閑話休題末尾
一
前回は「嗜好」ということを結論で書いてしまったために大分未来的な、とでも言えばいいのか、そんな話で終えてしまった。ではそれに対になるものを模索すれば、どうなるか。話をまた前の問題に引き伸ばしては問題がある。よって概念的なものではなく感情的なものでなくてはならない。つまりここでやっと「心理」に到達する。
この「心理」という「嗜好」の対は番いである。
どうも「嗜好」に毒されると、占有的なものになる。排他的になる。このことは非常に端的であるけれども『痴人の愛』で書いた。
また個人が個別である以上、誰かに強制して愛してもらうことはできない。このことも非常に端的であるけれども『私の個人主義』で書いた。
そのため「嗜好」とは「この指止まれ」の状況になる。来るもの拒まず、去るもの追わずと、こうなってしまう傾向になる。
だからこそ「心理」が必要になる。人間が人間である以上「心理」によって目的が定まり、行動がある。この自律のプログラムが「嗜好」という多元的な土台を一元化するものではなかろうか。推理、探偵小説ではこの役割を話の筋が補完するのだろうが。
また「嗜好」が同好の士の寄り合いである以上、その「心理」とは限りなく必然なのだ。好きである理由なぞ、誰が聞くのかということになりがちである。その意味でも「心理」が必要不可欠になる。必然を必然だからと言っては論理の否定になる。その過程に潜むものこそ切り取らなければ何を切り取るというのか。
逆に必然を必然として受け入れてしまうと、そこには思考が何一つ生まれない単なる娯楽に陥る。それはそれでよいのだが、真剣味が欠けるといわざるを得ない。
二
この閑話休題、長々と書いた。長々と書いたが論理の否定とは、と書いてて考えた。否定の正攻法は簡単である。
ここがおかしい、意味が分からない、文脈がおかしい、論理の破綻等々。簡単ではあるが、これは難しい。論理が啓蒙的で、情熱的で、意味がある、そんな論理なのか。大げさに書いたがつまり、論理さえも嗜好ではないのか、という疑念、ここに尽きる。論理が論理として認められるのか、その疑念に苛まれる。
このような思想的な問題における懐疑主義はそもそも破綻しているのだから、打破は簡単であるが、その勇気が持てるのか。
第二に邪道として論理が嘘であるとする場合。論理とは少なからず正によって成り立っている。
それを虚と引っくり返すのは一番手っ取り早い否定であり、技術である。なぜ技術と言えるのか。それは嘘が心理の駆け引きであるからに違いない。
私が嘘を言えば相手は嘘と信じるのか。嘘と信じた上で嘘を上塗りするのか。嘘と知らない上で話を通して、嘘の上で自分が踊っているのか。
ということでそろそろ技術の領域に触れて行きたい。だけれども、改めて思うのは論理ありきの技術なのだから、ということだ。技術とは心理のベクトルの変化の付け方なのだろう。
勢いで書いた。
というわけで一つ区切りがついただろう。
次回は本題に戻って太宰でもやるか・・・な?
ちょっと書き方変えますか。