夏目漱石『私の個人主義』
私はそれほど多くの作家を知らないが、漱石は近代日本、また現代における思想の礎を作った人物ではなかろうか、このように考える。
一概には言い切れないかも知れない。しかし私たちが生きている現代、その思想の根底にあるのは、個人主義、自由主義ではなかろうか。
ではもし誰かに私たちが個人主義、自由主義とはなんぞや、そのような問いをかけられた時にどう答えるべきであろうか。この質問の答えとは、辞書的な意味でもあり、人生論でもあり、コミュニケーション論でもあるだろう。
そして、私が読んだ『私の個人主義』、これにはその触りの全てが載っているように思う。
話は変わり、『私の個人主義』の感想として簡単なことから書きたい。法的な問題を除いた上で考えてもらいたい。もしも、私、そして家族、近所住民、その全てが個人の自由というものを尊重すれば、どうなるだろうか。限りなく極論の話である。これは二パターンの結果が見える。
一つは誰もが自分勝手に物事を行う。隣の迷惑など顧みず、自分の欲望の限りを尽くし様々な悪事を行う。これを積極的行動と言い表すなら、積極的行動は無法地帯を生む。
例えば、朝起きて、飯を食いたいが、台所には飯も汁も何もない。私は憤慨する。親に「飯はどうした」と言う。親は「飯を作る気分でないから作らなかった」と答える。私が「そんなことは知らぬ。飯を作れ」と言う。ここで一波乱起きる。喧嘩になる。その騒音を聞いて隣人が腹が立って怒り出し、私の家に怒鳴り込む。更に波乱が大きくなる。事によっては殺してしまうかも知れない。
二つ目は誰しもが相手の自由を尊重して、雁字搦めになって、身動き一つ取れなくなる。これを消極的行動と言い表すなら、消極的行動は社会として成立しえなくなる。
例えば私は飯を作ってほしいが、飯を作るかどうかは親の気分次第であるとすれば、私は親に問いかけることもない。そのままその希望も風化され、希釈され、行動することもままならなくなる。
これらの現象は漱石の小説では様々な形で書かれてある。一つ有名な『こころ』を取り上げて考えてみよう。
先生、という人物がいる。先生にはKという友人がいた。そして先生には現在妻がいる。
この妻が誰のものでもない随分昔のこと、Kは実はこの女のことを愛していた。先生もこのことを知っていた。しかし、先生もこの女を愛していた。
ただこの三角関係で留意していなければならないことが一つあり、Kは先生に早くからこの女のことが好きだということを伝えている。そこで、先生はKを出し抜いてこの女を妻にする。そしてそのことに衝撃を受けたKは自殺する。
様々端を折ったが、大体こうなる。先ほどの積極的行動、消極的行動になぞらえれば、先生とは積極的行動者で、Kは消極的行動者とも言えるであろう。
人間の精神をある角度から分析してみるとこのようになる。我々は誰かを愛することは自由であるが、掛け値なしに愛することが認められるということはない。その愛が必ず響いて自分に帰ってくるという保証もない。そして、大抵の順序とは早いもの勝ちで決まる。
だからといって自然現象による恋愛だけを認めるのであれば、それもまたおかしなものだ。
例えばよくある話として、幼馴染だから自然と互いの恋愛感情が育まれ、結果落ち着くところに落ち着く、このような自然現象の恋愛だけを認めるのだろうか。
そうではない、自然現象による恋愛だけを認める、という限定的立場を取れば、それこそが自由という言葉を損ねる。そして、理解すべきは自由という言葉を起点に歩いて行くと、自由という言葉を歪めると言うパラドックスが存在していることである。
つまり、自由という言葉だけでは自由についての正答を引き出せないことに気づかなければならない。何を自由に加味して話を引き出すのか、私はここに広範的な意味での現代思想の始まりがあるんじゃないかとも考えるわけだ。
例えが悪い。仕方なし。
文章を書く練習だ。