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別れた恋人が未だにこっそり我が家に来ている件について

作者: 墨江夢

「……おかしい」


 冷蔵庫の中を見ながら、俺・大咲陽二(おおさきようじ)は呟いた。

 俺の記憶が正しければ、昨日の朝の段階で冷蔵庫の中に缶ビールが3本入っていた筈だ。

 しかし泊まりがけの出張から帰ってきてみれば、この通り、缶ビールが1本だけになっている。

 差し引きして2本、缶ビールが消えているのだ。


 アイスのように溶けてなくなったなんてことはなく、腐敗したとも考えられない。

 あり得るとしたら、誰かが飲んだという可能性だ。


 昨日の朝家を出てから今帰ってくるまで自宅の敷居を一歩たりとも跨いでいない俺に、犯行は不可能。となると、俺以外の人物の仕業ということになる。


 現在一人暮らしの俺の家に入ることの出来る人間など、限られている。というかその中でこんなことをする人間、一人しかいなかった。


 しかし証拠もなしに犯人だと決めつけるのは、「疑わしきは罰せず」の精神に反する。少なくとも問い詰めた時に言い逃れが出来なくなるくらいの証拠は、集めないと。


 俺はまず、浴室に向かった。

 浴室でまず確認すべきは、排水口だ。

 排水口には髪の毛1本すら落ちておらず、綺麗に掃除されていた。

 ……これはおかしいぞ。

 だって髪の毛が1本たりとも落ちていないんだぞ? いつもこの浴室でシャワーを浴びている俺の髪の毛も、落ちていないんだぞ?

 そんなの、あり得ない。何者かが我が家のシャワーを使い、その痕跡を消すべく排水口を掃除した証拠だ。


 ……おっと、またも状況証拠発見。

 昨日よりもシャンプーとリンスの量が減っている。俺は使っていないのに。


 浴室の次は、ベッドに向かった。

 ベッドにダイブして、枕に顔を埋める。そしてその体勢のまま大きく息を吸った。


「スーーーーゥ」


 ……これは現場検証だ。断じて変態行為ではない。


 枕の匂いを嗅いでわかったことがある。

 なんだか甘い香りがする。この匂いは、俺のものではない。

 つまり何者かが昨晩、俺のベッドで睡眠をとったということだ。


 人の自宅に侵入し、入浴を済ませ缶ビールを2本飲み干し、その挙句ベッドで爆睡する。なんと大胆な犯行だろうか?

 一連の犯行は、俺が出張で昨晩家に帰らないと知っていなければ、到底出来るものじゃない。

 犯人は、俺の出張の予定を知っている人物だ。


 以上の状況証拠から、導き出される真実。それは――


「これ、琴夏(ことか)の仕業だな」


 やはりというべきか、案の定というべきか。俺は犯人を元カノの関根(せきね)琴夏だと断定した。


 琴夏には合鍵を渡しており、別れた現在もその合鍵は回収出来ていない。つまり彼女は自由自在に我が家に出入り出来るのだ。


 ベッドに残ったあの甘い香りも、琴夏のものだ。付き合っていた頃何度も嗅いだから間違いない。


 そして俺と琴夏は同じ会社に勤務しているわけだから、当然彼女は俺の出張の予定も把握している。


 以上の事情を鑑みても、琴夏なら犯行可能だ。というより、琴夏以外にこの犯行は不可能なのだ。


「別れた男の部屋で一晩過ごすとか、何を考えているんだよ?」


 琴夏の思考が、全くわからない。まぁわからないからすれ違いが起きて、別れるに至ったんだが。


 それでも俺はビールの缶を2、3本冷蔵庫に追加して、シャンプーとリンスも補充しておいた。

 またいつ琴夏が忍び込んでも良いように。





 琴夏との出会いは、4年前だった。

 当時の琴夏は新入社員で、彼女より2年早く入社していた俺は、上司から教育係を任された。


 教育係ということで、俺と琴夏は社内で常に一緒に仕事をしていた。

 そして業務だけでなく、新入社員のメンタルケアも教育係の役目だ。仕事終わりに居酒屋に行き、琴夏の悩みや愚痴を聞く。

 そんな事を繰り返しているうちに、互いに好意を抱くようになり……俺が彼女の教育係から外れるのを機に、付き合い始めた。


「私、子供の頃から甘えん坊なんです」


 初めて琴夏と飲みに行った時、彼女はそんなことを口にしていた。


 確かに仕事中も、やたら甘えてくる節があった。

 とはいえ仕事を押し付けたりサボったりするわけじゃない。自分に与えられた仕事をきちんとこなして上で、さり気なく甘えを見せてくるのだ。

 そこが男心をくすぐられるというか。そこに惚れてしまったというか。


 しかし彼女から言わせたら、「こんなのまだ序の口だ。私はまだ本気を出していない」というもので。

 その言葉を証明するかのように、付き合って以降の琴夏はそれはもうベタベタで甘々なくらい俺に擦り寄ってきた。


 そうなると、俺の庇護欲も一層刺激される。結果おねだりされてつい、合鍵を渡してしまったのだ。


 些細なすれ違いが大喧嘩に発展し、最終的には破局を迎えて――現在。

 もう俺たちは彼氏彼女じゃない筈なのに、琴夏は依然として俺の家に足を運んでいた。


「まずは勝手にウチに上がり込んでいることを注意しないとな。……だけど会社で問い詰めたところで、しらばっくれるに決まっているよなぁ」


 あいつはそういう女だ。


 そうなると、現行犯を押さえるしかない。

 俺の家に侵入したところを発見すれば、どんなに往生際の悪い彼女でも観念するだろう。


 俺はスマホを取り出す。

 SNSのアプリを開くと、『週末のバーベキュー、楽しみだなぁ。日曜も休みだし、夜遅くまで飲むぞ!」と書き込んだ。


 意図的に閲覧出来ないように設定していなければ、必ずやこの書き込みは琴夏の目に留まるだろう。


 勝負は今週末。必ずや琴夏から合鍵を回収してやる!





 週末、俺は学生時代の友人たちとバーベキューに行っている……ことになっている。

 実際は明かりを消した部屋に身を潜めて、琴夏が来るのを今か今かと待っていた。


 一応琴夏が俺のSNSを見ていない可能性を考慮して、これ見よがしに社内で「土曜日、バーベキューするんですよー」と言っておいた。俺の知る琴夏ならば、これで来ないわけがない。


 クローゼットの中に隠れること、1時間。その時はとうとうやって来た。


 ガチャッと、玄関の鍵が開錠される。続け様に、ドアが開く音が聞こえた。


 徐々にリビングに近づいてくる足音。やがて足音は立ち止まり、それと同時にリビングの明かりが付く。

 明かりに照らされた犯人の正体は――やっぱり琴夏だった。


「ただいま」


 いや、ここはお前の家じゃねーよ。そしてお呼びでもねーよ。

 しかし隠れている以上そんなツッコミをするわけにもいかず、俺はすぐにでも飛び出したい気持ちを必死で抑え込んだ。

 ……もう少し、様子を見てみよう。


 琴夏は鞄を置くと、ソファーに腰掛ける。その後どういうわけか、誰もいない隣に顔を向けた。


「陽二くん、私に会えて嬉しい? 私も会えて、すっごく嬉しいよ」


 えっ、何あれ? そこに陽二くんはいませんけど? だってクローゼットの中に隠れているもの。

 要するに、琴夏は今脳内の俺と会話をしているってこと? 何それ、怖っ!


 琴夏は抱き締められるフリをしたりキスを交わすフリをしたりと、存在しない俺とエアイチャイチャをし始める。

 勝手に自宅に入られた怒りよりも、彼女の脳裏で想像されているのが俺だということへの恥ずかしさよりも、純粋な恐怖が先行した。


 どうしよう。俺の元カノが、ヤバい妄想モンスターと化している。


 恐らくだが、別れた結果甘える相手がいなくなったのが琴夏をおかしくした原因だろう。

 甘える相手として、彼女は妄想で作り上げた俺を選んだのだ。


「えっ、何? 君の瞳は、宝石のように輝いてるって? 毎回そんなこと言ってくれなくても、きちんと伝わってるよ」


 そんな歯の浮くようなセリフ、一度たりとも言ったことはない。


「ダイヤモンドのような君の瞳で、婚約指輪を作りたいって? 陽二くんって、結構ロマンチックだよね?」


 どこがロマンチックだ。瞳を抉り取って指輪に嵌め込むとか、猟奇的以外に表現のしようがない。


「私、結婚式は神社でやりたいなぁ。夜の神社で月明かりに照らされながら、指輪を交換するの」


 ダイヤモンドみたいな眼球の嵌められた指輪をか? どこのホラー映画だよ。


 これ以上琴夏が壊れゆく様を見るのは、なんだか居た堪れない。そろそろ一連の事件の犯人を、追い詰めるとしよう。

 

 俺はゆっくり、クローゼットから出る。

 さあ、解決編の始まりだ。





 ガチャリと開いたクローゼット。その音に、琴夏は反応した。


 俺の視線と琴夏の視線が交錯する。そして流れる静寂の時。

 先に口を開いたのは、琴夏の方だった。


「……いつから見てたの?」

「「ただいま」の辺りから」

「それ、最初からじゃん!」


「死にたい!」と顔を両手で覆う琴夏。俺も琴夏の立場だったら、死にたくなっていただろうな。それ程までに、琴夏の一連の言動はヤバかった。


「……ていうか、今日は学生時代の友達とバーベキューに行くんじゃなかったっけ?」

「それはお前を誘き寄せる為についた嘘」

「成る程、それで私はまんまと陽二くんの罠にハマったってわけか」


 溜め息を吐きながら、琴夏はソファーに寄りかかり、天井を見上げる。


「で、どうしてあんなことをしてたんだ?」

「それって勝手に家に上がったこと? それともとんでもない妄想をしていたこと?」

「どっちもだ」

「だとしたら私の答えも、どっちも同じ。どっちも「陽二くんに会いたかったから」っていうのが答え。だからいけないとわかっていつつ、ついこの合鍵を使っちゃった」


 琴夏はズボンのポケットから、合鍵を取り出す。そしてその合鍵を、俺に差し出してきた。


「見つかっちゃったら、もう終わり。これは返さないとね」

「あっ、あぁ」


 俺は琴夏から合鍵を受け取ろうと、手を伸ばす。

 あと少しで鍵に届くというところで、俺は手を止めた。


 ……本当に、これで良いのか? ふと自分の中で、そんな疑問が浮かぶ。


 確かに先の琴夏の言動は、常軌を逸していた。正直、引くレベルだ。


 だけど合鍵を使って我が家に侵入したのも、妄想上の俺とエアイチャイチャしていたのも、全ては俺に会いたいという一心でしたことで。

 琴夏は俺と別れたことを、後悔しているのだ。


 対して俺は後悔していなかった。後悔しないようにしていた。

 だってもう二度と、琴夏から好意を向けられることはないと思っていたから。


 でももし、やり直せるチャンスがあるのならば。後悔しても良いのだとしたら、俺は――


「……その合鍵は、返さなくて良いぞ」

「え?」

「またウチに来て良いって言ってるんだ。出来れば今度は……俺のいる時に」


 そのセリフが何を表しているのか、わからない琴夏ではないだろう。

 抱き着く彼女の温もりを感じながら、これは妄想じゃないんだと実感するのだった。

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