閑話休題 近代自然主義小説
一.
最近は、田山花袋の『蒲団』を読んだ。全く面白くなかった。何故面白くないのか、という問題は後々考えるとして、花袋の『蒲団』のような自然主義小説を読むことは大変意義あることで、これは現代小説を考える上で重要な要素でもあると思う。
私の主観で言えば、自然主義小説の重要なところはリアリズムの追求と自我の開放、この二つだろうと思う。リアリズムの追求についてはそれほど言うところはないとないと思うが、自我の開放、というものは説明が幾分か必要だと思う。
我々は常に何かしらの閉塞感というものを感じざるを得ない。それは上下関係かもしれない、自分の行動の限界範囲に感じるかもしれない、まぁ様々である。その点、特に当時においては古臭い社会秩序が新世代においての閉塞感の象徴であった。
例えば恋愛。私はあの人が好きであるけれども、身分の差というものがある、という問題がある。また、親が決めた許婚と、自由恋愛では許婚が優先されること。それを反故にしようとすれば、駆け落ちをするというのがよくある話である。
つまり、この社会秩序を反故にしようとする行為、これが自我の開放であった。
そこで、こういった恋愛の話をリアリズムと自我の開放を追求した自然主義小説で描こうとすれば、恋愛なら恋愛の問題が起こる、それを反故にしようとする。そこで失敗、成功様々起こるが、それで大体話しとしては完結する。
これでは面白いわけがない。分析的な小説としては勿論秀でてはいるが、作品と読者とは本来個別の存在である。つまり、この二つを結びつけるところとは、世間の反故にしようとする自我の開放の連帯感であり、自我の開放を終えた後の連帯感が全く無い。ここで我々現代人が自然主義文学を読んだ時に面白くない、と考える一因がある。
我々は自然主義作家が言うところの自我の開放を終えた人間である。別に駆け落ちをして社会的に隔離された人間であろうとも、そんな仕置きなど現代人にとっては屁のようなものである。よって自然主義小説自体の構成に連帯感を感じないし、その自然主義小説が描いた自我の開放、その先を待っている人種なのではなかろうか。
二.
そこで、現代小説を考える。自然主義小説と現代小説を比較して語る上で、自然主義小説の持つ一つ優位な点は、俗受けするような小説を書いてどうするんだ、という意識がある点であり、その背景には思想的に自然主義作家たちの方が成熟していたことがある。言い換えれば自然主義作家たちがある種の啓蒙小説を書こうとしていたことが、俗受けを批判できる理由の一つである。
勿論、先に言った論理、現代人は既に自然主義作家たちが描こうとした自我の開放を終えた人間であるから、論点はずれている。自然主義作家たちが描こうとしたものは既に用済みなのであるのだから。それでも、この自然主義作家たちが述べようとした部分を軽く見てはいけないという気がするのは、何故だろうか。
それは自然主義作家たちが言ったことを内包していないような気が、現代人にはするからだろう。過去に出た作品であるとか思想であるとか、そこを継承せずに物事を述べるのは大変つまらないことだ。
勿論、自然主義小説には弱点があった。だからこそ弱点を補完したような次なるものを考えなければならないと思う。
前回の谷崎でも思ったけれども、途中で燃料切れて尻切れとんぼになっちゃうね。
仕方ないね。
多分閑話休題って意味間違ってるけど別にいいや。
あと簡単に『蒲団』の感想を言えば、「もののあはれ」って感じでした。
これも多分意味違うけど別にいいや。