ー春のまつりー
軽い寝息をたてて瞳子が寝返りを打った。
小さく規則正しく呼吸をする四十にしては綺麗な背中だ。
土曜の夜は急ぎの仕事が無い限り時間を気にせず食事をし、間にワインを挟んで色々な話しをする。
そして解放された夜を楽しむ。
速水瞳子との暮らしは一年余りが過ぎていたが、芹沢は今の生活が気にいっている。
瞳子と上手くいっている理由は、瞳子が学生時代は文学少女だったと笑うように、豊富な言葉を持っている事だった。
それは作詞、作曲を生業とする音楽家としての芹沢の感性を程よく刺激し、反面大手外車販売会社の営業職の管理者として、男性的に仕事をこなすバランスが調和しているからだと芹沢は思っている。
それとお互いの仕事には干渉しないという暗黙のルールがある事だった。
芹沢に背を向けた瞳子の背中を半ば悪戯心でなぞってみたが、瞳子は目を覚まさなかった。
その時、サイドテーブルの上の携帯が鳴った。隣の瞳子を一瞬気にして電話を取ったが知らない番号だった。
仕事の電話かもしれないと思い芹沢はベッドを出た。
足元にバイオレット色の瞳子の下着が落ちていた。
心当たりが無いまま返事をするといきなり飛び込んできたのは、
「お父さん」
と呼びかける三十代前後かと思われる青年の声だった。
「お父さん」
全く聞いた事の無い声だ。
日曜の朝間違い電話か、それもいきなり「お父さん」などと・・芹沢は内心イラッとして思わず声が尖る。
「間違い電話ですか?」
電話の向こうの声はそれでも「お父さん」と呼びかける。
「君は誰ですか?」
語気を強めた芹沢の口調に、思わす怯んだ気配が伝わる。
「あっ、すみません。僕は牧田壮一郎です」
牧田壮一郎・・
「牧田久美子の息子の壮一郎です」
牧田久美子・・壮一郎・・えっ、あの壮一郎か、五歳の時に別れたあの壮一郎か、芹沢の意識がいきなり水をかけられたように引き締まった。
牧田久美子・・牧田壮一郎・・記憶の彼方に紛れて思い出す事も無かった名前だった。
今電話をかけてきているのはあの時の壮一郎なのか、それに携帯電話がどうして分かったのだ。
瞬間よぎる疑問の向こうで電話は続く。
「母の遺品の中にー芹沢幸一―と書かれたCDの箱がありました。それと何枚かの家族写真も・・・」
そこで壮一郎の声のトーンが落ちた。
「あなたの事は母からは何も聞いてはいないのですが、突然亡くなったもので・・・」
・・・
あなたと呼んだ壮一郎の言葉が、何故か冷たい感触で芹沢の胸を衝いた。
葬儀は済ませたと言う事だったが、ぶしつけですがお会いできませんかと壮一郎は言った。
居心地の良いベッドから抜け出して来た芹沢は、降って湧いたような今の話しに明らかに戸惑っていたが、唐突ともいえる壮一郎からの依頼を、二日後壮一郎の住む鹿児島へ行くと返事をして電話は切れた。
芹沢はそのまま浴室へ行ってシャワーを浴びた。
正直、母が亡くなったと言われても実感が湧かなかったが、しかし、牧田久美子・壮一郎、二十五年前家族として確かに暮らした名前だった。
シャワーを浴び終えるとリビングへ行った。
四月の日曜の朝は静かで春の柔らかな陽が差し込んでいる。いつもは楽しむマンデリンの香りも、かつての記憶へと引っ張られていく。
「おはよう」
振り返るとパイル地の黒のガウンに身を包んだ瞳子が立っていた。
「早く目が醒めたの」
「いや、三十分程前。仕事の電話があったものだから」
壮一郎の事を話す気は無かった。
「シャワー済んだ?」と瞳子が聞く。
「うん、今しがた。そういえば下着ベッドの下に落ちてたよ」
「これでしょ」
瞳子は悪戯っぽく笑ってガウンの右ポケットから小さな下着を取り出して見せて、そのまま浴室へ行った。
朝食はパンとコーヒーとゆで卵という簡単なものだ。
かなり以前、イギリスのサッチャー首相の映画を観たことがあった。
その時の彼女の朝食が、少し焦げた一枚のパンとコーヒーとゆで卵という簡素なモーニングスタイルに、芹沢は何故か強く心惹かれた。
エッグスタンドに乗った半熟卵の殻をスプーンで軽く叩くシーンは、―鉄の女―と呼ばれて国を背負った孤独な女性の心のようで、芹沢は思わず涙したものだった。
それ以来、好みのパンやコーヒーはあるものの、このスタイルが芹沢の朝食の定番となった。
シャワーを浴び終えた瞳子が水の入ったコップを持って、芹沢と向き合ってテーブルに付いた。
乾かしたばかりの短めの髪が額にかかり、無防備な素顔の笑顔が再びおはようと笑いかけた。
芹沢が仕事の一環として開いているー大人のためのピアノとシャンソン教室―に、この教室の提供者であり管理をしている鳥居真莉愛の紹介で瞳子は教室へきた。
教室は四十代から七十代までの子育てを終えた主婦や、夫が定年を迎えて次の何かを捜したいそれなりの向上心と元気さを持っている女達の集まりだった。
とは言っても、ピアノやシャンソンを習いたいと教室へ来た彼女達は、比較的恵まれた生活環境があ
り、どこかおっとりとした豊かさが見てとれた。
その中で瞳子は少し違うタイプの女だった。
濃紺のタイトなスーツにヒールを履き、ショートの髪とナチュラルなメイクに、しかし丁寧に筆を引いたワインレッドの口紅がその装いと髪形によく似合っていて、色を抑えた瞳子の存在を逆に際立たせていたが、瞳子は直ぐに皆と打ち解けてレッスンに加わわった。
芹沢に生徒として瞳子を紹介した鳥居真莉愛とは、対象的な雰囲気を持っていた。
鳥居真莉愛とは二年前、たまたま仕事で引き受けた教会のクリスマスコンサートの企画と音楽監修を依頼されて、その主催者側の一人として出会った。
意志の強さを感じさせるはっきりとした目鼻立ちの、華のある綺麗な女性だというのが第一印象だった。
黒いハイネックのセーターの形の良い胸元に下げられた小粒のダイヤの十字架に、芹沢はふと目を背けた。
こういうタイプの女性には無意識の苦手意識が芹沢の中に生まれる。
真莉愛が席を外した時に他の関係者が芹沢に密かに話したことは、真莉愛は関西では名のある老舗の造り酒屋の娘だと言う事だった。
「赤いボトルのールービーの吐息― 青いボトルのー地中海の涙―というコマーシャルで売り出されている新酒、ご存知ですか」
「ええ、何となく耳にしますが」
この新酒が特にアラフォー以上の女性達に人気があるというテレビからの情報を思い出して言った。
「あれは酒造―鳥居―という真莉愛さんの実家が売り出しているもので、発案者は真莉愛さんだと聞いています。凄いですよね」
真莉愛を語る彼女の口調が弾んだ。
只、古来造り酒屋という日本的なイメージと、クリスチャンという真莉愛の雰囲気は何処かそぐわない感じがしたが、芹沢の胸の内を見透かす様に彼女は言った。
「何でもお母さまが敬虔なクリスチャンで、真莉愛と付けられた名前もその意味があるらしいんですよ。本当のお嬢様で私達とは違う世界の方ですが、教会の為にも良く働いて下さって熱心なクリスチャンです」
「結婚されてるんですか?」
「いえ、自分はキリストの花嫁だとおっしゃいました」
彼女は最後に勿体無いですよねと呟くように言って、温かな笑みを浮かべた。
あの独特な華やぎは、真莉愛の育ちから来ているものだと芹沢は納得した。
この時の出会いが縁で、かねてから計画していた今の教室を開いた。
真莉愛が財産の一部として受け取っているテナントビルの一室を、教室として提供してもいいと言う話しからだった。
生徒はピアノコースとシャンソンコースに分けて、三十名限定で集められた。
真莉愛はここでも遺憾なくその人脈を発揮して、先ほどの女性達が集まって来たのだ。
彼女達は教会が年末に開催するチャリティーバザーのボランティアで、そのまま真莉愛の友人になっているメンバーだった。
後日、芹沢は瞳子が何故真莉愛の知り合いだったのかを聞いたことがあったが、真莉愛は瞳子の勤める外車販売会社の顧客で、真莉愛が車を買い替えた時の担当者が私だったのよと言った。
芹沢が瞳子と親しくなった切っ掛けは、真莉愛の所属する教会のクリスマスコンサートに、教室の発表会を開いたらどうかという提案があった事だった。
彼女達のために何かしてやりたいと思っていた矢先、この企画は芹沢にとっても有り難い話で芹沢は直ぐに仕事に取り掛かった。
まず生徒達には好きなシャンソンをソロで唄うというプログラムを組んだ。
人前でソロで唄うという挑戦は彼女達のやる気をおおいに刺激し、曲選びから歌のレッスンまで嬉々としてその目的に向かって走り始めた。
もう一つのプログラムは全員が作詞をし、その中の一作に芹沢が曲を付けて皆で唄うという試みだった。
「作詞なんて難しそう」
「書けるかなあ」
などと其々にさざめきながらも会話には如何にも楽しげな響きがあった。
クリスマスコンサートというこれから始まる非日常の時間が、彼女達を甘やかで思いがけない舞台へ連れて行くのだろうと、ピアノの前の芹沢は思っていた。
十二月の雪
カシミヤの黒いコートに雪がかかり
カサブランカの白い花を抱えて
貴女は雪の日のドアを開いた
唇が色褪せて伏せた睫毛が濡れた
栗色の巻き毛の女だった
外は十二月の雪
アダモの曲と暖炉の炎が
凍えた貴女を包み込む
コートを外しましょうか、細い肩から
貴女は深い悲しみに満ちた瞳で
儚げ黙って私にうなずく
あの恋人の好きな花なの
抱きしめた花びらが、涙となって零れる
外は十二月の雪
アダモの曲と暖炉の炎が
悲しみの貴女を包み込む
時が止まったように
部屋の中は静かで
貴女と私は、アダモの曲を聴く
雪は降る、恋人は来ない
雪は降る、冷たい心に
外は十二月の雪
そして
貴女のあの恋人も
もう、戻らない
速水瞳子
末尾に速水瞳子と記名された原稿に、芹沢は釘付けになったといって良かった。
十二月二十四日のイブの発表会へ向けて、これ程的を得た歌詞が生徒の中から挙がってくるとは思ってもいない事だったからだ。
この時、速水瞳子という一人の生徒が明確な輪郭を持って芹沢の中に生まれた。
レッスンが終わるとその後の生徒達が楽しみにしている三十分程のお茶会にも、仕事だからと瞳子はほとんど加わわらなかった。
他の生徒や真莉愛に「またね」と軽く笑って手を振り、ピアノの前の芹沢にも黙礼をして教室を出て行く。
大振りなエルメスの黒い仕事用のカバンには瞳子の何が入っているのか・どんな言葉を持っているのか、今初めて意識する速水瞳子という未知な女性に芹沢は強い関心を持った。
只それは男としての興味ではなく、歌い手や作詞家、作曲家という新たな人材発掘にアンテナを張る音楽家としての職業人意識だと言えた。
朝洗顔の後の鏡の中の自分を眺める時白髪が確実に増えている事や、眼鏡を掛けて仕事をする時間が長くなっている事を感じる。
過去に一、二度付き合った女達は、白髪も眼鏡もとても素敵と戯れたが、今はそういう事からも離れて久しい。
「十二月の雪」に二日で曲を付けた芹沢はその週の日曜の午後教室に瞳子を呼んだ。
レッドピンクの秋物のセーターにダークブラウンのパンツという装いは、普段タイトなスーツ姿で受けるレッスンの時とは明らかに違う雰囲気に、芹沢はふと瞳を見張った。
「良い歌詞をありがとう、正直驚きました」
初めて二人で話すそれが芹沢の第一声だった。
「そうでしたか。良かったです」
瞳子の瞳が笑い、丁寧に筆を引いた唇がほころんだ。
「弾いてみるので、感想を教えてください」
「はい」
芹沢はピアノの前に座り、出来挙がったばかりのメロディーに乗せて「十二月の雪」を歌った。
瞳子は少し離れた椅子に腰を下ろして耳を傾ける。
瞳子にとっては教室の一生徒として提出した作詞が、プロの作曲家の手に依って曲が付けられた「十二月の雪」が命を帯びて立ち挙がっていく。
晩秋の午後の静かな教室に芹沢の弾くピアノの音色が染み入るように瞳子を満たしていき、初めて経験する心地良さに瞳子は瞳を閉じた。
「どうだろう」
芹沢が瞳子を振り返えって聞いた。
「先生、本当に良い曲ですね。自分の書いた詩がこんなになるなんて、びっくりしました」
瞳子の驚きが芹沢に伝わる。
「じゃあ、これでいこう。次のレッスンの時皆に公表します」
芹沢が瞳子に伝えた時、教室のドアが開いて真莉愛が入って来た。
「ピアノが聴こえるので先生がいらしてるのだと思って。あら、速水さんも」
そこに瞳子も居る事に気が付いた真莉愛の瞳が一瞬陰ったのを芹沢は感じたが、さり気なく真莉愛に言った。
「丁度良かった。速水さんの作詞に曲を付けて今聴いてもらっていた所です。鳥居さんも聴いてください」
「速水さんの作詞に決まったのですね」
真莉愛は瞳子に瞳を呉れる事無く芹沢に言った。芹沢はそれに答えず再び「十二月の雪」」のメロディーに歌を乗せて二度ほど弾いた後、「どうですか」と真莉愛に問いかけた。
瞳子と並んで腰を下した真莉愛は即座に立ち上がり、芹沢の傍に歩み寄って手を叩いた。
「先生、とても素敵! 私、この歌を歌いたい」
突然の真莉愛の発言に芹沢は驚いて一瞬瞳子を見た。
それは他意無く気に要った物を欲しがる子供のようで、矢張りこの女はお嬢様だと芹沢の内心が何処かで呟く。
「先生、最初は皆で歌って、最後にもう一度真莉愛さんに歌ってもらうというのはどうですか? 「十二月の雪」のハイライトになると思いますが」
イブの日に教室の発表会を企画した真莉愛に対して、その発言を言下に否定出来ない芹沢の困惑を、瞳子はとっさに読み取っていた。
その夜、芹沢は瞳子に電話をかけた。しばらくの発信の後「もし、もし」と瞳子が応答した。
「芹沢です。こんばんわ」
「あら、先生、こんばんわ。何かでしたか?」
「今日は有難う。丸く収まって助かりました。悪気は無いのだろうけど、正直驚きました」
芹沢は最後に独り言のように言った。
「先生、教室には色々な方がいて面白いじゃないですか。私好きだし楽しんでますけど」
電話の向こうで瞳子の声が笑っている。芹沢も連られるように苦笑しながら、真莉愛に感じた違和感が自然に薄れていくのを感じた。
一人、一人の個性を楽しめばいいのだー暗に瞳子が投げた言葉の意味を芹沢は胸に落とした。
営業職の管理者として今の様に部下を鼓舞したり励ましたりするのだろうと、黒いエルメスのバックを下げた瞳子を思った。
イブのコンサートと教室の発表会は、芹沢の予想を遥かに超えたものだった。
聖歌隊に依る讃美歌。
ゴスペルやハンドベルから奏でられるクリスマスソング、そして生徒達のソロと合唱。約二百席のホールは満員の観客だった。
そんな中でも真莉愛は舞台に上がっていく生徒一人一人のメイク、ヘアー、ドレスの仕上がりに細やか気を配り、真莉愛の別の顔を芹沢は見た気がした。
生徒達は久しく忘れていた高揚感に包まれて臆する事なく舞台へ出て行き、日頃レッスンに励んだ歌を歌った。
芹沢のピアノがなり始めるとライトが当たり、ステージで歌う姿はまさしく歌姫そのもので温かい拍手がホールを満たした。
舞台の袖で真莉愛は微笑みながらそれを見つめ、ステージから下りて来る彼女達一人一人と軽く抱き合い今日までの労をねぎらった。
中には感極まって涙する生徒もいた。
矢張り圧巻だったのは、鳥居真莉愛が最後に歌った「十二月の雪」のソロだと言えた。
司会の案内で、栗色の髪を巻き毛にして黒いドレスにカサブランカの花を抱えた真莉愛が登場すると、その美しさに小さなどよめきが波の様に拡がった。
真莉愛は歌詞の中の主人公そのままに、恋人に置いて行かれた女の哀しみを抑えた情感で歌い、万雷の拍手が真莉愛を称えた。
瞳子が言った様にまさしくそれは発表会の最後を飾るハイライトに相応しい真莉愛の演出だといえた。
歌い終えると軽く一礼をした真莉愛は、ピアノから手を離した芹沢の元へ歩み寄り舞台中央へと促した。
司会者の差し出したマイクを手にすると、今日発表した「十二月の雪」が芹沢の作曲である事を披露し、抱いていたカサブランカの花をその手に渡した。
又もや会場は万雷の拍手だった。
真莉愛の予期せぬ行動に内心芹沢は驚いたが、作詞者の速水瞳子の事には一言も触れなかった真莉愛に、瞳子へ対する拘りを感じた。
客席に瞳子の姿を瞳で捜したが瞳子は見つからなかった。
そして芹沢教室の発表会は幕を閉じた。
翌二十五日の夜、芹沢は瞳子を食事に誘った。
発表会迄の打ち合わせの中で芹沢は瞳子と親しく話をする様になっていたからだ。
クリスマスなので今日はショールームに居ると瞳子は言った。
この時期は新車購入や買い替えの客で結構忙しいのよと瞳子は笑った。
それはいつもと変わらぬ瞳子の声だった。
コンサートの日の真莉愛の事が気になっていたのだが、折角の食事に真莉愛の話しをするのは止そ
うと思った。
改めて物事に拘らない瞳子の大らかさは、芹沢が過去に付き合った女達が決して持ってはいない物だった。
彼女達は些細なことで傷ついたり涙したりして、芹沢を困惑させる事も多々あったからだ。
芹沢が女との付き合いをやめたのは、往々にしてそういう理由からだといえた。
ショールームが閉店した九時に瞳子の会社の駐車場へ車を入れると、水色のコートの襟を立てた瞳子が芹沢の車に軽く手を挙げた。
歩み寄って来る瞳子を見ながら芹沢はふと、瞳子を車に乗せるのは今日が初めてだと思った。
発表会迄の二ヶ月は全て教室での作業であり、其々が教室の駐車場に車を入れて落合い昨日の発表会へ漕ぎ着けたのだ。
発表会の成功という目的へ向けてさながら同志のように働いたといって良かった。
芹沢は本来、プロの歌い手や作曲、作詞家それに付随する関係者と仕事をしてきたが、音楽には殆ど素人の生徒達にこれ程力を注ぐとは自分でも予想外の心境だった。
真莉愛や瞳子を始め、彼女達は一途に芹沢の指導に耳も瞳も預けて歌った。
それは密かに涙ぐみたい程の新鮮な感動で、一人一人が愛おしいとさえ思えてくる程だった。
車は国道沿いの海辺のレストランに入った。
今日がクリスマスということもあり店内はほぼ満席だったが、予約していた芹沢と瞳子の席は
海際に用意されていた。
「先生、私ここ初めてです」
コートを脱ぎながら店内を軽く見回して瞳子は腰を下ろした。
コートの下は何時もの仕事着であるタイトな濃紺のスーツを身に着けていた
が、胸元には赤と緑で配色された艶のあるミモザの造花を挿していて、クリスマスというこの日を意識した瞳子らしいセンスだと思った。
芹沢が車で来ている事もあり、ここでは店のメインの鳥料理をオーダーした。
香草入りのチキンクリームスープを口に運びながら、ふと瞳が合った瞳子が微笑んだ。
拘りの無い眼差しに芹沢はその時、初めて瞳子の女を意識した。
「先生、お疲れ様でした。本当に良い発表会でしたね。皆も本当に素敵で素晴らしかったです」
「あれ程良く出来るとは正直驚きだった」
「本当に。矢張り真莉愛さんは最高でした。十二月の雪、圧巻でしたもの」
まだ昨日の余韻を感じさせる瞳子の瞳が逆に芹沢を黙らせた。スプーンを置くと芹沢は言った。
「食事が済んだら僕の部屋で飲みませんか」
思ってもいない形で瞳子を誘った自身に芹沢は内心驚いたが、瞳子は黙って頷いた。
その夜瞳子は芹沢のベッドで眠り、それが芹沢と瞳子の今日迄の暮らしへと繋がっていた。
瞳子の躰から匂い立つ柑橘系の香りは心地よく芹沢を満たし、燃え上がる様な激しさは無いが、意外にふくよかな乳房としなやかなうねりは、何の違和感も無く芹沢の中で融けていった。
そして瞳子はずっと以前から芹沢の傍で眠っていた様な安らかさで、微かな寝息をたてていた。
「明日、二日ほど鹿児島へ行って来るよ」
芹沢が二十五年前に別れた息子だと名乗る牧田壮一郎という青年に会いに行くなどと知る由も無い瞳子だったが、その時は
「鹿児島?」
と聞き返した。
いつもは芹沢の仕事に何の干渉もしない瞳子だったので、鹿児島という言葉に反応したのが意外だった。
「うん。歌を聴いて欲しいという歌手志望の女の子がいるらしいんだ」
鹿児島へ行く本当の理由など話す気の無い芹沢はさり気なく答えながら、この一年余りの瞳子との暮らしの中で、過去の話などした事は一度も無いなと思った。
「先生、私、鹿児島が故郷なんです」
いきなりの瞳子の言葉に芹沢は意表を突かれた。
「そういえば、暫く帰ってないなあ」
芹沢から視線を外した瞳子の瞳は陽の射すリビングの外へ向けられ、鹿児島という故郷への懐かしさが見てとれた。
「瞳さん、鹿児島なの?」
芹沢は思わず真剣な口調で問いかけた。
かつて牧田久美子・牧田壮一郎、という家族と暮らしていた町が、瞳子の故郷だった偶然は一種の
驚きを芹沢にもたらした。
「鹿児島は何処に住んでいたの?」
芹沢は釣られるように次の言葉を発した。
芹沢の問いに一瞬訝しげな影が瞳子の瞳に走ったが、直ぐに何時もの笑みに変わった。
「大学病院のある桜ヶ丘という所です。父が病院の勤務医だったので近くに建てたみたいです」
「今も?」
「いえ、父はもう亡くなって兄がクリニックを開業しています」
大学病院、桜ヶ丘、ああ知ってるよ。壮一郎はそこで産まれたんだ。
それはまさしく懐かしさの一言に尽きた。
華やかな喧騒に溢れた大都会の空港から僅か一時間半の南の玄関は、タラップを降りる芹沢の髪
を四月の風が柔らかく迎えた。
空気は何処か日向臭く穏やかに時が流れているのを肌で感じる。
思いがけも無く届いた壮一郎からの電話で二十五年ぶりに今再びこの町へ来ている。母が死んだという知らせと共に。
東京出身の芹沢が大学入学という名目の元地方の大学を選んだのはひとえに家から離れたい為だった。
単純に東京から遠い所、それは北でも南でも良かったのだが、鹿児島という南の町は当時の芹沢に何か明るい光と風を思わせた。
東京郊外の地主の家の一人娘として育った母は、当時では珍しい母のピアノ教師として芹沢家に出入して父を婿養子に迎え、芹沢と弟の良一が生まれた。
芹沢が今音楽家として生きている原点は、幼少期からピアノに親しませた父の存在があったからだといえた。
母と結婚してから祖父の誠一郎が興した不動産会社の副社長という肩書きを持ったが、父は
次第に出社する事は無くなり、何時の間にかピアノのある部屋で過ごす様になっていた。
初めは色々な曲が父の部屋から聴こえてきて芹沢も弟の良一もそれが楽しくて歌を歌ったり鍵盤を叩いたりした。
芹沢と良一の相手をする父も楽しげで、三人の笑い声が部屋に溢れた。
只、その時の父の悩みや葛藤など当時の芹沢や良一に解るはずも無く、それは無条件に幸せな父との時間だった。
芹沢が学校に行き始めた頃からピアノは鳴りを潜めて、代わりに酒の臭いが充満する部屋となった。学校から帰った芹沢がドアを少し開けて中を覗くと澱んだアルコール臭が途端に鼻を付き、ピアノにうつ伏して眠りこける父の姿があった。
それに気ずいた母が音をたてずにドアを閉めて、
「あの部屋を覗いては駄目‼」
と強い口調で言った。
父が家を出て行った日を芹沢は知らない。
あの部屋を覗いてはいけないと母に強く言われた日から、気になりながらもドアを開け無かった
からだ。
只、ドアの向こうに父が居るという意識は何処かで芹沢を安心させていた。
明日から夏休みが始まろ五年生の夏芹沢が学校から帰ってくると、父の部屋が開け放たれて掃除が済まされ、庭から吹いてくる風が何事も無かったように部屋を満たしていた。
部屋の隅に物言わず佇むピアノが、この家の父の姿を物語っているようだった。
その時芹沢は父がこの家から姿を消した事を直感的に感じた。
降るように鳴いていた蝉の声が一気に遠ざかり、突然自分の中の何かが音をたてて崩れていくのを呆
然と立ち尽くして堪えた。
祖父も母も他の人間も、まるで初めから父が存在しなかった様に誰も父の話に触れ事は無かった。
それを尋ねてはいけない事なのだと表向きは無邪気に暮らしながら、芹沢はいつも父を思った。
そうした日々の中で今でも鮮やかに記憶に残っている母の姿があった。
夕立に打たれて駆け込んだ芹沢の髪を拭いてくれていた母が、不意に吐いた言葉だった。
「公ちゃんの襟足はお父さんにそっくりね。お母さんはお父さんの襟足がとっても好きだったの」
母はいきなり背後から芹沢を抱きしめた。
突然母の涙が首筋を濡らし、芹沢はあがらう事無く母と共に立ち尽くした。
父がいなくなって一ヶ月が過ぎた頃だった。
あの時確かに母は自分の中に父を感じていたのだと理解できたのは、芹沢が高校生になってからだった。
「先生の襟足は、大人になり切れない少年の匂いがしますね」
ピアノを弾く芹沢の背後であの時の母の様に、矢張り瞳子も言ったものだ。
程なく母は副社長という席に就き毎朝祖父と出社する様になった。
母の代わりに芹沢と良一の世話をする様になったのは、長年芹沢家の家政婦として働いている和代という女性で、母よりも一廻り年上かと思われる彼女は、性格の優しさが話す口調や眼差しに表われていて、芹沢が心許せる大人の一人だった。
母の帰りが遅いと分かっていた夕食後のテーブルで、先に席を離れた良一を見届けて気になっていた父の事を切り出した。
「和ちゃん、お父さんは何処へ行ったの?」
和代は一時の沈黙の後、何時もの穏やかな口調で話し始めた。
「お父さんは入院されています」
「入院?」
思いもよらない和代の言葉に芹沢は驚いた。
「色々とご心労がおありでした。すぐにはお戻りにはなれませんが、大丈夫、きっとお元気になりますから。それより公一さん、今の話しは内緒ですよ」
和代は唇に人差し指を当てて秘めやかな目で言った。
父の入院が何故秘密なのか、何故会いに行ったらいけないのか、その時抱いた素朴な疑問が解けたのは、父がアルコール依存症だったと知った高校三年の冬だった。
そして程なく父が病室で自死した事を和代から聞かされた。
「お父さんは本当に優しくて良い方でした。お気の毒に」
矢張り二人だけのリビングで和代は目頭を押さえて声を詰まらせた。
小学五年生の夏以来ついに会う事は無かった父の、しかも自死という終わり方に芹沢はあの時と同じ様な強い衝撃を受けた。
只ひたすらに父に申し訳なくそして父が哀れだった。
変わらず芹沢家の日常は静かに営まれ、祖父と母は前にも増して忙しそうだった。
親族の手に依って引き取られた父は、高尾山の墓地に埋葬されたらしいとの和代の話だった。
芹沢が鹿児島の大学を受験したいと伝えた時、母は勿論、芹沢の生活にほとんど干渉しない祖父までも驚いてその理由を聞いてきた。
芹沢は何事も無い口ぶりでサラリと言った。
「知らない土地で暮らしてみたいんです、卒業したら戻って来るので」
父の事は母にとっても不幸な出会いだったと十分に分かってはいるのだ。
それでも父の生涯を思う時芹沢は深い後悔を禁じ得なかった。
卒業したら東京へ戻るという条件で、母も祖父も不承不承納得した。
芹沢が東京を離れる日、二人は既に出社していて家政婦の和代だけが見送った。
「幸一さん、寂しくなりますけど新しい町で良い事を見つけてくださいね。お父さんのお墓は出来る限り手を尽くして捜してみます」
和代は強い決意を滲ませて言った。
「必ずお墓参りに行きましょう。でないと本当に心が残ります」
「和ちゃん、長い間お世話になりました。親不幸な息子だけど皆の事はよろしくお願いします。和ちゃんも体気をつけてね」
「幸一さん、自分の人生ですから後悔の無い様に頑張ってくださいね。応援してますよ」
この家を離れる本当の理由を理解しているのは和代だけだと思いながら、芹沢は東京を後にした。
誰も知らない鹿児島での生活は、父のことで閉ざされていた重い気持が、四季折々の日々の中で本来の自分を取り戻していくのを感じた。
初めは戸惑った個性豊かな鹿児島弁など、それら全てが新鮮で心地良かった。
四年後、卒業と同時に県立高校の音楽教師として採用され、ピアノのを弾ける特技は芹沢に教師としての道を開いた。
卒業したら東京に戻るという約束は、芹沢の教師としの道を歩きたいという意志に母や祖父が折れた形で決着が着いた。
家業の不動産会社は弟の良一が継ぐ事になり、自身の我儘を許してくれた家族にそれは矢張り感謝だった。
自分は父に似ていると思う。
会社経営という仕事が向いているとは思えなかった。
母と結婚した父もそうだったのではないかと、今なら判る気がした。
自分は鹿児島という新しい土地に居場所を見つけられたが、父は結局逃げ場が無くピアノを相手に一日を過ごし、最後はアルコール依存症の果てに自死という形で人生を閉じたのだ。
夏休みの学校は生徒の姿も声も消えて静寂に包まれ、音楽室の窓から見える校庭の桜の樹はたおやかにその葉を風に揺らし、強い陽射しの木漏れ日が涼しげな陰を作っている。
今ならこの樹の下に父を連れて来て、色々な話ができるのにと芹沢は思った。
大学生活の夏休みも冬休みも芹沢は一度も帰省しなかった。
母はその都度帰省を促したが、アルバイトがあるとの口実でそれを断った。
お金別に困っていないでしょうと、潤沢な仕送りをしている母は不満そうだったが、実際就職活動を始める三年生の冬休み迄、友人から紹介された「ミッドウェー」という市内では有名なクラブの、ピアノ奏者としてのアルバイトがあった。
牧田久美子と出会ったのは、芹沢がクラブでのアルバイトを始めた二度目の冬休みだった。
「今日からお世話になります牧田久美子です」
スタンバイ三十分前に今夜の楽曲を練習していた芹沢の元へ、歩み寄って挨拶をしたのが久美子だった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
芹沢も椅子から立ち上がって頭を下げた。
肩で揃えたストレートの黒い髪が、ノースリーブの黄色のドレスによく似合っていて、夜、の世界で華やぐ久美子の美しさを芹沢は素直に眩しく感じた。
タラップを降りてゲートを抜け、一階の待合ロビーへのエスカレーターに乗った。
二十五年ぶりに思いがけず会う事となった壮一郎との対面に、緊張している自分がいる。
壮一郎が息子だとすればどんな青年に育っているのか、エスカレーターに乗っている僅かな時間でさえ、思考は目まぐるしく交錯した。
四月の終わりの待合ロビーはそれ程人も多くなく、エスカレーターを降りると正面から近ずいて来る青年がいた。
芹沢に向けて軽く手を挙げその瞳が笑っている。
―ああ、壮一郎だー
何の違和感も無く胸の内で芹沢は叫んだ。
壮一郎はネクタイをしめ背広を身に着けていた。
身勝手な話だと思いながら、壮一郎のごく普通の青年らしい佇まいに何処か安堵する自分がいた。
芹沢は惹かれるように壮一郎の元へ歩み寄った。
「あなたの都合も考えずに突然お呼びたてして申し訳ありません。それにいきなりお父さんなどと・・」
少しはにかんだ様に詫びて頭を下げた。
「いや、電話を貰った時はびっくりしたけどお陰で君に会えた。長い間音沙汰なしでこちらこそ申し訳なかった。お母さんにも君にも・・」
壮一郎の事を君としか呼べない、それが二人の歳月の長さだった。
「母はあなたの事を僕が成人した時に初めて話しました。芹沢公一という昔の知り合いが音楽業界で成功していると。その時の母の懐かしそうな、ちょっと誇らしそうな感じが印象にあって何となく不思議な気がしたんですが、でもそれっきり話す事も無くて僕も忘れていました。
母が亡くなった後遺品の整理をしている時、あなたのCDと家族写真が出てきて裏に三人の名前が書かれていました。母はいつか処分しようと思っていたのかもしれませんが、突然亡くなったものですから・・」
歩きながら壮一郎は瞳を伏せた。
並ぶ芹沢は只黙って聞くしかなかった。自分が鹿児島を離れた後の久美子と壮一郎の年月がどんなものだったのか、想像すら出来なかったからだ。
芹沢が久美子に魅かれた最も大きな理由は久美子の歌の上手さだった。
ショーの始まりを告げるアナウンスで芹沢のイントロがステージに流れると、ハスキーな久美子の歌声にそれまでざわついていたホールが、一瞬の内に静まったほどだった。
さくらんぼの実るころ、愛の讃歌、ラ、メール、群衆等、フランスの小雀と言われたピアフの残したシャンソンの名曲を、一六○センチ足らずの小柄な久美子はさながらピアフの様に情感豊かに歌いあげた。
客席はやんやの喝采だった。
ホールに鳴り響く拍手と口笛に手を振り笑いかけ、その微笑みを芹沢にも返した。
スタンディングオベーションの拍手は鳴り止まず、再び舞台の袖から登場した久美子は
「ラストダンスは私に」
を歌いながらスッテプを踏み、その夜のショーは終わった。
地方都市のクラブのステージとはいえ、「久美子」という一人の歌手
が誕生した夜だった。
久美子の歌はクラブの外でも評判になり、久美子のステージを目当ての客が急に増えてその分芹沢も忙しく久美子との時間に追われたが、ピアノ奏者と歌い手という二人は息の合ったコンビとなった。満席の客の拍手と歓声は舞台に立つ人間の高揚の極みといえた。
只、芹沢は此処が自分の生きる場所では無い事は明確に承知していたし、大学三年の冬休みで三年間続けたアルバイトは終わった。
今夜が芹沢の最後のステージだと司会者が告げると、万雷の拍手の中大きな花束が贈られた。芹沢は思わず涙ぐみながら
「ありがとうございました」
と客席へ向いて頭を下げた。
その時、ピアノの傍に立っていた久美子がつと歩み寄って芹沢を抱擁した。ふっくらとした胸が芹沢に密着し、その耳元で久美子が囁いた。
「芹ちゃんありがとう。又、いつか会おうね」
芹沢より五歳年上の久美子が芹沢を呼ぶ時の愛称だった。
それは別れの言葉の様にも聞こえたし、「又、いつか」という願いの様にも聞こえた。
「又、いつか」再び戻らないこの場所を出て行く自分にとって、それは殆ど希望の無い言葉の様に思われた。
薄暗いホールのミラーボールの下、男と女は抱き合って束の間の夢を睦みあい、そして久美子は、戦場へ行ったきり帰らない恋人の兵士を待ちわびる娼婦の歌を歌った。
クラブを離れて間もなく、久美子がスカウトされて東京へ行ったという話を芹沢は風の便りの様に聞いた。
最後の一年は卒業に向けての卒論のレポート作成や、教員採用試験の面接等日々は慌ただしく、それでもふと、薄いドレスの下の久美子の乳房は、時折甘く芹沢を責めた。
「母の最後の場所を見て頂けませんか」
空港から車で一時間程市内へ下りた駅裏の雑居ビルへ、壮一郎は芹沢を案内した。
スナックやカラオケバーの看板が入口に出された六階建ての古びたビルの三階だった。
まるで昼間の喧騒から取り残された様に通路は鎮まり、昨夜の空になったビール瓶が無造作にケースに押し込まれて雑然と出されていた。
壮一郎は一番奥のドアを開いて芹沢を招き入れた。
酒場独特のくもぐった臭いが染み付き、芹沢は久美子が命を落とす迄生きてきた部屋の中で立ちつくした。
壁際に置かれたワインカラーのアップライトのピアノに見覚えがあったからだ。
久美子と暮らし始めた頃曲作りのために買ったピアノだった。
「お母さんはピアノが弾けたの?」
「いえ、ピアノは弾けなかったと思いますが何故かこのピアノをとても大事にしていました」
壮一郎の中にはかつて三人で暮らした日々の中に、ピアノの記憶は無い様だった。
芹沢は歩み寄ってピアノの蓋を開け人差し指で鍵盤を叩いた。
確かに指先に残る懐かしい音だった。
壮一郎が背後から言った。
「母はピアノの前で亡くなっていました。夕方、店を手伝っている女性が発見したんです。心筋梗塞だったと聞きましたが、苦しんだ様子は無かったとの事でした」
静かな壮一郎の声だった。スナックの床に倒れながら、久美子は最後に何を思い何を見たのだろうか。
芹沢の瞳から堰を切ったように涙が落ちた。
「お母さんに苦労を掛けてしまって申し訳ない」
壮一郎に向き合って芹沢は頭を下げた。
「いいえ、僕の突然の電話にも拘らず来て下さったのですから、母も喜んでいると思います。勿論、僕もですが」
慈しむような壮一郎の眼差しだった。
壮一郎の何処かに久美子を感じた。
五歳年上の少し姉さん気取りの久美子が好きだった。
久美子が東京へ行ったという噂を聞いてから二年後、芹沢は県立高校の音楽教師として教壇に立っていた。
全学年の音楽担当としての教材作成や、加えて部活の顧問としての指導等思った以上に忙しかったが、同時にそれは教師としての充足感をもたらすものだった。
久美子の事を思い出す事も殆ど無くクラブでの久美子とのあの時間も、もう遠い一夜の夢のような儚さでしかなかった。
明日はホワイトクリスマスになると生徒達もはしゃいだ雪のイブの夜、チャイムを鳴らしたのは久美子だった。
ドアを開けるとコートの胸元を合わせた久美子が、微かな笑みを浮かべて立っていた。
スカウトされて東京へ行ったという久美子のこれまでを聞かなくても、今の姿が全てを物語っている様にみえた。
弟を見るように語りかけていた久美子の瞳が力なく芹沢を見ている。
「芹ちやん;;」
更に小さく感じられる久美子を抱きながら「心配しなくていいよ」と芹沢は言った。
何時か久美子が話す時があれば、それはそれでいいではないかと思ったからだ。
その夜から久美子との暮らしが始まった。
東京の母のへは牧田久美子と結婚した事を、新年の挨拶に添えたハガキで書き送った。
指宿へ向かう海辺の小さな集落が久美子の故郷だった。
芹沢は初めて訪れる場所だ。
集落の外れに建てられた共同墓地の一隅に芹沢は佇んだ。
花を手向け線香を焚き壮一郎と共に合掌しながら、思いがけなく招かれて二十五年ぶりに鹿児島を訪ね、今久美子の墓前に立つ自分がいる。
あれからこの女はどの様な人生を生きて旅だって逝ったのか。
その知らせは突然芹沢の元へ届いた。
天性の声を持つ歌姫とメディアが騒いだ女性歌手の、大々的なデビュー曲公募のキャンペーンが打たれた時、その歌い手をイメージしたピアノ曲を送ってみたのだ。
音楽業界という世界へのほんの遊び心のつもりだった。
久美子と壮一郎との暮らしは五年目を迎え慎ましく穏やかな日々に芹沢は何の不満もなかった。
久美子は芹沢の給料で家計をやり繰りし、何時か小さな家を建てたいなと笑ったそして前ぶれも無く芹沢の応募曲が候補の一作として採用されたとの連絡があり、面接と打ち合わせの為に直ぐに上京して欲しいと担当者は伝えた。
「芹ちゃん大丈夫よ。きっと上手くいく」
あの時、急に開けた自分の未来に戸惑った芹沢の背中を押したのは久美子だった。
それは何時も芹沢を励まし力になった言葉だった。
「芹ちゃん大丈夫よ。きっと上手くいく」
本当は細やかな幸せで良かった三人の暮らしが失われる事など、あの時の自分の若さは気が付かなかった。
東京での生活が落ち着くと久美子に何度か上京を促したが、これから作曲家としての仕事が始まる芹沢に私達母子が足手まといになるからと久美子は誘いを断り、暫くして一枚の手紙に添えて離婚用紙が届いた。
「田舎者の私にはあの時も東京という大都会が馴染めませんでした。恐らくこれからもそれは変わらない様に思えます。折角の気持ちに応えられず申し訳ありません。幸い私は一人では無く壮一郎を残してくれました。クラブ時代から今日迄芹ちゃんには色々お世話になりました。
本当に有難う。芹ちゃんは大丈夫! きっと上手くいきます! 頑張って下さいね」
スカウトされて東京へ行った後の久美子の人生に、何があったのかはついに語る事は無かったが、最後は矢張り芹沢を励ます言葉で終わっていた。
作曲家としてメジャーになり始めた頃で忙しいく、結局は自分の人生を取るしかなかった。
「久美子さんには可哀想な思いをさせてしまったわね。壮一郎君にも」
母に離婚した事を伝えた時決して責めているので無いと分かりながら、母の呟きは芹沢の心を締め付けた。
後日久美子から手紙が届き、母の詫び状と共にこれからの暮らしの足しにして欲しいと多額の送金があった事が書かれていて、「有難うございました」と結ばれていた。
久美子にも壮一郎にも遂に会う事は無かった母の思いを、芹沢は有り難く受け取るしかなかった。
翌日、壮一郎は芹沢を空港迄送った。
搭乗迄には少し時間があり二人はカフェで腰を下した。
「ありがとうございました。母に最後の孝行が出来て良かったです」
「僕の方こそ本当に有難う。今迄何も出来なくて申し訳なかった。これは僕の気持ちだから」
芹沢は内ポケットから封筒を差し出した。
「何かの役にたてて欲しいんだ。少しだけど」
壮一郎は一瞬驚いたが、「ありがとうございます」と素直に受け取った。
壮一郎を見る芹沢の瞳は、かつて自分も父から注がれたであろう眼差しそのものだった。
壮一郎が自分の息子だという実感が芹沢を満たした。
二日前迄は思いもよらない感情だった。
血の繋がった親子だという無条件の愛おしいさが、芹沢を熱くしていた。
「一つ聞いてもいいですか」
少し改まった口調で壮一郎が、カップをソーサーに置いて言った。
「母とあなたはどうして別れたのですか」
「お母さんは僕の背中を押して東京へ行かせてくれたんだ。何度か上京を促したけれど鹿児島での生活を選んでしまってね。僕も急に忙しくなった頃で、送られてきた離婚用紙にサインするしかなかった。僕の将来の為に自分の気持ちを犠牲にしてしまったと、それは僕の中の後悔として今でも残っているんだ。いつも僕を励ましてくれる姉さんみたいな人だった。決していがみ合って別れたわけではなかった」
最後は自分に言い聞かせる様に芹沢は久美子との過去を話した。
二人の間にしばらくの沈黙が下りて、店内のざわめきが割り込んできた。
搭乗手続きを告げるアナウンスが聞こえてきて、「行きましょうか」と壮一郎に促されて席を立った。
「僕はあなたが自分の出世の為に母を棄てたのではないかと、何処かで思っている自分がいました。今、あなたと母の事が判って良かったです。母は歌う事がとても好きであんな小さな場所でしたが、お客さんと一緒に何時も歌っていたと亡くなった後に聞きました。僕にとっても良い母でした」
歩きながら壮一郎はやや瞳を伏せて言った。
久美子が何時も歌っていたという壮一郎の言葉に芹沢は久美子が切なく、あの時自分が東京へ行かなければ三人はどんな人生を生きたのだろうかと思った。
「僕は大学を卒業後県の職員として働いています。いずれ結婚も考えていますが、母と僕をこれまで支えてくれた育ての父がいますので、父の面倒をみていくつもりです」
空港の女性スタッフがゲートの前でにこやかに芹沢を迎えた時、それは突然前触れも無く静かに芹沢の胸を衝いた。
「ここで失礼します。気を付けてお帰りください。ありがとうございました。」
軽く頭を下げてきびすを返した壮一郎が遠ざかって行く。
自分のうなじが父にそっくりだと母に言われた記憶が、今壮一郎の背中に重なる。
又会いましょうと言う言葉を残す事も無く、振り向かず歩いて行く壮一郎の後ろ姿を芹沢は見送る。二日前の朝「お父さん」と呼び掛けたあの言葉が、壮一郎の息子としての最後の思いだったのだと、芹沢は身に染みる様に思った。
飛行機は離陸し眼下に鹿児島の山や町並みが見えて、やがて雲の上を東京へと進む。祖父も母も既に亡く、家業の不動産会社を継いだ弟の良一は精力的に仕事を拡げて会社は発展し、時折瞳子も交えて良一の家族と食事をする・座席に深く腰を下して芹沢は思っていた。
二十五年という歳月は自分にとっても色々な事があった。
当たり前だが久美子や壮一郎にとってもそれは同じだろう。
久美子が新しいパートナーと出逢っても不思議ではない。
壮一郎が別れ際に言った育ての父とは二人にとっては良きめぐり逢わせの人だったのだろう。
でないと壮一郎があのように感じの良い青年に育つはずがないのだ。
壮一郎を育て久美子を見送った見知らぬ男性に、過去に家族だった一人としてほろ苦い寂しさと感謝が芹沢の胸を占めた。
芹沢は窓の外へ瞳を向けた。良く晴れた青空の中を飛行機は東京へ向かって飛んでいる。
帰ったら教室の春の発表会へ向けての準備が待っている。
真莉愛や他のメンバー達とのレッスンも始めなければならない。
その前に発表会で皆が歌う瞳子の作詞に曲を付ける仕事にまず手を付けよう。
たかが二日しか東京を離れていないのに、今夜久し振りに瞳子に会うような気がした。
そして、「春のまつり」と題された原稿を読み始めた。
春のまつり
速水瞳子
来ないかもしれない
あなたを待つ つま先に
薄紅色の花が落ちる
見上げる瞳の先には
枝たおやかに 春のまつり
光眩しく 思わず瞳を閉じて
今ひとときの
この幸せの波に紛れる
来ないかもしれない
あなたを待つ つま先に
薄紅色の吐息が落ちる
あなたの愛が遠くなり
別離の予感の 春のまつり
この花の下 幸せを装って
今ひとときの
恋する女のときめきに酔う
来ないかもしれない
あなたを待つ つま先は
薄紅色の道を帰る
花ハラハラとやさし気に
私を促す 春のまつり
いつか再びの 愛を想って
今ひとときの
春の宴の花に寄り添う
読み終えて大まかなメロディーを拾った指先が、原稿用紙の上を叩く。
春の発表会へ向けて「頑張ろう」と少年の様に思う。
壮一郎との二日間の出会いは、思い出す事はあってもそれも何時か記憶の底へ無理なく落ちていくだろう。
「幸せになれよ」
最後に壮一郎へ向けて呟く。
シートベルト着用のサインが点いた。鹿児島の空と同じ様に、今日の東京の空もよく晴れている。
完