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婚約破棄されました。引き継ぎ資料は、ございません ~公爵家の財務を一人で回していた令嬢の、ささやかな仕返し~

作者: 中身無男
掲載日:2026/06/18

「マリー・ウェスタル。お前との婚約は、解消させてもらう」


 公爵家の広間で、次期当主アラリック様は、わたしを見もせずにそう言った。手元のワイングラスを、ゆらゆらと揺らしながら。


「理由を、お聞きしても?」


「理由? 見ればわかるだろう。お前のような、金勘定しか能のない陰気な女を、隣に置いておきたくないのだ。ソフィア嬢を見ろ。あれが、公爵夫人にふさわしい華というものだ」


 広間の隅で、ソフィア嬢が扇の陰でくすりと笑ったのが見えた。今夜のために誂えたのだろう、薔薇色のドレスがよく似合っている。


 わたしは、自分でも意外なほど静かな気持ちで、それを聞いていた。


 悲しくはなかった。怒りも、湧いてこない。ただ――ああ、そう、と思っただけだ。


 四年だった。


 ウェスタル子爵家の三女であるわたしが、政略でこの家へ送られてきてから、四年。社交が苦手で、見栄えもしないわたしに回ってきたのは、誰もやりたがらない仕事だった。


 埃をかぶった帳簿の山。合わない収支。滞った取引先への支払い。


「お前がやっておけ」


 そう押し付けられて、わたしは黙ってそれをやった。


 利息の高い借金を組み替え、無駄な宴の費用を削り、塩の取引先を新しく開拓し、不作の年には備蓄を回して、領民が飢えないようにした。


 公爵領、二十万人。その暮らしは、いつの間にか、わたしの帳簿の上に乗っていた。


 けれど、その四年間で、誰か一人にでも「ありがとう」と言われたことが、あっただろうか。


 ――なかった。


 手柄はいつも、当主家のものだった。「公爵家の財政は安泰だ」と社交界で胸を張るのはアラリック様で、その数字を作っていたのがわたしだと知る者は、誰もいない。


 わたしは、深く頭を下げた。


「――承知いたしました。謹んで、お受けいたします」


 顔を上げる。アラリック様は、もうこちらを見てもいなかった。ソフィア嬢と、何か楽しげに話している。


 いいのです、と思った。


 ただ、一つだけ。


 心の中で、わたしは静かに付け加えた。


 ――引き継ぎは、いたしませんね。


 だって、誰も聞いてこなかったから。この四年、わたしが何をしていたのか。何を抱えているのか。一度も。


 来月の塩の支払いが、どの商会の、何日が期日なのか。北の鉱山との契約が、なぜあの価格で済んでいるのか。飢饉に備えた備蓄が、どこの倉に、いくつ眠っているのか。


 それを知っているのは、この広間で、わたしだけ。


 わたしは一礼して、踵を返した。


 帳簿は、嘘をつかない。


 ――でも、わたしがいなければ、誰にも読めない。



          *



 その夜のうちに、わたしは荷物をまとめた。


 持ち物は、少なかった。嫁入り道具のドレスはほとんど袖を通さないまま箱に眠っていたし、宝石の類にも興味がなかった。鞄に詰めたのは、数着の着替えと、母から贈られた古い算盤、それから――自分のために書き写しておいた、いくつかの覚え書きだけ。


 公爵家の帳簿そのものは、置いていく。あれは公爵家のものだ。持ち出す気はない。


 ただ、あの帳簿を「読み解く鍵」は、すべてわたしの頭の中にある。それは、誰にも渡しようがない。


 翌朝、わたしは誰にも見送られず、屋敷の裏口から出た。


 門のところで、古株の老使用人のトマスさんだけが、箒を持ったまま立っていた。


「マリー様」


 彼は、何か言いたげに口を開いて、けれど、結局こう言っただけだった。


「……どうか、お体を、大切に」


「ありがとう、トマス。あなたには、よくしてもらいました」


 わたしは微笑んで、頭を下げた。この家で、最後に「ありがとう」を言えた相手が彼でよかった、と思った。


 馬車に乗り込む。窓の外を、見慣れた公爵領の景色が流れていく。


 わたしが整えた街道。わたしが補助金を出して建て直させた、川向こうの水車。わたしが備蓄を回して、飢えから守った、あの年の村。


 さようなら、と心の中でつぶやいた。


 あなたたちのことは、好きでした。本当に。


 ただ――わたしを必要としてくれた人は、ここには、いなかったから。



          *



 馬車に揺られて三日。


 わたしが流れ着いたのは、北の辺境――ヴェルン伯爵領だった。


 あてがあったわけではない。ただ、公爵領からできるだけ遠く、そして、誰もわたしを知らない土地へ行きたかった。御者に「北へ」と告げ続けたら、ここに着いた。それだけのことだ。


 ヴェルンは、貧しい土地だった。


 馬車を降りて最初に目に入ったのは、ひび割れた石畳と、修繕されないまま放置された城壁。市場には品物が少なく、人々の表情には、どこか疲れが滲んでいた。


(……財政が、傾いている)


 数字を見るまでもなかった。街の様子は、帳簿よりも雄弁にその土地の懐具合を語る。長く財務を見てきた者には、わかってしまう。


 宿を取り、その日の夕食に頼んだ硬いパンをかじっていると、宿の主人が、ため息まじりに誰にともなくこぼした。


「ああ、領主様も気の毒なこった。武勇じゃ国一番のお方なのに、お城の金繰りがどうにもならんとかで、毎晩遅くまで明かりが灯っとる……」


 わたしは、パンを噛む手を止めた。


「……金繰り、ですか」


「そうさ。先代が遺した借金やら、税の取り立ての帳尻やらで、もう何が何やら。領主様は剣を握らせりゃ右に出る者はいねえが、こと帳簿となると、てんでだめでね」


 帳簿。


 その言葉を聞いた瞬間、わたしの胸の奥で、何かが小さく、ことりと音を立てた。


 いけない、と思った。もう、誰かのために数字を整える日々は、終わりにしたはずだった。


 わたしは、わたしのために生きると決めたのだ。


 ――けれど。


 翌朝、わたしの足は、なぜかヴェルン城の門へと向かっていた。



          *



「財務の、手伝いを?」


 ヴェルン伯爵リオハルト様は、訝しげにわたしを見下ろした。


 噂に違わぬ偉丈夫だった。背が高く、肩幅も広く、無骨な顔立ちには、人を寄せつけない険しさがある。なるほど「冷酷」と恐れられるのもわかる、と思った。


 けれど、その目の下には、濃い隈が刻まれていた。眠れていないのだ。長く、ずっと。


「はい。わたしは、長く貴族家の財務を扱ってまいりました。少しは、お役に立てるかと」


「……女が、財務を?」


「ええ。数字に、男も女もございませんので」


 リオハルト様は、しばらく黙ってわたしを見ていた。


 それから、何を思ったのか、机の上に山と積まれた帳簿の一冊を、無造作にわたしへ放ってよこした。


「では、これを読んでみろ。先代の代から、誰も全容を掴めていない代物だ」


 試すような口ぶりだった。どうせ読めまい、と。


 わたしは、その一冊を受け取り、椅子に腰かけ、頁を開いた。


 ――そして、すぐにわかった。


 ああ、これは、ひどい。けれど、直せる。


 わたしは、燭台を引き寄せ、算盤を取り出した。


 夜が、長くなりそうだった。けれど、不思議と、苦ではなかった。



          *



 朝になって。


 わたしは、整理し終えた帳簿を、リオハルト様の机に置いた。


 一晩で、すべてを直したわけではない。それは無理だ。けれど、「どこが、どうおかしいのか」――その全体像だけは、一枚の紙にまとめた。


「ヴェルン領の財政が苦しい原因は、三つございます」


 わたしは、紙を指でなぞりながら、淡々と説明した。


「一つ。先代が領主様だった頃に借りた資金の利息が、今の相場よりずっと高いままです。これは、組み替えれば年に三百ゴルド浮きます。


 二つ。麦の取引で、仲介の商会に、相場よりも二割高い手数料を払い続けています。直接、産地と取引すれば、この出費は消えます。


 三つ。徴税の記録に、二重計上が複数。これは誰かの不正か、あるいは単なる帳簿の付け間違いですが、いずれにせよ、領民から取りすぎている分があります。これを正せば、税を上げずとも、信頼が戻ります」


 言い終えて、顔を上げる。


 リオハルト様は――目を見開いて、わたしを見ていた。


「君は……これを、一晩で?」


「ええ」


「……一人で?」


「はい。数字は、嘘をつきませんから」


 彼は、しばらく言葉を失っていた。


 それから、ゆっくりと、絞り出すように、こう言った。


「すまない。先ほどは、女がと――そう侮るようなことを言った。撤回する」


 わたしは、思わず、瞬きをした。


 謝られた。


 四年間、誰にも感謝されず、当然のように手柄を奪われ続けたわたしが――生まれて初めて、自分の仕事に対して、頭を下げられた。


 胸の奥が、じんわりと熱くなった。


「……いいえ」


 声が、少し震えた。


「そんなふうに、言っていただけたのは、初めてです」


 リオハルト様は、ばつが悪そうに視線を逸らし、それから、ぽつりと言った。


「ヴェルンには、君のような人が、必要だ」


 必要だ。


 その一言が、四年間ずっと冷えていたわたしの心に、まっすぐ、染みていった。



          *



 その頃。


 わたしが去った公爵家では、静かに、けれど確実に、歯車が狂い始めていた。


「は? 塩の支払い? そんなもの、聞いていないぞ」


 アラリック様は、青ざめた顔の家令を前に、苛立たしげに言った。


「で、ですが若様、塩の商会から、期日を過ぎた支払いの督促が……それも、複数の商会から……」


「だから、そんな契約は知らんと言っている! マリーが――」


 言いかけて、アラリック様は、口をつぐんだ。


 マリー。


 その名を、彼はもう、追い出してしまっていた。


「……マリーは、どこだ」


「先日、若様が婚約を破棄なさって……翌朝には、お発ちになりました」


「引き継ぎは!? あの女は、引き継ぎ資料を残していかなかったのか!?」


 家令は、力なく首を横に振った。


「それが……何も。書斎を検めましたが、帳簿はございます。ですが、その帳簿の見方が……誰にも、わからないのです。符丁のような書き込みばかりで……」


 アラリック様は、よろめいて、椅子に手をついた。


 塩の支払いの期日。北の鉱山との契約。飢饉に備えた備蓄の在り処。


 それらすべてを知っていたのは、この世でただ一人。


 彼が「金勘定しか能のない、陰気な女」と切り捨てた、あの令嬢だけだったのだ。


 そしてソフィア嬢は――華やかに着飾ることはできても、帳簿の一頁すら、読めはしなかった。



          *



 半年が、過ぎた。


 ヴェルン領は、見違えるように変わっていた。


 わたしが利息を組み替え、無駄な手数料を削り、徴税を正したことで、城の財政には、ようやく余裕が戻り始めた。城壁は修繕され、市場には品物が並び、人々の顔には、少しずつ、笑顔が戻っていた。


 リオハルト様は、相変わらず無骨で、口下手だった。


 けれど、彼は毎朝、わたしの淹れた茶を「うまい」と言って飲み、わたしが整えた帳簿を見て、不器用に、けれど必ず「ありがとう」と言った。


 その「ありがとう」を聞くたびに、わたしは、ここへ来てよかった、と思うのだった。


 そんなある日。


 城に、一人の客が訪ねてきた。


 みすぼらしい身なりの、けれど、どこか見覚えのある男――アラリック様だった。


「マリー! ここにいたのか!」


 彼は、わたしを見つけるなり、すがるように駆け寄ってきた。かつての傲慢さは、見る影もなかった。


「頼む、戻ってきてくれ! 公爵家は、もう滅茶苦茶なんだ! 塩の支払いは焦げ付き、商会には総スカンを食らい、領民は税の取りすぎに怒って暴動寸前で……君がいないと、何もわからないんだ!」


 わたしは、彼を、静かに見つめた。


 昔だったら、心が痛んだかもしれない。けれど、今は、不思議なほど凪いでいた。


「アラリック様」


 わたしは、一冊の帳簿を手に取った。それは、わたしが公爵家で付けていた帳簿の、写しだった。念のため、と思って書き留めておいたもの。


「公爵家の財政が傾いた原因を、数字で、ご説明いたしましょうか」


 わたしは、頁を開いた。


「あなたが社交界で散財した宴の費用が、年に四千ゴルド。わたしは毎年、それを別の費目から捻出して、帳尻を合わせておりました。


 あなたが『安泰だ』と胸を張っていた財政は、わたしが綱渡りで支えていたものです。綱から手を離せば、落ちる。それだけのことでした。


 そして、その綱を握っていた者を、あなたは自ら、手放した」


 アラリック様は、言葉もなく、立ち尽くしていた。


「引き継ぎは、いたしませんと、申し上げました」


 わたしは、帳簿を、そっと閉じた。


「あなたは、一度も、聞いてくださらなかった。わたしが何をしているのか。わたしが、何を抱えているのか。四年間、ただの一度も」


 パタン、と乾いた音が、広間に響いた。


「だから、これは――仕返しですらないのです。ただ、あなたが、見ようとしなかったものの、報いです」


 その時だった。


 わたしの背後で、低い声がした。


「客人は、お帰りのようだ」


 リオハルト様だった。いつの間にか、広間に立っていた。


 彼は、わたしの隣に進み出ると、アラリック様を、まっすぐに見据えた。


「マリー殿は、ヴェルンになくてはならぬ人だ。彼女を『金勘定しか能のない女』と呼んだ者に、返す彼女は、いない」


 そして、彼は――わたしの肩を、そっと、けれど確かに、抱き寄せた。


「彼女の価値がわからぬ家になど、二度と渡さん」


 わたしは、驚いて、彼を見上げた。


 いつも険しいその横顔が、今は、はっきりと、わたしのために怒っていた。


 アラリック様は、何も言い返せず、よろめくように、城を去っていった。



          *



「……あの」


 二人きりになって、わたしは、おずおずと口を開いた。


「先ほどの、肩を、その……」


 リオハルト様は、みるみる耳を赤くして、目を逸らした。


「……すまない。つい、勝手に体が動いた」


 無骨な彼が、これほど狼狽するのを、初めて見た。


「いや、その……前から、思っていた。君を、ただの財務官として、ここに置いておきたいわけではない、と」


 彼は、ぐっと拳を握り、意を決したように、わたしに向き直った。


「マリー殿。私は、世辞も言えなければ、気の利いたこともできない、無骨な男だ。だが――君を、生涯、大切にすると誓える。君の仕事を、君そのものを、正しく敬う。だから……」


 言葉に詰まって、彼は、絞り出すように言った。


「どうか、ずっと、私の隣にいてくれないか」


 わたしは。


 四年間、誰にも必要とされず、感謝もされず、ただ黙々と数字を整え続けてきたわたしは。


 気づけば、頬を、涙が伝っていた。


「……はい」


 声が、震えた。


「喜んで。ふつつか者ですが、どうぞ、よろしくお願いいたします」


 帳簿は、嘘をつかない。


 そして――わたしの価値を、初めて正しく数えてくれた人が、今、目の前にいる。


 わたしは、生まれて初めて、自分のために、笑った。




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