小林多喜二『蟹工船』
一
プロレタリア文学の金字塔とも言える『蟹工船』だが、昔、中村武羅夫という人物が『蟹工船』の欠陥を指摘した有名な話がある。
それは「組織悪が書かれてあるのではなく、個人悪が作品内で描かれている」ということである。
プロレタリア文学はマルクス主義から派生した文学であり、マルクス主義は経済構造、社会構造批判が主であるから個人悪を追求してしまった蟹工船は如何なものかという批判がある。
ここでいう個人悪というのは無論浅川という船の監督の横暴な態度である。そこで中村武羅夫は『蟹工船』が浅川の良心という問題を中心に考えれば、『蟹工船』にプロレタリア文学としてのロジックはないと考えたのであろう。
ここから何を考えるべきかと言えば、文学性、もしくは個人の倫理観と言ってもいいのかもしれないが、それと対称的に存在する社会性の問題であろう。
文学の中にはもちろん社会小説や啓蒙小説が存在する。だが、文学性を考えれば、(何を持って文学性とするかは各人の問題ではあるが)、心理描写が外せないものではないだろうか。
そこでよく見られえるパターンとして、主人公をマイノリティーとして、社会に潜む巨悪に立ち向かう構図である。この構成であれば、主人公の心理の揺れを描けるので、まずドラマが作ることができる。次に主人公が社会に潜む巨悪を分析できるために社会小説としての役割も果たすことができる。
この例を取って『蟹工船』を考えると、『蟹工船』は主人物が居ない三人称作品である。そうすると琴線に触れるようなドラマを作成することはまず難しい。次に三人称であるから作品が構造分析の性質を帯びる。そこで社会小説としての役割を一旦手に入れる。しかし、やはりドラマがないものだから面白くはない。
そこで浅川が現れる、彼は資本家という立場から小説の主役になり得る。悪党ではあるものの、彼の身振り手振りをこと細かく書くことで、読者は主人公という本来同調する役割は作品内にいないものの、悪党浅川の敵対心が主となって小説内に入り込むことが出来る。
私はこれが中村武羅夫の指摘が作られてしまった要因ではないだろうかと考える。
二
では、どうするべきであったか、どうすればこのような指摘から逃れることができたか、という考えをしなければならないだろう。が、プロレタリア文学を書こうとする人間でもないので、この結論を求めることは難しい。
なので話を少し変えたい。そもそも、の話になるが、昔読んだ対談集でこんな話があった。宮本顕治が言ったのか、青野季吉が言ったのか忘れてしまったが、「プロレタリア文学では文学性よりも社会性を重視するべき」という話があった。つまり小説のドラマの問題を描くのではなく、資本家と労働者の対立を明確にし、一般市民に喚起し、啓蒙する力を重視しようという話だった。
プロレタリア文学については「この社会性を重視する」という視点は良く分からない上に難しいが、一般の小説を考えた時にもこう言った問いは非常に有用な言葉である。
つまり、二つの事象のどちらを優先すべきなのかという点である。一つは重要な性質ではあるものの一般の受けは良くない。もう一つはそれほど重要でもないが、それを混ぜた方が一般の受けが良い話。
私自身は前者を重視して読んだり書いたりしようとすることが多いのではあるものの、後者が大事なファクターであることが認めているつもりだ。
要はプライオリティーの問題なのだろう。どちらを優先すれば、より自身の得になるのだろうか、という思考である。つまり、そのプライオリティーに準じたときに批判を受けてしまった、欠陥を作ってしまったという問題に解釈してしまえば、『蟹工船』が受けたときの指摘というのは単なる揚げ足取りに他ならない。
作者は個人の欲する所を満たし、その供給はある一定の需要者達の心を満たしたのであれば、それは大した問題ではないのだろう。これが重要なところさえ抑えていれば別に良いだろうと思う私の言である。
ただ、そういった思考を持つ私としては反対に一般に迎合しようとするものに対して非常に危惧するところがある。それは迎合するあまりに、別のものに取って代われる可能性があることである。
『蟹工船』のようにプロレタリアを愛するものに作ったという理由ではなく、単に迎合しようと、万人に愛されようとして作ったものであれば、それはメッセージ性が本当にあるのかという疑惑がついてくる。また迎合を使用とした結果、安易なものが出来上がったとき、それの上位互換に簡単に取って代わられてしまうことにある。
疑惑は尽きない。
もうちょっと話を膨らましてもよかったかなと思うが、資料を大して持ってないので、このような結果に。
単なる個人主義者の自分にとってはこんなことしか書けないのが…
いやー残念。
太宰は中々読み進められていませんので、いつになることやら。