断る権利は?」
「ある。だが、エドワード。そなた以上にその能力があるであろう者を、私は知らない」
エドワードは、ルカティアをちらりと見やった。彼女はあの微笑みでこちらを見ている。
「……俺が宰相になったとしても、おかしな事はさせないぞ、レナート。この国を恨んでいるのなら協力は出来ない」
レナートはその言葉に、しばし考え込んだ。
「恨みか。そうだな。あれだけ魔物を屠り、この国を守るために戦った、その努力全てを否定された気になりはした。だが、私がそれを恨みに思い、この国に害をもたらすとしたら、それこそ私は自分自身の成して来た事を否定する事になるだろう。それに……」
レナートは、側で心配そうに彼を見つめる、愛しい妻の肩を抱いた。
「もしあのまま、私が王太子の地位にとどまっていたら、この世で最も大切な人を得られなかった。……恨んではいないな」
瞳を潤ませるルカティアを、レナートは優しく見つめ返す。
「……出来る限りのことはしよう。だが、あまり期待はしないでくれ」
「恩にきる。私に出来る事があればなんでも言ってくれ」
そこで、少しばかり照れくさそうに、ルカティアが手を叩いた。あの微笑とは違う、幸せそうな笑みを浮かべている。
「さあ、せっかく殿下もいらしたことですし、お茶会の続きをいたしましょう! 殿下は何をお召し上がりになります?」
「では、そのパイを取ってくれるか? ルカ」
「まあ、その呼び名は二人きりの時とおっしゃったのに」
「こいつはいいだろう。身内のようなものだ」
エドワードは、笑い合いながら菓子を食べさせ合っている二人を、生温かさと、若干の畏怖の念を込めて見やると、そっと席を立った。
二人の世界に入ってしまったレナートとルカティアは、しばらくそれに気づかなかった。
こうして大公夫妻は、約一名の犠牲者を出しながらも、末長く幸せに暮らしたのだった。
とはいえ、周囲に全く翻弄されない訳にはいかなかったが、それはまた、別の話である。
終
お読みいただき、ありがとうございました!