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臆病だって、好きだから

作者: たたらジョー

臆病な人間が、それでも飛び込むにはどうすればいいのか考えました。

安直かもしれません。それしかない、というには、まだ私は経験がありません。

それでも、今の私にはこれが唯一の魔法です。だからこれを答えとして、作品に込めました。

 言い訳、するな。

 世の中には人を傷付けるためにそれがあるわけじゃないのに、あるタイミングで使うと恐ろしい鋭さを発揮して人を傷付ける、風の刃みたいな言葉がある。それがそうだ。今なら分かる。

被害者みたいな言い方をして恐縮だけど、俺はその刃を受けて倒れた。

見事な言い訳だった。見事に言い訳だった。

奇しくもN大演劇部はその日、お膳立てされたかのように後輩も先輩も、OBすら集まっての公演会、そのリハだったから、俺のミジンコみたいなプライドとか体面とか何もかもを打ち砕くには最適としか言いようがない場だった。俺のみじめな声はホールの端から端まであまねく渡り、そこにいた全ての人の動きを二秒とかからず凍りつかせた。


「いや、だって櫛枝、俺、知らなかった、ほんとに。墨島先生が、この間まで、櫛枝と付き合ってたとか、そんなこと。だからさ、わざとおれが、何、先生と近づけるために脚本書き換えて、櫛枝をヒロインにしたとかさ、おいおい、んな馬鹿な事、するわけねえって……」


俺が何か言葉を続けるたびに呆れを濃くしていく部員の顔が、場の空気が北極の大気なみに白んでいくのが、一つ一つ、手に取るように分かった。必死に弁解の言葉を連ねているつもりが、そのうち恥を上塗りしているにすぎなくなって、それがはっきり自覚出来てるっていうのに、それでも言葉は止まらなかった。

そこに放たれた魔法の一言。

――言い訳、するな。

なんて言えば良かったんだろう。いや、何も言えない。だって全部言い訳だ。

……俺は、軟弱な精神だと笑われそうだけど、とにかく、こわくなったんだ。

 そしてその事件以来、俺は日常を凍結することを決めた。




 昼に起き出して窓を開けたら、縁側に置きっぱなしにしていたレモングラスが枯れかかっているのに気付いた。ハーブの一種であるそいつは寒さに弱く、冬の間は部屋の中に取り込まねばならないらしい……みたいなことは聞いていたけど忘れていた。

そもそも植物の栽培に興味はないし、半ば押しつけられたに近い貰い物だから、そこまで世話を焼く気は起こらないのだが、冬の寒さにへこたれるそのへなっとしたイソギンチャクみたいな葉っぱやら茎やらは、見ていると萎えた。なんか植物が弱ってる姿って、無性に切なくなるのよな。

 とはいえ約二カ月に渡ってひきこもり生活を送る俺の城に、そいつをお招きするのは酷かもしれない。

 と、

「もし、もぉーし……」

 がごがごん、と玄関の薄い木戸を蹴る音。

 近所迷惑になるからやめろ、ともう何度か頼んだはずだが。

 半分こたつと同化していた下半身を引き抜いて、のっそり腰を上げる。

 戸を開けると、後輩の函南めいこが白い息をつかせてそこにいた。

 十二月初頭、気の早い冬の雲が雪さえ降らせるこの外気の中、丈長のレースのスカートと上はコートにマフラー、という格好の女子大生。その見た目に掛ける心意気に素直に感心させられる。

両手にはスーパーの袋を提げている。おおかた食料品だろう。差し入れ、とか言いながら栄養バランスをきちんと考えた惣菜たちが買い込まれている。

「……わお。冬樹先輩すごいお髭。サンタが引きこもってても意味ないですよ」

「おかえりください」

「いや、ちょ、せんぱっ……! 待って――」

 俺は冗談半分で閉めかけた扉を足で支え、函南の持つスーパーの袋を片方受け取った。

「じゃあ、お邪魔して」

 へへへー、としたり顔で、入ってくる。寒さのせいか、その頰が赤い。この外気をこらえてここまで来たのかと思うと、申し訳なさが先立つ。

「……お前も、よくやるよ」

 俺が例の事件以降、演劇部から逃げ出すように学校をさぼり始めてから今日まで二カ月。

函南めいこは、時々世話を焼きに来る、演劇部の後輩の一年生だ。

どうも函南は高校で演劇を経験していたらしく、一年生にしては珍しいことに先輩に対してためらいなく意見を言ったり、駄目だしをしたり、OBの演技指導なんかにも積極的に食らいついていたところをみたことがある。どの部活にも一人は必ずそういう人間がいる。

 そういう奴は割りを食う。なぜなら大学生という分別がついた年頃にも関わらず、自分が先輩であるということを過大に考えている奴がこの大学にもやはり多く存在しているからだ。函南みたいな奴はだから、大概先輩からのウケが悪く、俺と同期の一部の部員からあまり良い顔をされていなかったが、函南は一向に気にしない様子でいつも部の中心を立ちまわり、次期部長におさまることが決まっていた。

 二年生である俺はもっぱら脚本にしか興味が無く、舞台に立つことはほとんどなかったので、そもそも後輩である函南とはそんなに深い繋がりはなかった。いや、そういえば何度か意見を言ったことがあったろうか。その時はやけに緊張されていたっけか。まあ、それくらいの仲だ。

 そんな函南が俺の家に来て世話を焼いたりする理由として考えられるのは、十二月のこの時期、演劇部の現二年生は次期二年生に役職を譲ることを検討し始める、いわば引き継ぎの問題だ。

「一年生が、来年の部を担うのだぞ」と。

 当然、幽霊部員である俺の存在は部内で問題に上がったはずだ。

 四年生の引退以後、部内に脚本を書く先輩がいなくなり、以来ずっと脚本は俺一人が好きにさせてもらっていて、劇での作品はほとんど俺の息のかかったものだった。今の一年は、俺の脚本しか見ていない演じていないという事になる。

 その俺が、二カ月前にすとんと抜けた。

 突然放り出された一年生が、そこから全く新しく脚本を作り上げるのはなかなか難しい。だから函南は、禍根を残したまま退いた俺の役職を一年生が受け持つこと、その抵抗感を和らげるべく、あわよくば俺を連れ戻すべく、俺と演劇部の調停者として部から派遣された、いわばエージェントなのだろう。ホールの予約だとか、フライヤー配ったりとか、そういう面倒事を函南はなし崩し的に背負う事が多いらしく、俺の家を訪れるようになったのも間違いなく「望まない」結果と考えていいはず。……なのだけれど。どうしてか、函南は「やらされている」ようには見えない。不思議だ。嬉しそうですらある。今のところその疑問は棚上げにしている。

 函南は部屋に入ってくるなりスーパーの袋をぽいっと放ると、「うわぁ」と淡白に呟いた。

 二カ月あまりの引きこもり生活で「ゴミをゴミ箱に捨てる」という単純作業すら、とても億劫な労働に感じるようになっていた。おかげで部屋の中は惨憺たる様相を呈している。

 割り箸が突っ込まれたまま、四重の塔になったカップ麺の容器。染みだらけの、くしゃくしゃに折り畳まれた電気毛布。消しカスやら丸めたティッシュやらが散らかるこたつ机。そのこたつの下に敷かれたまま、シーツだけがはみ出た酸っぱい匂いのする布団。カーテンによって遮断された薄暗い光が不気味な影を作りだし、それらをより一層ゴミたらしめていた。

「あいかわらず散らかってるなー……って、あっ」

 窓を開けた函南が、気付いた。

 めざとい。ベランダ隅にあるエアコンのファンの裏に隠したつもりなのに、もう見つかったか。

「萎れてるじゃないですか。レモングラス」

「あー、んん。すまん」

「せっかくあげたのに。あれ、ハーブティにして飲むとおいしいんですよ。さっぱりして」

「優雅だなー、場違いなほど」

 この小汚い部屋で、ティータイムかよ。

「じゃ、ちょっと摘んで飲みますか」

 ベランダに出た函南は、土ぼこりに汚れないようにスカートの裾を摘み上げてしゃがみこみ、いくつかの葉をぷちぷち摘み取ると、俺の背を押す。

「先輩も、ほら、手伝って」

「え、いや、ちょっと」

「いいから」

 押されるままに廊下兼キッチンへ。

 うし、と腕まくりをする函南。さすがに女子だけあって二の腕が細いし白い。

「お湯沸かしてください。私、これ切るので」

「はいはい」

「はい、は一つでいいです」

 桜色の唇を尖らせて、むすっとしていた。

「はいよー」

「子供ですか」

 肘をぶつけられる。あんまり台所でじゃれあっていると危ない。下の棚から取っ手付きの雪平鍋を取り出して、このあいだ作ったインスタントラーメンのカスを適当に払い落し、水を注いで火にかけた。ガス料金はもう二カ月くらい溜まっているから、本当は何時止められてもおかしくない。ずっと家にいるだけなのに、電気代やらネット代やらで数万は簡単に飛んでいく。だから食べ物を切り詰めなくてはならず、結果この不養生だった。

「冬樹先輩は」

 茎を丁寧に指の腹で洗いながら、こっちを見ないで函南が言った。

「さみしくないんですか? こんな一人暮らしで、ずっと。学校にも行ってないみたいだし」

「どうだろな。まあ、悲しくはないな」

「そうなんですか」

「こんな生活してると、学校行くために早く起きなくても良いし、そもそも勉強しなくていいし。いろいろ余裕出てきて、悲観的に考えるのが馬鹿らしくなってくる」

 言ってみれば、開き直りなんだろう。

「元気あるなら、必修授業くらいは、出た方がいいですって」

「そっか」

 函南は、すととん、と等間隔に茎を包丁で切り分けると、根っこに近い白くなった部分を包丁の背で叩いて潰した。

「こうするとよく風味が出るんです」

気泡が出始めた鍋底にレモングラスの茎をちゃちゃっと沈め、鍋に蓋をする。

「これだけ?」

「あとは三、四分待つだけ」

 簡単でしょ? と微笑む。若干、演技くさい。

「ハーブティなんて言う割に、意外と手間はかからないんですよね」

「葉っぱを茹でてその汁を飲むだけ、だもんな」

「実際にやってみれば意外に簡単なことだってありますから」

「そうですか」

「そうですよ」

 出来あがったハーブティを、奇跡的に埃を被らず棚に残っていた急須に注いで、高校の修学旅行のお土産に買ったマグカップに注いだ。机の上の邪魔な物を、無理矢理押しのけ片付けて、どうにかコップ二つ分の土地を確保する。

 向かい合って、そろそろとこたつに足を入れた。

 エアコンを点けずにこたつだけで暖を取っていたから、部屋は寒い。函南は首元のマフラーをほどかずに、肩をすくめて「生き返るわぁー」と表情を緩めた。ちょいちょい地が見えるように感じるが、これは見せてるのかどうなのか。

 マグカップを引き寄せると、揮発性の物質が弾けるような、さわやかな匂いが鼻の奥をくすぐる。

「いい匂いだけど」

「だけど?」

「部屋の匂いがすごいから、それと混じって別の香りになってることないか?」

 俺はすでに自分の部屋の臭いに慣れているから分からない。ただ函南が、この部屋に入る前に決まってちょっと顔をしかめるので気になっていた。

「ないですよ。……あー、いい匂い」

 函南はマグカップをそっと両手で包むと、傾けて静かに口を付けた。

「ちょっと蒸らしが足りなかったかな」

「なあ」

 前置きしてから、言葉を考えてカップに口を付ける。唇の裏がじわりとしみた。

 ろくなものを食べてこなかったせいで口内炎だらけの口にはきつい。切なくなる。

「なんですか?」

「どうしてこんなことするんだ?」

「先輩に部活に戻ってきてほしいからに決まってるじゃないですか」

 用意していたかのように函南は返した。

「いまさらだ」

「いまさらですけど」

 お茶請け代わりに引っ張り出してきた揚げせんべいを、袋の上からぱきぱき割って、口に運ぶ。

「先輩がいなくて、困ってます」

 呟きがマグカップに落ちる。

 ハーブティの薄黄色を覗き込むと、冴えない顔が映っている。俺の顔。

「困るようなことしたしな」

 俺は部活をさぼり始めた最初は「四十度の熱が」とか「実家の弔辞が」とか何とかありがちな言い訳をしていたけれど、そのうち無断で欠席し始めた。さぞ迷惑だったに違いない。

「最低ですね」

「最低だよな」

 自分が最低だと認めるのは楽だ。

 それを直そうとすることが辛いだけ。

「違いますよ」

「違わない」

「私が。最低なんです」

「……」

「ちょっと陳腐でした?」

 首を振った。

「じゃあ続き言います。――あのとき、私、何も言えなかったから」

「あのとき?」

「言い訳するな、って先輩が言われた時。弁解って言葉、光澤先輩は知らないんでしょうね」

「あー、うん。別に何も言わなくたって」

「よくないですよ。いくら光沢先輩が部長だからって、あんなこと。それに、私情を持ち込みたくないとか言って、一番私情を部活に持ち込んだのは、櫛枝先輩じゃないですか」

「……ふうん」

「でも舞台では、まだまだ敵わないとこもあるし、やっぱり尊敬する先輩ですから困りますけど」

 函南が初めて俺の家に来てから三日くらい経つが、こいつが俺の肩を持ってくれているとは思わなかった。その話題だけを意図的に避けていたせいかもしれない。

「念のために聞きます」

「うん」

「先輩は、本当に櫛枝先輩が墨島先生と付き合ってたこと、知らなかったんですよね」

「……」

「答えてくださいよ」

「なあ函南。もういいって」

 そう言うと、函南はほんのちょっとだけ泣きそうに目元をぎゅっと縮めて首を振った。

 マフラーにかかった、ゆるやかに広がる髪が揺れる。もしこれが演技だとしたら、彼女は世界一の女優ということになる。

 俺は冷めかけたハーブティを一気に飲み干す。

「光澤の言うとおり、知っていたにしろ、知らなかったにしろ、櫛枝は傷付いた。全部言い訳だろ」

 自分で言っていて、クサいなこの台詞、と思った。いかにも学生劇団が台本に書きそうな言葉。まあ後輩の女の子の前で、みっともなく自分の無実を証明しようとするよりかは、いくぶん体面を保てると打算した。自覚してしまうとこれがたまらなく卑しく、俺は誤魔化すように「ほら」と函南を促す。

「外寒いから、あったかいもの飲んだうちに早く帰ったほうが良い」

 と、これもイケメンにだけ許されそうな言葉。よくもまあ、俺の口はこんな言葉を吐けるもんだ。

「……わかりましたよ。もうっ」

 ため息を一つだけ落っことし、すこしふくれた様子で函南は立ち上がる。

 俺に食料品が詰まったスーパーの袋の片方を押し付けて、玄関に向かった。

 代金を手渡そうとすると断られそうだったから、無理やり彼女の持ったもう一方のスーパーの袋に適当に千円札を二枚、詰めた。

「大変な役目、お疲れ様だ」

「冬樹先輩。勘違いしないでくださいよ」

 木戸の向こうで、函南が静かにただした。

「私は義務でここへ来たわけじゃないです」

「うん」

「先輩は、先輩の脚本は、陳腐なことしかいえませんけど、すごいんですよ。台本読んでると、なんだか吸い込まれるみたいな気がして、一秒と経たずにもうそのキャラに入り込めるし、台詞回しとか奇をてらわないのに何だか独特で、物語の人物が羨ましくなる調和がそこにあって、波長が合うっていうか、そんな気が、します」

「まあ、キャスティングするのは俺だけじゃないけど」

「茶化さないで」

 函南は俺と目を合わせて、白い息を吐きながら続けた。

「戻ってきて、ください」

「努力はしたよ」心の中で。

「もっと頑張ってください」

「……」

「また来ます」

 ぎいぃい……、と名残惜しむようにゆっくりと木戸が閉じる。

俺は押し殺していたため息一つ、洗面所に向かった。

「……髭、剃るか」




 櫛枝は演劇部の同期の間ではなかなか目立つ女子だった。部内恋愛を繰り返していたせいもあるし、見た目が少しばかり垢抜けているせいでもある。演劇では狂言回し役を演じると、これがものすごく上手かった。年齢不相応に一本芯の通った、張りのあるあの声は一朝一夕で身につくものではないだろう。理由を聞いたところ、祖母が地元の伝統芸能保存会で祭事などに用いられる演歌の指導をしていて、幼いころ良く教わっていたらしい。山だし娘の一つ覚え、なんて謙遜していた。

俺は櫛枝の持ち味を意識した台詞回しを考えた。自分の考えた台詞を見事に話してくれる奴がいると、やりがいがあるし作品のイメージもしやすくなる。脚本のキャラクターが人の個性を引っ張るのではなく、人の個性がキャラクターを引っ張ることさえある。

櫛枝は実力もあり、演劇に関してはなかなかこだわりをもった奴だったのだ。

 だからなのか公私の切り替えには殺伐とさえ言えるほどの温度差を持ち、つまらない口喧嘩の種を引きずった同期の同性に対して、

「うるさい」

 と、にべもなく舞台から追いだしていた。

 俺はおそろしい奴だと思いつつも、そこに掛ける熱意には素直に感服していた。

 しかしだった。

「板垣くん」

 台本を指差しながら淡々と櫛枝は俺の名前を呼んだ。「これ、何?」と眉を寄せながら続けて訊く。

それは、良く使われる台本に少し俺の手を加えたものだ。二カ月前の、あの時。小ホールでのミーティング。

「ああ。今回は櫛枝にもう少し出張って貰いたいなと」

「出張る?」

「そうそう。まあ気負う事ないから。墨島先生この役詳しいし、色々教えてもらえば」

 墨島先生はこの演劇部のOB兼顧問だった。俺が高校の頃からその名を聞いたほどの名顧問で、入部した当初から、困った時はけっこう先生の経験を頼ることが多かった。時々親しみを込めて呼ばれる墨センというあだ名を最初に言い始めたのは、多分俺だ。

だから俺は、そういう「先輩から技術を教えてもらえば」というニュアンスで伝えたつもりだった。

「それ、どういうこと」

 絶対零度の、張りのある声が鼓膜を叩いた。

 ざわわ、と訳も分からず鳥肌が立った。

 部員の、無言の叱責が視線となって飛んできた。

「は」

 櫛枝は立ち上がると、ぽかんとしている俺の前に立ち、横っ面を容赦なく張り飛ばした。

 直径二メートルくらいの風船を針で突いたらこんな音が出るだろうか。それほど凄まじい音だった。

 けれどそこまで痛くはなかった。軽く頭が揺れた程度だとしか感じられなかった。

 きっと今起きている事態に、心がついていけなかったせいだろう。

「あのさ、板垣くん。そういうのは、一番嫌いなんだ」

「何が」

 そんな中、ふいに俺の耳が誰かの囁き声をとらえた。

「……もしかして板垣先輩、最近櫛枝先輩が墨島先生と別れた事、知らないんじゃ……」

 俺の心がようやく体との同期を取り戻し、事態を察し始める。

 おそるおそる立ち上がり、円状になって座りこむ部員たちを眺め回した。

 誰もが同情するような、責めるような目で俺を見ていた。信じられない思いだった。

「待ってくれよ、ちょっと待て、墨島先生と櫛枝がって……、皆知ってたのか?」

 その言葉がさらに櫛枝の怒りに火を注いだ。

 今思えば俺のその行為は、皆の前で公然とプライバシーをひけらかしたのと同じなのだ。

 櫛枝からすれば、途方もない羞恥だったろう。

「うるさい」

 短い言葉とともに、今度は心にも届く痛みを頬骨に感じた。さすがにグーパンチは効いた。

 正義の鉄拳、というふうに、皆の目には映っていたんだろうか。

 無様に顔を押さえて俺は続けた。

「いや、だって櫛枝、俺、知らなかった、ほんとに。墨島先生が、この間まで、櫛枝と付き合ってたとか、そんなこと。だからさ、わざとおれが、何、先生と近づけるために脚本書き換えて、櫛枝をヒロインにしたとかさ、おいおい、んな馬鹿な事、するわけねえって……」

 凍りついた世界が魔法の一言でバラバラに砕け、夢は覚める。

「言い訳、するな」




「先輩、起きてください」

 なんで、目を開けた先に函南がいるんだ。

 俺の問いかけを察したのか、それまで俺の顔を覗き込んでいた函南が呆れたように、

「今時メーターの上に鍵隠してる人なんて、先輩くらいしかいません。ザルですね」

「……コソ泥め」

 脱皮するようにこたつ布団から抜け出す。

 最低な類の夢を見たせいか、目覚めは悪い。

「さみぃ。こんな朝早くから、なんだよ」

 まだ眠気の残る薄眼で見た時計の針は、八時を少し過ぎたあたりをさしている。

 外は雪が降り積もっているらしく、窓の底が仄かに白く光っていた。

 いつになく厚手のコート、そしてスカート(今度は三段くらいフリルが付いている)。重装備の格好をした函南は勝手知ったる動きでキッチンに駆けてゆく。中古で買った安物の冷蔵庫から、昨日飲み残したハーブティの入った急須を取り出し、鍋にあけて火にかけた。

「朝にこれ呑むと、目、覚めますよ」

「むぅっ」

 漠然と爽やかないい匂いが漂ってくるのが分かる。

 とはいえ真冬のこの時期には、しょうが湯とか、もっと体があったまるものがいい……。なんて贅沢にも思った。

「そういえばレモングラス、部屋にいれたけど、まだへたばったままだな」

「うーん、元気になってほしいけどな」

 俺の用意したマグカップに、湯気を立ててハーブティが注がれる。

 注いだ急須をこたつ机に置き、俺の向かいに座る函南。

洗いモノを布巾で拭く……、なんて洒落た習慣は我が家に無いので、昨日洗って水気がついたままのコップが、こたつ机に小さな水溜りをふたつ分、作る。それを何も言わずハンカチで拭きとる函南に、後輩だからって色々気遣いばかりする必要なんかないのに、と言ってしまいたくなる。

「先輩、ちょっと見て欲しいものがあるんですけど」

「ん?」

「一年生が作った脚本です」

 函南は早口にそう言って鞄を探ると、プリントの束を取り出してどさどさ机に乗せた。

「うお……、この量、なんだ、一本映画でも作る気か」

 ハーブティをすすりながら、その束をためつすがめつする。厚さ十センチはある。

「いくつか入ってるんです。一番上のがコメディ。二番目が戦争モノ。三番目が昼ドラアレンジ」

「で、どうしろと」

 なぜか耳を赤くしながら函南は返した。

「その、何か、助言を」

「俺が?」

 許される立場か。

「私が言った、という形にしますから」

「嘘だな」

「嘘じゃないです」

 俺は人の目を見て感情が分かるわけじゃないから何とも言えないけれど、そこには確かに真剣な光が見えた。そう、こいつも結構、熱いやつだった。……俺なんかいなくても、十分やっていけそうなのにな。

「部活の練習終わったら、また来ますから、読んどいてくださいね」

「いや、これちょっとした小説並みに厚いんだけど」

「読んどいて、くだ、さいっ」

 寒さにうっすら紅くなった顔でだめ押しをされて、しぶしぶ頷いた。




 無言でプリントを捲る。捲る。捲る。

 しんしんと雪の降る中、俺のいるこの四畳半の空間だけが、どこか世界から取り残されたように静まっている。さいはてへ漂流する氷山みたいだ。

 気付くと手には赤ペンを握っていて、ト書きの空白に訂正の文字を書き込んでいた。指先がかじかんでいるのを知ったのも、話に一通りのアドバイスやら注釈を入れ終えた後の事だ。そらんじて言えるほど何回も読み返したり、気になったところをノートに書きだしたり、設定の甘い所を詰めたりしていたら錆ついた集中力が切れて、一つの作品しか読めなかった。

はっと我に返って、プリントの束を一から順に並び変える。

 時計を見ると、午前を少し過ぎていた。

 あ、と呟きが漏れた。

 心の片隅が気持ちの揺れを認めたくなかったけれど、体が寒さだけじゃない震えを感じていた。

 タイトル、『ほんとの心』。

それは、『金の斧』というイソップ寓話を基にしたお話だ。

 本来の話なら、うっかり泉に斧を落としてしまった木こりが、泉の精に「あなたは金の斧と銀の斧、それと鉄の斧のどれを落としましたか?」と聞かれ、素直に「鉄の斧です」と答えると、正直に感心した泉の精が、全ての斧をきこりに与える、という筋になる。

ところがこのコメディでは、斧ではなく、地味な外見の恋人を泉に落としてしまった男性が、泉の精に「あなたが落としたのは優しい彼女ですか、美しい彼女ですか、それとも地味な彼女ですか」と聞かれる。ここで正直に地味な彼女を落としてしまった、と言ってしまうと恋人を傷付けると思った男性は「全てです」と答えてしまう。

すると泉の精が、「あなたは正直者ではありませんね。けれどその心は、尊ばれる大切なものでしょう」と返し、恋人が帰ってくるという筋。そして、泉の精は実は男性の心を試そうとしていた恋人の女性で、その後円満に末永く暮したというオチがつく。円満、というのがミソであるらしい。駆け引きは夫婦仲を保つためのスパイスといったところなんだろう。

 批判的に見てやろうと思った。なんだこのありがちな話、とか貶しながら笑って、いつの間にか思考がすう、と消えていた。そして気付けば静かに、最後の一文字をまるで目で呑みこむようにして追っていた。

「……っ」

 冬の寒さに凍りついた血が、思い出したように沸き立った。

 それと同時に、ぞっとするほど暗い気持ちが背中を襲ってきて、それがはけ口を求めて目の奥に押し寄せてきた。体液がぎゅっと引き絞られて、そのまま目から濾し取られていくみたいだった。唇が震え、上から垂れてきた塩っ辛い鼻水を感じた。洗面台に行って、一通りみっともない顔を洗った後、やけに空っぽな気分で部屋を振り返った。

 そうだ。

 机の隅っこにいじけたように固まる消しカスを見て、へたれたレモングラスの鉢を見て、俺は思った。

 俺は脚本を書くのが好きだった。




「うわっ、暗っ!」

 さけんで、またしても無断で入ってきた函南に反応する気力もなかった。

 ぱりぱりん、と音を立てて蛍光灯の明かりが灯る。そして畳を踏む足音。俺の背中を認めたのか、「あれ」と声をかけてきた。

 机に突っ伏していた俺は、狸寝入りを決め込むことにする。

「せんぱー……い?」

 けれど耳元でささやく声に、さっそく少し呼吸が乱れた。

「起きてるじゃないですか」

 遊ばれたらしい。あざとい声だと思ったよ。

「……寝たかったんだ」

「それは、悪かったです。でも感想聞きたくて」

 んしょっ、と函南は向かいの定位置に腰を下ろす。当然、俺はさっきまでの泣き顔は向けられないので伏せたままだ。

「読みました?」

「ん、時間無くて、一番上のやつだけ」

「……どう、でした」

 爆弾処理の成果を訊くみたいだった。

「おもしろ、かった」

 覗き見ると函南は、ぱあっと光の花が咲いたみたいに笑っていた。

「う、わあー。いまいち実感わかないけど、うん。良かったぁ。やっぱ、自信あるのを一番上に持ってくベきですよね」

「これ、書いたの、誰だよ?」

「そんなの私に決まってるじゃないですか」

 何を当たり前のことを、という顔をする函南。

 さっき家に来た時は、まるで一年生皆で書いた、みたいな言い方をしたくせに。

「作品、どうでした?」

「……」

 この場で赤ペンを入れたあのプリントを見せるには、抵抗がある。いくら後でばれることだとはいえ。というのも俺は平安の歌人でもあるまいに、プリントをうっかり泣き濡らしてしまったのだ。

 ……あれ、書いたの、函南なのか。

 ここまで脚本が書ける奴がいるのなら、いくら俺の抜けた穴が大きいかもしれないとはいえ、後任なんて問題にはならないはずだ。わざわざ幽霊部員の俺を呼び戻す必要なんてない。

 それに函南が書くのなら、俺の残した禍根とか、抵抗なんて感じていなさそうだ。

 じゃあどうして、こいつはここに来てるんだ……。

「あれさ、貰っていいか、『ほんとの心』」

 口にすると、ちょっと函南は照れたように、慌てて言葉を継いだ。

「い、いや、恥ずかしいからタイトル言わないでくださいよっ。……すごい嬉しいけど、先輩のことだから、なにか書いてくれてあるんじゃないんですか」

「そんなに大したこと書いてないから」

「渡したくないんですか?」

「うん、まあ」

 顔を合わせずにうなずくと、ふむ、と顎に指先を当てる。

「……確かに、その方がいいかもしれませんね」

「何が、いいんだよ」

「先輩がアドバイス書いたプリントを持って、部活に来てくれればいいんですから」

「……」

「私ばっかり先輩を独り占めするのも、悪いし」

 ほんの一瞬だけれど、油断した。函南と目を合わせてしまった。

 それだけではっとしたような顔をする。

 見られた。こんな男の泣き顔くらい、みっともなくて他人様に見せられないモノはないだろうよ。

 ややあってから、おそるおそる函南が訊いてきた。

「えっと。こういうとき、どうすれば、いいのです?」

「俺が『一人にしてくれ』と台詞を吐いて、おまえは黙って背中を向ける」

「さすが、脚本の先輩」

「だろう」

 というわけで、と俺はおどけて、上半身を後ろに倒した。

「一人に、してくれ」

 薄目で見た視界にはいつもの、幽霊がとり憑いた後のような染みのある天井。

 変わらない風景。

 そこに、函南が立っている。

 俺の頭の横で膝を折ると、そっと指先を伸ばしてきて、俺のほおをなぞった。多分、涙の跡でもついてたんだろう。

「いやです」

 ささやくような声だった。

 そう言うと思った。

「じゃあ、少し、話す」

「はい」

 目を閉じた。

「俺は、いままで時間の止まったような二カ月を過ごしてきたんだよ」

「はい」

「あまりにも平穏であまりにも退屈で、幸せ未満不幸以上、みたいな甘苦しい毎日。

それにうんざりしていたわけじゃないんだ。このままだらっとした休みの日々が続いていけば、どこかにたどり着くことは出来ないにしろ、ここから離れることもない。

 そういう変わらない日々は、安心できた。だから、良かった」

 目を開けると、窓の外が白いせいか、屈み込む函南の顔が逆光になってよく見えなかった。

「でも、レモングラスはすぐに枯れるし、雪はアホみたいに降り始める」

「安息の地なんか、この世のどこにもないですから」

「そう。このあいだおふくろが入院して、仕方なく実家に帰ったらさ、『不況の今時、文学部に行く長男なんて』って、たまたま立ち寄ってた親戚が話してたの、聞いちゃったんだよ。最初は応援してくれてたけど、学校さぼってるのがバレてから急に態度が変わって、やっぱり文学部なんか行かせるべきじゃなかったんじゃないか? ってさ。まあ、そう言われても当然だけどさ」

「ああ、そういうの、ちょっと分かります。でも私は、真ん中の子だからって、好きにさせてもらいました。兄は政治経済の国立行かされたんですけど、私はほんと、楽に楽に、流されてって」

「三人兄妹の真ん中は上の子と下の子を見てしっかりしてるから大丈夫、というアレか」

「でも実際、私はぐーたらですね」

 人の世話を焼く人間が何を言ってるんだか。まあいいや。

「一方で、長男はプライド高いからいい学校行かせて、とか。そういう偏見は、昔から変わんないなぁ」

「そうですねぇ」

 函南はくすくす笑った。俺はうははと笑った。

 起き上がってあぐらをかく。函南は隣に座ったまま動かなかった。

「でもやっぱり俺は、いつか変わっちゃうんだ。こえぇよ」

 あそこに戻れば、また櫛枝を怒らせたり、光沢に叱られたりする。

 日常を過ごしていれば、いつかそれが変わって、非日常の瞬間に立ち会うことがある。

 それが怖くて俺は逃げ出した。今の日常を凍結した。

 そんなことでと見下げられるかもしれない。臆病だと笑われるかもしれない。

「私は」

 言葉を切って、ふ、と息をついた。

「私は、ですよ。それがどんなに悪いことであっても、変わることは、こわくないです」

「そっか」

先輩に恐れず意見して、一年をまとめて、舞台に上がったら華になる。こんな臆病で根っこみたいな俺とはまるで真逆だな。

「綺麗なものとか、美しいものとか。そういうのって、たぶん全部が全部そうというわけじゃなくて。この世の中に、良い意味だけを持って存在するものなんて、きっとなくて」

「うん」

「だから、汚れてるものとか、悪いように見えるものだって、それとおんなじ。

 私、あの脚本書いてて、なんだかすっごいバカらしいことしてる、こんなこと一片の価値もない、なんて思って何度も挫折しかけたんですよ。所詮自己満足、とか、ネガティブな気持ちで、ぐちゃぐちゃで、一時はもう駄目駄目で。そりゃー、ありがちな実感だとは思うんですけど」

 弱音を吐くとは思わなくて、つい、言ってしまっていた。

「函南もそう思ったんだなぁ。意外だ」

「そですよ。私だってたまーにだけど、落ち込みますとも」

「……」

 言葉に詰まった。

「でも。そのとき、先輩の作品読み返したんですけど、そのあとがきに書いてありましたよね。

――つまらなかったら、笑ってください。面白かったら、笑ってくださいって。

それを読んだら、ふいに脚本の続きを書く手が、動いたんです。

どんな作品書いたって笑ってもらえれば、それでいい。誰かに笑ってもらうのは大好きですから。

そうして、書くことはそんなに悪いことだけじゃないんだなって、思えた」

 そういえば、そんなことも書いたっけな。半分自棄で。

「つまり何が言いたいかって言うとですよ。えっと。

たとえば、今の先輩は前とは変わったけど、そりゃあ、こんなに汚いし、みっともないし、みじめだし、きもいし、くさいけど」

「やっぱりくさいのかよ」

 少しだけですよ、と悪戯っぽく鼻をつまむ。

「でも、冬樹先輩の作品は、その、すごかったんです。初めて作品読んだ時、本当にこの人が書いたのかって、何度も現実の先輩を見て、作品を見て、やっぱり信じられなくてもう一度先輩を見て。気付けば用もないのに先輩の家来て、差し入れ置いてって」

 ほんとに、函南は調停役なんかじゃなかったんだな。

「あ。あの差し入れは、部活のみんなからです」

「それは、嬉しいけどな」

「だから」

 しんとして、函南が言った。

「まだ駄目みたいなら、しばらく私が」

「まるで――」

「察しがつくのでその先は言わないでください」

 ちゃんと言いますから、と一旦目を閉じて息を吸い込む。

 ……おふくろみたいだな、と言おうとしてたんだけど? まぁ、今は冗談はひっこめて。

「私は、この人があの作品を作って、あの言葉を書いたんだなぁって思って。そんなこと、ちっとも書きそうな人に見えないのに。気になって、それで」

「こんな掃き溜めみたいな部屋の、そのカスみたいな人間を?」

「はい」

 函南はおかしそうに笑う。それでも俺は重ねた。

「あのさ。俺、言っておくけど、すげえ打算働かせてお前に接してるよ?」

 汚いところ、なんて言っても、函南は俺のほとんど表面しか見ていない。

 後輩だから女の子だからと、函南の前ではみっともなく虚勢を張るし、本当はこうしてうちに来てくれるのが嬉しいのに、ろくにお礼を言えないでいる。

「もしほんとの先輩を知っても、それはだから、だいじょうぶ」

「どうして」

「だって」

 函南は一言一言を噛みしめるように言った。

「先輩の作品が、好きだから。

 そしたら、まあ、うん。冬樹先輩のことが、ぜんぶ好きになってたから」

 両手を合わせて、無理矢理締めるように、「だから!」と声を張る。

「一つのことを好きになったら、ぜんぶ好きになっちゃえるものなんですよ」

 そうして函南は、顔を隠す様に少し俯いた。

 沈黙。

「……やめろよ」

俺は俯いて言った。

 函南の肩がピクリと動く。

「そんな理屈は、魔法だ」

 おれの上澄みだけを好きになられたら、きっとおれは苦しくなる。汚い部分も大丈夫だよ、なんて言われたってそういう訳にはいかない。間違いなく見栄を張る。楽じゃないから長続きもしない。そしてたぶんおれは函南をがっかりさせて傷付ける。

第一、こんな夢みたいな救いがあるか? 夢は醒めるから夢である。俺は夢がいつか醒めてしまうのが怖い。だったら夢など見ない方がいいんじゃないのか。

「俺は、臆病なんだよ」

 言い訳をしたことで、俺は傷の痛みを知った。そして傷を負うかもしれない日常が怖くなった。函南と接していても、その恐怖は変わらないのだ。

 そう言うと函南は言った。

「先輩はたぶん、傷自体がこわいわけじゃないと思うんです」

「どゆこと?」

「実際の痛みは耐えられる。けれど、いつ怪我するか分からない未知の恐怖には耐えられない」

 実際の痛みに耐えられるのは、それがいつかは消えることを知っているからだ。

 でも痛みを負うかもしれないという恐怖は、いつまでも消えない。

「……そうだよ」

 おれはだから、未知が、こわかった。いつ怪我するかも分からない未知が。

 そして、未知の恐怖よりは、ありありと知ってる先行きの不安を選んだんだ。

 でもそれを乗り越える人々がたくさんいるわけで。

 当たり前だけど、そうすることが出来るのは、やっぱり『好き』だからなのだろう。

 死ぬほどこわくてもつらくても、好きだから。それだけで。

 ――おれは脚本が好きだった。

でも今の俺には、その気持ちだけをよすがにして、恐怖を乗り越えられるとは思えなかった。だから俺は引きこもった。

「怖いんだよ。怖くて仕方ないんだよ。今だってそうなんだよ」

 錆びついた好きは、すがってももう光を宿していない。

「それじゃあ、先輩」

 函南の声色が、引き締まったものになる。

「先輩だって、ダメダメな脚本書いたことだってありますよね。でも、それを乗り越えられた。なんでですか?」

 答えられない。分かっているからこそ。

「先輩。魔法はあるんです」

 心臓を叩かれたみたいに、おれの鼓動が一つ大きくなる。

「最初のうちは、ただ興味本位だったからかもしれません。それで創ったモノをたまたま誰かに褒められて、調子に乗って、脚本を書くようになったかもしれません。でも、モノを作ってたら、傷ついたり、傷つけたり、惨めに落ち込んだり、カッコ悪さに消えたくなることを、引き受けなきゃいけない」

 閉じていた全身の毛穴が開く。

「わかりますよ。軽率に言いますけど。辛いってこと。そんなの引き受ける必要あるの? って。でも、これも軽率に言うんですが、『あるんです』」

「……なんで」

 こわばった顎が、かろうじて動く。

「先輩が、魔法使いだからです」

「──は」

「私に魔法をかけたのは、先輩なんですよ」

 函南が、埃っぽい暗闇に呟く。

「先輩は、カッコ悪くて、きもくて、みじめです。

それでも、私の大好きな最高の物語を書けるのは、私に魔法をかけられるのは、この世でたった一人しかいないんです」

 埃だってよく見れば、この薄汚い部屋で輝いている。

「だから、おれにもっと傷つけって? お前のために?」

「はい」

 なんの臆面もなく、そう言ってのけるから笑った。

 函南。お前は、相当のバカだ。

 バカで、おれと同じ生き物なのだろう。

「言っておきますけど、私だって今めちゃくちゃ傷ついてるんですよ。恥ずかしいこと言ってる自覚あるし。それに、カッコ悪すぎじゃないですか? 告白したのに、第一声『やめろよ』って言われる女子。なかなかいないです。でもそんなの全然、どうだっていいんです。私には通じません。だって、やっぱり、好きですから」

「それは、悪いことを言ったけど」

「じゃあ覚悟してください」

 ずい、と函南が四つん這いになって迫る。

 おれはそのぶん遠ざかったものの、いくらもいかないうちにゴミにとおせんぼされた。

 ふいに函南はやわらかく相好を崩した。

「私のためって言いましたけど、でもそれは、あくまで一部の理由です。

 最高の脚本を作って、先輩たちを唸らせる。

 こんなに痛快なことなんて、ないじゃないですか。

 それが先輩にできるたった一つの、謝罪と報復でしょう?」

「……」

 人を傷つけて、引きこもったこと。

 それはアピールでもあった。おれはこんなに傷ついている、というアピール。

 痛いのが怖くて、怖くて仕方なくて、おれはどこまでも部屋のゴミと一体化していった。

 でもおれは、裏側で思っていた。分かっていたんだ。

 ──そんなおれこそ、いちばんダサくて、痛いやつじゃねぇか。

 自分の傷を、痛みを、認められなくて、引き受けられないやつが、最高に痛い。

 好きって気持ちで麻酔をかけて、傷つきながら踊るやつが、最高にかっこいい。

 魔法をかけ直す。

 そのための時間は、たくさんあって。

 でもきっかけがなくて、おれは腐っていた。

 太陽のない部屋に、陽光は差さない。

 そのはずだったのに、そいつは、痛いくらい眩しく目を輝かせていやがった。

 あの頃のおれのように。まっすぐな、ひねくれることのない目で。

「傷ついていきましょうよ、先輩。いっぱいいっぱい痛い思いをしましょうよ」

 ぐ、とおれは布地越しに心臓の上をかきむしる。

 怖い。痛い。

 それでも、そいつの熱が、伝播したようにここに宿っている。

 かみっぺらに綴られたたった数千数万の物語が、おれの背中を蹴飛ばす。


『好き』から、逃げるな!


「おれは──」


 目を、そらすな!


「おれは、脚本が好きだ。物語が、好きだ」


 熱に浮かされたように呟く俺の顔のすぐそばで、函南が「私もです」と、ささやく。

「面白くてもつまらなくても誰かに笑ってもらいたいって言える先輩が、私は大好きです」

 勝手に心が動いて、函南に手が伸びた。

「……ありがとう」 

 自分でも思う、都合のいい話。けれどそんなもんだと思う事にした。

 期待に応えるのは怖いし、やっぱり怯える。

 けれど、目の前の『好き』を生んだのも、やっぱりおれで。

 目を閉じる。函南が呟く。「好きです」と、ささやく声の震えを肌で聞く。波紋のように、触れたところから、温かさが広がった。




 むみゃあー……、と猫が鳴くみたいな声がして布団をめくると、俺の脇腹の辺りに頭を寄せて、函南が丸まって眠っていた。寝言らしい。寝息が聞こえるたびに体が小さく上下する。時折かすかに身じろぎするから、肌を髪が掠めて、くすぐったい。

 くしゅん、とくしゃみをひとつ。

「函南ー……、何か着ないと風邪ひくぞ」

 ほい、と頭に手を置くと、函南は寝ぼけ眼でぼーっ、と見つめてきた。次第に耳が赤くなっていき、布団を引っ張ってから「ふ、ふぁーい……っ」なんてあやふやな返事が返ってくる。やべぇ、なんだこのかわゆい生き物。

 しばらくごそごそと待機。そっちを見ないようにするのが大変だった。

 俺は適当にその辺に散らかしてあった上着とズボンを履き、カーテンを開けた。

「うわ。雪が止んだら、銀世界だ」

 ここまでの大雪だと、通常ダイヤでスクールバスが運行しているかどうか怪しい。

 けれど、どんなに遅くとも学校に行けないことはないだろう。

 のっそりと着替えを済ませた函南が目を擦りながら机の上の時計を見やった。

「あと三十分あるので……」

「あ、その時計一時間遅れてるから」

「えっ!」

 慌てて支度をし始めた函南に、何でもないふうを装って言った。

「おれはさ。函南みたいな、無敵の主人公じゃねえよ」

「……ですか」

 目を伏せて函南がうなずく。

「俺は臆病だ。しかも、くそダサい引きこもりだ」

 この寒さにもかかわらず、布団の足元にほっぽいといたレモングラスの葉が一本、先っちょだけ色付きを取り戻している。

「……それでも」

 光沢と櫛枝に。後輩に先輩にOBに頭を下げる。今さら何だと思われるだろう。煙たがられるかもしれない。さぞ辛いことだろう。激動の毎日が始まる。耐えがたい苦痛。そんなかたちの前進が、ひとまず俺の一歩。もし、できるのならば。ゆっくりと誤解を解いていって、それでゆくゆくは肩を並べたい。ありもしない未来かもしれなくても、そこに向かう努力は、やめたくない。

 なぜなら、全ては、好きなことだから。

 その事実を思い出させてくれたやつのことを、裏切りたくない。

 臆病なおれだったとしても。

 最高の脚本を作ることはできる。

「脚本を、もう一度好きになりたい」

 函南が目を見開く。

「おまえのことも、一緒に」

 実のところ死にそうなほど恥ずかしかったけど、後ろから首に抱きつかれたら、まあ言って良かったな、なんて思えて、

「はいっ!」


 ――確かにその瞬間、何かが少しだけ変わった気がした。

 こわくは、なかった。


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