谷崎潤一郎『痴女の愛』
一
谷崎潤一郎を述べる時、谷崎の独特の美的感覚であるとか、白人優位の視点であるとか、美的マゾヒズムであるとか、そういったものはどうでもよいように思われる。
谷崎の特徴、といえばそういったところに現れるから、そういった評価をするのは順当なところだろうが、そこに固執してしまっては美的なフェティストたちだけが所有する読み物になってしまう。
最近マイケル・サンデルの本を読んだ。NHKで放送が行われていたものを書籍化されたものだ。それを見たせいか、『痴人の愛』を見たときの印象とは一つであった。それはジョン・スチュアート・ミルの回の話である。 私の読解を通せば、ミルの回には大体こうある。
「我々は価値を判断する必要があるものの、その価値とはいかように判断されるべきか。一つ言えることは愚者の考える価値とは一見して分かる程度の価値であり、君子の考える価値とは含蓄のある価値である。そしてその価値の総量とは君子の考える価値の方が大きい」
ただここにもう一つ考える部分がある。愚者の考える価値とは甘美であるが、君子の考える価値とは一概に甘美なものとは言えない。
何故かと言えば、君子の考える価値とは理性に基づくが、愚者の考える価値とは本性に基づくものであるからだろう。
例えればアイスクリームは美味いが、栄養素として考えた時にはそれが決して褒められる食べ物でないことは誰もが知っている。だが、その甘さに引かれて誰もが口にしたがる。このようなことを文学的に書こうとすれば『痴女の愛』の一編でも書けそうなものだ。
この問題とは非常に普遍的なものだ。我々は常に理性と本性の間を行きかっている。だからこそ理性に偏りすぎた美徳というものに違和感を感じるし、本性に引き摺られすぎた人間を簡単に肯定はできない。
我々は理性と本性のどちらに身を委ねるべきなのだろうか。
二
より、作品的な問題を考えた場合、『痴女の愛』の一番のポイントはナオミの心理描写があまりにないために、ナオミがどのような気持ちであのようなことをしているのだろうか、というぼんやりとした疑問が生まれるのではないだろうか。
より鮮明にすればナオミの持っている愛情とはどのようなものなのだろうか、ということに繋がってくるのではないだろうか?
ナオミの心理描写があまりにない、という点を掘り下げれば、譲治の一方的な心理分析に重きを置いている、といわざるを得ない。
そこからもわかるように譲治の客観性、または傲慢さというものが所々に現れていることが注目される。
話の発端は美しい少女ナオミを自分の妻にしたい、という物欲だ。物を言い、時には抵抗し、権利を語る、そういった人間を物欲で自分の思い通りにしようというおこがましさが、そもそも譲治の計画の破綻を意味している。
彼女を一人の人間とすれば、譲治は考慮すべきところは多様にあった。彼女を様々な方面で教育する必要があった。しかし譲治は世間と隔たりを作った。ナオミを半ば物と認識しているからこそ、彼女を家というおもちゃ箱の中に放り込んでもよいと思っているように見える。無論、彼女も箱の中に放り込まれてもよいと同意したが、譲治に理性があれば、ナオミを箱に入れていいのか、どうなのかという二者を択一することは難しいわけもない。
そのため、スタート地点から、譲治とナオミを考えれば、彼らは繋がっているようで繋がっていない個々が独立した、まさに文中にあるように「友達」であった。
譲治が持つ愛とは美しいものを手元に置きたい、という物欲であり、ナオミの持つ愛とはただの無邪気さからくる愛らしさだろう。
そこには打算しかない。
あまりこの作品は面白くは無い。
また、この後も色々書いたが、話がずれそうなので消した。
端的に言えば一つに義務の問題だった。
我々はこうすべきだという義務はどこから発生するのだろうか、ということだった。
二つに話として、最後に譲治が堕落してしまうのは小説だから、こうなってしまうのか、それとも人間はそもそも堕落してしまうのか、という問題だ。
2つ目の問題が重要で私たちは理性と本性どちらに身を委ねるべきなのか、という本文がここに引っかかってくる。
それは小説論、としても重要だろうし、人間としても悩まなければならない。