高天原戦記・蠅声成す穢れのレギオン
(唐突に三人称)
太陽神アマテラスが岩戸に引きこもり、光が断たれたことで高天原の環境は壊滅的な影響を受けた。気温は急激に低下し、田植えを終えたばかりの水田はことごとく凍結。地表には暴風が吹き荒れ、多くの建造物が倒壊した。
それは単に光と熱が断たれた事だけにとどまらない。太陽の持つ浄化の力はこの世界を常世と呼ばれる低位次元からの生物及び霊的存在の侵入、そしてそれに伴う有毒な霊力子による汚染『穢れ』から守っていたのだ。かつての古い時代、強力な力を持つ別天神の力が世界を覆っていたころには、この太陽と常世の相反作用はよく知られており、太陽神が自ら隠れる、などということももちろんあり得なかった。
このたびの事態はひとえに、21世紀の平凡な少年少女である井出川三兄妹の意識がイザナギの生み出した三貴神として転生してしまったことに端を発する。それは、神々にとって痛恨の誤算であった。
そして、さらに悪いことには常世、あるいは幽世から、急速に滞留する穢れの気に惹かれ、あるいは穢れの気そのものをまとった悪神、疫神らが大挙して押し寄せようとしていたのだった。
その中には、狭蠅もいた。
『美双丘』の崩壊後、瓦礫と廃材に巻き込まれて気絶した彼女は、傷ついた体を引きずって山に入り込み、そこで同族の大規模な群れに合流することになったのだ。
彼女はいまや、幼い性欲に翻弄される少年を籠絡して不浄の気を摂取する誘惑者などではなく、同じ姿をした無数の姉妹たちとともに歩み、その進路上にあるあらゆる生命を汚し絡めとり、舐め吸い尽くす、淫靡なる捕食者であった。
本来ならば彼女はとっくに個としての意識を失い、姉妹たちと共有した一つの巨大な情報体系の中で食らうべきものを捜索し、走査し、追跡する一個の器官であったはずだ。
だが、狭蠅は未だ狭蠅だった。今もどす黒く汚濁にまみれ、粘液染みた触手を生じさせた子犬を、口元で弄び生命と穢れを同時にすすって半分ほど殺しつつある彼女の中には、スサノオの姿が繰り返し再生されるヴィジョンとして依然息づいていた。
(スサノオ様ァ……ドコニイラッシャイマスカ……)
同じ顔をした群衆の中で、狭蠅だけが孤独だった。個は孤。個としての意識を持つことはすなわち孤独を抱え込むことだ。狭蠅はスサノオという他者に接したことで一個の人格となった。故に『孤独』。
自分を「女の子」として扱い、愛撫し、寄生すらあえて許した少年への思いが、彼女に集団への心地よい埋没を許さずにいる。
「スサノオ様ニ、会ワナクチャ……」
ぼそりとつぶやいて食みかけの子犬を道辺に抛り棄てる。辛うじて生命を灯したままのそれは、にゅる、と蛇めいた動きで藪の中へ消えた。
「このままでは高天原があの悪神、悪霊の集合体に飲み込まれてしまう。何とかアマテラス様に出てきていただかねば」
「しかしどうすればいいのだ?」
「こうしよう」
「なるほど、そうするか」
神々の高速で伝達される思考に現世のペンによる叙述は追随しえないことがままある。とまれ、彼らは策を立てた。
長く朗々と鳴くニワトリを集め、朝の到来を予告させた。多くの神々の霊力を集約し、疑似太陽球を生み出すため無数の勾玉を作りネットワークを編み上げた。疑似太陽球が投げかける仄明かりの下、磨いた鉄で鏡を製作し、次の段階に備える。
* * * * * * *
物置の外から、何だか笑い騒ぐ声がした。何か歌ってる。なにこれ。
私がいないから、みんな混乱して落ち込んで暗闇の中で息をひそめてるんじゃないかと思ったんだけど、何よ。みんな結構楽しそうにやってるんじゃない。
(私、忘れられてるのかなあ……)
チンドンチンドンと鉦太鼓の鈍く甲高い響きが聞こえてくる。笛の音も加わった。
正面の小窓からそっと覗くと、お付きの女の子の中で一番スタイルのいいウズメさんが、鼻筋の通ったなんだかすごい眼力のある男の人と問答形式で歌ってるようだった。つまり、デュエットしてる。
自分が一時の腹立ちまぎれに責任と仕事をほっぽりだして、意地を張ってこんな狭いところに閉じこもってるのが何だかバカみたいだ。これじゃセルフぼっちもいいとこだ。
ああ、楽しそうだなあ。いいなあ。いまさら出ていったって、仲間に入れてもらえないんじゃないだろうか。混ざりたい。混ざれない。
思えばお兄ちゃんがバカばっかりやってたせいで同じクラスの女子からまで避けられてきた。そんなこと跳ねのけるほど私が明るく面白い子としてふるまえればよかったんだけど、あいにくとそんなに器用じゃない。悪いことにはお父さんは1980年代以来の筋金入りのゲーマーで、家にいて時間をつぶすゲームには事欠かなかった。
人生って、なんでこう落とし穴が多いんだろうか!
「誰か……誰かいないの?」
すぐに返事があった。
「お呼びですか、アマテラス様」
これは高天原でも一番の力持ち、タヂカラオさんの声みたいね。
「私がいないのになんでみんなあんなに楽しそうなの」
「あー……」
タヂカラオさんが申し訳なさそうな声を出した。
「済みません。アマテラス様のこと、みんな多分すっかり忘れてますわ。最初はアマテラス様を引っ張り出すために騒いでたんですけど、だんだん本気で楽しくなってきたみたいで」
「なによそれ」
「いい加減に、つまんない意地張るのよしましょうよ。ほら、ここに鏡があります。今のお顔を自分で見てみなさるといい。目も当てられないような――」
「言ってなさいよ! ざっけんなゴルァー!」
引き戸を思いっきり引っ張って開けた。物置の中から光があふれる。その光圧が夜の闇の中にわだかまった諸々の穢れを吹き払った。
* * * * * * *
「アマテラス様が出てこられたぞ! 今だ!」
「第一反射鏡、ポイントA-1からA-3へ移動! 第三誘導鏡群を天の安河原へ移動させろ!」
「光束の先端、悪神団塊に到達します。接触まで三秒!」
磨き上げられた八咫鏡八千枚が立体的に配置、操作され、物置からあふれたアマテラスの神力、すなわち太陽光線を反射誘導して目標へと投射する。
その余波は物置の暗がりの中でアマテラス自身に蓄積されていた穢れまでをも浄化し、さらに純度を高めた光を呼び込んだ。
「三……二……一……」
ヒィエエエエエエアアアアアアアギャアアアアアアアアア
天地の間に常世よりあふれた穢れしものたちの断末魔が響いた。湿ったものはことごとくその湿りを失い、紙が燃えた後に残る灰のごとくもろく乾いた小片となって崩れ消えていく。
光に焼かれかき消される意識の中で、狭蠅が最後に見たのは、スサノオのはにかんだ赤い頬だった。
(スサノオ様の、ところへ……)
姉妹たちのまつわりつく集合意識のくびきは最早ない。狭蠅は自由を得た。永遠に。




