プロローグ 神のかませ犬
よろしくお願いします。
かませ犬は、仕事と成り得るのではないだろうか。
そんな突拍子もない考えに至ったのは、自身が正にかませ犬であったと散々に思い知らされてから、幾日。ぼんやりと、無意味に空を見上げていた時であった。
誰の声を聞いたでもない。そもそも、考えるという行為すらしていない。
だと、いうのに。
何の前触れもなく、何の脈絡もなく。そこに至るまでにあったはずの過程を吹っ飛ばして。
唐突に、まるでその一文が空から降りてきたかのように。
少年は、そう思ったのだ。
――かませ犬。
それは、物語等においては主人公、或いはそれに近しい人物の前に立ち塞がる壁。彼等が飛躍し、成長するための契機、経験。
文面だけを見れば、成る程、主役ではないとはいえその存在は、重要なものであるに違いない。
だが、一つ付け加えるとするならば。
あくまでも、良く言えば、である。
実際、それは普通どころか、かなり良い方――謂わばかませ犬の中でも上位に位置するかませ犬で。
大抵のかませ犬はといえば。
ポッ、と出てパッ、とやられて即退場など当たり前。
以降、時折ちょろっと名前が出たり、過去の回想として再びかませ犬を繰り返したり。或いは、一切の出番どころか、名前すら上がらないこともある。
……いや、そもそも名前が登場するだけ、まだマシなかませ犬なのかもしれない。なにせ、名前すら与えられないかませ犬も、ザラにいるのだから。
かませ犬という一括りの言葉にあっても、その中での、下の下。底辺の、底辺。
名無しの、かませ犬。
――成る程、自分は正にそんな存在だろう。
そんな風に、かませ犬という存在について。天啓の如き閃きにより、意図せず彼が考えを巡らせていた時だった。
『……いえいえ、そんなことありませんよ?』
大人びているようで、何処か間延びした、女性であろう声。
初めは、幻聴かと思った。
呆気にとられたのは刹那のことで、少年は思わず苦笑を浮かべる。
――自己保身のために、幻聴すらさも味方のように、己は創り出したのか。
そう、考えたのだ。
『かませ犬は、実に貴重、かつ重要な存在。……そう、非常に価値のある存在なのです』
次いで、誰かが近くにいるのかと思った。
声が続いたのもあるが、その口調が間延びしながらも妙に生々しく、自身の想像の範囲で創られたものと到底思えなかったのである。
だが彼は今、晴れやかな昼の空の下、草原の中に腰を下ろしていた。
近くには、隠れる場所はおろか視界を遮る物はなく。四方には、ただただ風光明媚な景色が広がるだけで、何者の姿もない。
『だから、そんなに自分を卑下をしないで。かませ犬であることは、決して恥ずべきことではありません……とは言っても、この声は届かないことでしょうが』
やがて彼は、立ち上がってきょろきょろと。
無論、目線が高くなったからとはいえ、条件はさほど変わりなく、見える景色もまた、それほど変わりはない。
風に揺れる短い草の緑の中、やはりそこには彼以外の誰もおらず。
『……あら? あらあら? ……どうしたのでしょう、そのように突然辺りを見回して。一体何を探しているのでしょうね?』
だというのに、彼の気も知らずか、呑気で他人事のような、その女性の声。
予想外の出来事というのは、その事実だけで焦り、危機感を募らせるものだ。ましてやそれが、姿無き声ならば、尚更のこと。
だが、少年に驚きはあっても、必要以上に怯えや焦燥感を抱かなかったのは。
その声があまりにもおっとりとしていて、これっぽっちの敵意も、脅威も与えなかったからだろう。
――貴方、ですが。
暫し、迷った末に。
少年は、一言。その声に答えるように、口を開いた。
幸い、彼以外の誰もこの場にいない。突如として彼が発した言葉は、奇異の視線を浴びることもなく。それはつまり同時に誰の反応もなく、只々空へと無意味に消えてゆくはずであった。
普通、ならば。
『貴方?』
――ええ。
『貴方とは……なんでしょうね?』
――ん?
『私には、あの子以外に誰も見えないような気がするのですが……』
――…………。
『貴方とは、誰なのでしょうか?』
――だからその貴方だよ、貴方。
素なのか、はたまた態となのか。いや、態とにしてはその声はいかにも自然すぎた。
態とであれば、こう多少なりとも悪辣さが声色に混ざるはずである。
つまり――察しが悪いというべきなのか、なんというか。
脱力するより先にどうにも面倒臭くなった少年は、今度は迷うことなく間髪を入れずに答える。得体の知れないもの相手ということで、口調こそ乱雑にしていなかったが、それも崩れつつあった。
ともかくそうして、再びぐるりと周囲を見回してみるが。やはり何の変化も、誰の姿もなく。
『――あら、あらあらあら? もしかして、私? 私の声が……届いているのですか?』
ようやく、その声は対象が自分である可能性を考えたのか。
『……ふふっ、なんて、そんなはずあるわけありませんね。私の声が聞こえるほどのかませいぬ魂を持った人間など現れるわけ――』
前半に驚きと困惑が入り混じったような声色。ただ、後半にはどこか諦めたような。己を茶化して紛らわせるかのように、そんな自嘲気味の響きが伴い。
聞いたこともなく、同時に碌でもない予感のする不穏な言葉。
そのはずなのに、こうも明け透けに言われると、やはりこの声は己が創り出した幻聴ではないかと、そう思い直した少年は。
もうまどろっこしいと、途中でぶった切り。そして、これを最後の投げかけとしようと、問いかけた。
――何だ、貴方は。
ぞんざいに、率直に。
そも人であるかすら確証を得れないことから、その存在自体を問うように。
誰、ではなく、何、と。
だが、答えはすぐには返ってこなかった。
返答を考えているのか。聞こえなくなったのか。
それとも話さなくなったのか。或いは、いなくなったのか。
依然、その姿を捉えることの叶わない少年には、どれであるかを判別することはできず。
けれども声を上げることなく、只々少年は待ち。
その間に風が、二、三度。
草原を、少年の髪を揺らし、吹き抜けていった。
……何をしているんだ、自分は。いよいよ、頭がおかしくなったか。
かませ犬が仕事になるかもしれない。そんなよく分からないことを考えてしまったのもその証左か。
馬鹿馬鹿しい。そう、少年は元のように腰を下ろそうとして。
――やや、あって。
彼女は、名乗ったのだ。
戸惑いを残しつつ、されど間延びした中に。何処か自信を、誇りを感じさせる、その声で。
――私の名は、ペラ。
――かませ犬を司る神、ペラである、と。
それが、彼等の始まり。
人と、神。存在においては、その差に大いな違いはあれど。
人のかませ犬と、神のかませ犬。
そんな、かませ犬という立場においては変わりのない、両者の邂逅の瞬間であった。