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タニャトス

作者: 橘樒
掲載日:2026/02/24

本作には自殺描写が含まれます。ご注意ください。

 夜も更けた頃スーツ姿の一人の男が自宅のベランダに立っていた。つまらなさそうに煙草をふかしている。目元に濃いクマをたたえ、虚ろに夜空を眺めていた。夜半に浮かぶその姿はまるで幽鬼のようであった。


「にゃおん」


 男が声の方に振り向くと黒猫が手すりの淵に立っていた。男とは対照的に煌々と目が輝いている黒猫だった。しばらくの間沈黙がその場を包んだ。


「おい、人間」


 男は猫を見やる。


「何か返事をしたらどうなんだ」


 猫の方から発せられたその声は呆れた様子をしながらもやや楽しそうであった。


「お前が喋っているのか」


「そうだ、喋っては悪いか」


 両者の間に再び沈黙が流れる。


「構わん」


男は大きく煙を吐いた。


猫は言う。


「なんだ、驚かんのか。大抵の人間は猫が喋れば驚くのだがなあ」


 猫の声は低くも聞き取りやすく、不思議と聞いていて落ち着くような声色をしていた。


「お前は俺が喋っても驚かなかったが、喋ることを人間の特権だと思っている愚者は多いんだぜ」


 猫は偉そうに語った。男は随分年を食った古風な喋り方だと思った。


「驚いたよ……一応」


「驚いたか、ならばもう少し驚いて見せろ、黙っているだけでは何も伝わらんよ」


 猫はやや笑ってそう言った。悪戯をしてなお悪びれない好々爺のような仕草であった。男は自分の正気を疑っていた。猫が喋っている——これは現実なのか、それとも幻覚か……。そこへ猫が、なおも言葉を続けた。


「人間は言葉を自分たちが作り出したとでも思っているのだろうが、そんなことはねえ。俺たち猫も、犬畜生も、烏どもも、そこらを這いずる蟲ですら言葉を持っている、各々が各々の種族と会話するためにな。ただそれが人間には知覚できんだけのことよ、それを特権だと思い込んでいる人間は全く愚かで笑い物だぜ?お前たち人間は自分たちを優れていると思い込む割には世界のことを全く知らないし、その可能性も信じない。頭の上で鳩に馬鹿にされていることにも気づかないし、道行く蟻んこに怒鳴られていることにも気付かない。それでいて自分たちをえらく高く見積もっているんだから滑稽だよ、こういうのを人間では『井の中の蛙大海を知らず』っていうんだろ?蛙の方が幾何も謙虚で大海を知っているのにな」


 流暢に説法を説く猫に対し、よく喋る猫だなと男は思った。この時、もはや男の思考は現実か非現実かという問題をなおざりにしていた。そして考え続けた末に男の思考は危険な領域へと突入した。およそ現実ではありえない喋る猫と会話をしてみようと思い立ったのである。


「その通りだな、人間は何も知らないし、愚かだ。言葉があるのに人間同士ですら意思疎通ができない」


 男は胸中を正直に話した。話し相手は猫であるが相手が人間のときよりもよほど素直に思考を言葉にした。


「だろう?だが人間の中にもお前のように他の生き物が喋っても驚かないやつもいれば、なんなら喋ることを知っている奴もいるんだぜ」


 猫は嬉しそうに声を上ずらせて言った。


「夏目漱石とかか?」


「またその名前か、この前喋った人間もその名を口にしたな。漱石が、珍野苦沙弥がどうだこうだってな。随分有名な御仁らしい。だがありゃあいい人間だろうな。猫の話を聞いたんだろ?今のお前のように。そんで長生きしたらしい。よっぽど猫に懐かれるんだろうな。猫にとってもそんな人間に飼われるなら幸せだろうぜ。だが俺はその猫は嫌いだな。人間に喋りかけておいて見逃してんだからよ。いい人間に絆されるのも分からなくはないがそれで迷惑被るのはお前じゃなくて別の猫だからな。そいつはきっと甘ちゃんだったんだろうぜ。思慮浅く人間を知らない馬鹿な餓鬼の猫だったんだろう。人間がどういう生き物か知っていれば、人間に猫が人間の言葉を理解し喋るということを教えることがどれだけ禁忌かわかるからな」


 猫は訓戒を説くように喋る。様子がころころ変わりながら喋るのでまるで演劇のようだ。


「人間は欲深い、そして醜悪で非道だ。大昔に喋ることがばれて捕まったやつがいてな、そいつは全身に火をつけられて焼け死んだよ。火をつけておきながら化け猫だなんだって詰られてな、妖怪だ物の怪だって疎まれてな、苦しみながら、叫びながら死んでいったよ。猫の間じゃあ有名な話なんだがな。その話を知ってれば件の餓鬼猫もそんな馬鹿な真似しねえだろうから知らなかったんだろうな。まあ昔の話だから知らん若い猫がいても仕方ないと言えば仕方ねえがな」


 今度は過去を懐かしむように話す。まるで噺家のような熱の入った喋りである。


「なあ……」


「ん?」


「ならなんで俺に喋りかけてきたんだよ」

 

 男は尋ねた。


「ああ……。まあ気にすることはねえさ。お前みたいなやつは明日になりゃあ夢か幻かと思ってこんなこと誰かに話はしないだろ?そもそも今の世の中は妖怪だ物の怪だを信じる人間は少ない。猫が喋ったと言えば冗談だろなんて笑われるのがオチだ。そもそも俺はお前をしばらく見ていたんだぜ。毎夜毎夜つまんなそうにここで煙草ふかしてるお前をな。俺も最近退屈してたんで、気が向いた静かな日にでもお前に話しかけてやろうと前々から思っていたんだよ」


 いまいち要領を得ない答えに男は釈然としなかった。だが長ったらしい猫の話に首を突っ込むのも面倒に思い男は黙った。


「そもそも俺が話しかける人間は一定の条件を満たす人間だけなんだぜ?光栄に思えよ」


 猫は明後日の方を向きながら呟く。


「条件?」


「ここに食いつくのかよ。今までぼうっと話を聞いてただけのくせによ」


嫌味を言いながらも猫の声は獲物が掛かった喜びを隠せていなかった。


「いや、ならいい。知りたいとも思わない、どうせ明日には夢か幻になるんだろ」


「そう言うなよ、全部は言えないがこれも縁だしな。教えてやろう」


 猫は期待を込めた口調で語り始める。


「一つ目は人間とそれ以外との分別がついていることだ」

 

 一秒ほど猫が無言になる。返事を待つ猫に


「どういうことだ」

 

 男は聞く。


「つまり人間中心主義な人間は駄目ってことだ。さっきも言ったが愚かな人間は自分を一番だと思い込む。人間がこの世の何より優れていると思い込む。人間が全てでこの世の残りは人間でないものと区別したがる。そういう人間は不愉快だ。かつ危険だ。人間以外の生き物が言葉を持っている、そしてましてや人間の言葉を喋るってのはそういった愚かな人間たちの尊大な自尊心を傷付ける耐えがたい苦痛なんだろう。喋ると分かった途端俺たちを捕まえ、売り捌き、焼いて殺そうとする。そういう人間の前では俺たちは本性を現さないし喋りもしない。大人しく撫でられてやるということだ」


 猫の語りは聞き手の理解を無視している節があることに男は気付いた。自分でもわかるように言葉を口にする。


「本当は人間の言葉はどの動物もわかるってことか?」


「いや違う、その生き物同士で会話する言葉を持ってはいるがそれは人間の言葉じゃない。いわば鳥たちは鳥語、蟲達は蟲語、俺たちは猫語とでもいうべきもので会話するだけさ。人間の言葉を真似て喋るのは俺のように特異なごく少数だ。人間の生活圏で言葉を学んだ奴だけが人の言葉を話せるんだ。猫や烏なんかがそうだ、あとは人間に飼われている馬や牛なんかにも人の言葉がわかるやつがいる。別にそれが優れているわけでもないがな。生き物としてはそんなことよりもより多くの子を成した奴の方がよっぽど偉い」


 猫はいちいち偉そうに語る。独り身の男はやや肩身が狭い思いだった。


「そもそも人間の言葉を含め他種の言葉を理解する意味はほぼない……、どうせほかの仲間は喋れないんだからな。俺とてほかの猫と会話するときに人間の言葉は使わない。そもそも人間の言葉は無駄に複雑で理解するには通常の生き物の寿命ではおよそ足りないんだ。まあだからこうしてお前のような人間に人間の言葉で話しかけているんだよ」


 男は少し間をおいて頭の中で猫の言葉を嚙み砕く。話に尾鰭がついて分かりにくい。


「つまりは人間と他の生き物に線引きをしてリスペクトするってことでいいのか?」


「りすぺくと?」


 一音一音が細切れになった返事だった。老人に横文字を使った時のようなリアクションに男は言葉を正す。


「つまり、敬意ってことだ」


「ああ、そうだ。その通り。良く纏まっているじゃないか。人間は何でもすぐに纏めたがるよな。それが果たして良いことか悪いことか知らないが風情がないと思うぜ。人間の寿命は長いんだ、ゆっくり逝けばいいのにな。そんなに生き急ぐ必要がどこにあるのか。そういえばさっき人間同士ですら意思疎通ができないなんて言っていたがそれは何でも纏めるからじゃないのか?十年ぐらい同じ人間と語り合えば、言いたいことくらいわかるようになるんじゃねえのかな?」


 何も返事をしていないのに一人で話を二転三転させている猫に男は正直に言った。


「お前は、よく喋るな」


「退屈だったから来たと言っただろう。お前とお話ししに来たんだからこのくらいはよかろうに。聞き飽きたとでもいうのか?」


 男は煙草を灰皿に押し当てて言った。


「いや、続ければいい」


「なら続けよう、何の話だったかな。俺も長年生きてきたが齢かな、よく話を見失ってしまう。何だったかな……。そうだ、お前に話しかけた条件だったか」


「そうだな、第二に静かな人間であることだ。これは単純に喧しくされると興が削がれるからだな。いちいち喋っている最中に茶々を入れられ合いの手を入れられ揚げ足を取られれば不愉快だろう。話の腰も折れる。また声のでかい人間というのは猫にとっては天敵でな。耳に響く。その声を聴いて人でも来れば俺の喋り声が聞かれる可能性もある。そうすれば人間どもは俺を物珍しがって殺すだろう」


「さっきも似たようなことを言っていたな」


「そうか?まあそれだけ喋ることがばれるというのは危険ってことだ。殺されるのはもう二度と御免でな」

 

 何やら不穏な言い回しだった。一度殺されたことがあるような口ぶりである。猫は再び黙り、男の返事を待っているようだった。


「……。三つめは?」


 やや黙って猫の期待するであろう言葉を口にする。興を削ぐなと言う不思議な猫の話の腰を折るほど男は呆けてはいなかった。


「全部は言えないと言っただろう?まあもう少しすれば三つめも教えよう。なに、人間の寿命は長い。百年の年月を生きる人間もいるくらいだ。猫はせいぜい十五年、俺でも二十年生きたやつは数えるほどしか知らない。人間も猫も同じ一日が流れているのに人間は猫の五倍も生きる。つまり猫の五分の一の速度で生きても十分ってことだ、朝から晩まで働いている人間もいるがいったいどういうことか俺には理解できねえよ」


「……」


 痛いところを突いてくる。正論ばかり語る人間にはほとほと嫌気が差しているが相手が猫であるためかさほど腹は立たなかった。猫は伸びをしながら言葉を続ける。


「人間も大昔は猿どもとおんなじだったんだろ?とある人間が教えてくれたよ。それを聞いたとき俺はそりゃあ驚いたぜ?どひゃあってな。最初のお前に忠告だが驚くってのはこういうことだ。まあ驚かんだろうからお前に話しかけたんだが……、それはいいとして。なんで驚いたかっていうのは人間と猿と似ても似つかないからだよ。まあ自分を偉いと思いこむ癖は似てるがな。だが奴ら猿は山で草食っては後は道草を食ってるだけだ。それに比べて人間はどうだよ?飯食ったと思ったら次の飯のためにまた働いて。賽の河原にでもいるのか?子供でもないのによ」


 浪曲のような猫の説法を男は黙って聞いていた。近くの灰皿には新鮮な吸い殻がすでに数本積みあがっていた。夜も大分更けてきている。突然猫は男に向き直り問いかけた。


「随分と長いこと話したな。しかも俺ばっかり。お前は何か話ができないのか?さっきから素っ気なく黙って聞いているがよ。俺と喋れる機会は今夜限りのもんだぜ?今日あったこととかさ。お前は普段からしみったれた面をしているようだが、今夜は一段としけてるよ。お前がここにきて煙草に火をつけるまで幽霊かなんかだと思ったほどだ。ほら、何があったか語ってみろよ」


 男は大きくため息をついて答える。


「いい、なんでもない」


 男は自分でも子供じみた答えだと思った。まるで要求が通らなかった時の駄々をこねる子どものようだった。


「“なんでもない”、人間はこの言葉をよく使うな。俺はこの言葉が嫌いだぜ、罰当たりな言葉だ。なんでもないだあ?そんなわけねえだろ。お前は今日目が覚めてから今の今まで何してたんだ?一日中寝てたのか?それでもそれはお前が今日したことだろ。日が昇り日が沈み月が昇り月が沈む、そうやって一日が、過去ができていくんだ。なんでもないなんてことはありえない。なんでもない一日を過ごす奴なんてこの世にいない、いやあの世にもいないだろう。俺はあの世に行ったことはないが、蓮の台で日向ぼっこしてる猫も地獄の窯で茹でられてる人間もきっと俺たちと同じ時間を一日として過ごしているはずだぜ」


 猫は語気を強めて言う。男の様子とは対照的にそれは理詰めで子供を説得する父親のようであった。


「……」


 男が黙ったまま時が過ぎる。数分の間、静寂が場を支配していた。男の手に持っていた煙草から大きな灰の塊が落ちた。男は観念した様子で重々しく口を開いた。


「そうだな、“なんでもない”は罰当たりだ。その日を生きた自分に失礼だ」


猫は黙って次の男の言葉を待っている。


「つまらない話だよ、いいのか?」


 その声は猫よりも自分へ許可を求めているようだった。


「話をするのに相手の機嫌を窺ってちゃあだめだ。話すという行為はその場の空気を主導することだ。主役になるってことだ。内容は二の次でいいのさ、一番多く喋ったやつが物語でも主人公だろ?」


 猫の答えからしばらくして男はぽつりぽつりとまるで暗示をかけるように話し始めた。


「よくある失敗談だ。普遍的で、含蓄もない。お前の言う通り人間はまるで賽の河原にいるように同じ日常を繰り返す、楽しくなくても報われなくてもそれを続けること、それが日常だ。俺の日常の大部分は営業の仕事だ。朝から晩まで歩き、汗水たらして、頭を下げて、一度覚えた言葉を復唱し客の前で吐き出す。そしてそれは俺じゃなくていいんだ、機械で十分なことだ。決まった言葉を、美辞麗句を並べるだけの仕事だ。だが機械ではダメな仕事なんだ、なぜだかわかるか。機械はへこたれないんだ、応えないんだよ。言葉を並べるだけなら機械にもできるがいくら怒鳴り散らかしたとて機械は無反応だ。つまり俺という人間に与えられた仕事は怒鳴られたらしっかりへこたれることなんだよ。涙流してすみませんと謝罪をし靴を舐めごまをする、これが俺の仕事なんだ」


 男の話す速度が少し早くなる。呼吸はやや乱れ始める。既に男の目は映るものを捉えてはいない。そして猫は相槌を打つこともなく、ただ男を見つめている。


「尊厳をすり減らしてそれを金に換えているんだ。だったら最初から会社に全ての尊厳を譲渡するから一括で換金させてくれよって話なんだがな。毎日少しずつ尊厳を切り売りしてんだ。身なりも整えて健康なふりをして馬鹿にされに行くんだよ。明日も明後日も一年後も十年後も。健康なわけがあるかよ……、死にそうだ、毎日毎日。それでも寿命尽きるまで売るんだよ。それなのに金は減っていくばかりだ。生きていくのには金がかかるんだ、もはやなんのために働いているのかわからない。死ぬために働くのか、生きるために働くのか、生きていたくて死ぬような真似事をしているのか、死んでみたくて生き続けて死ぬ真似事をしているのか、わからない。俺は死ぬために生れてきたが死ぬほど辛い思いをするために生れてきたわけじゃない。だが現実はどうだ、辛く、そして、苦しい」


 男の肩が縦に揺れる。語りの中に声にならない嗚咽が混ざり始める。


「でも不条理ではないよなぁ、こんな現実も俺が心のどこかで望んだからこうなったんだよ。望んだ記憶はないが望んでもないのにこんな日常はおかしいもんな。今までの人生の中で棒に振ってきたチャンスとか、乗らなかった誘いとか、してこなかった努力とか、悼まなかった死とか、そういうものが積み重なってこんな日常を作り出しているんだよ。それとも決まった運命だったのか?こんなレールの上に産み落とされたんだとしたら俺は誰を恨めばいい?母親か?父親か?友人か?教師か?きっとこんな恨みは筋違いだ。友達は心配してくれたし、変に詮索もしない、深入りしない臆病者ばっかりだった。親はずっと大切に育ててくれて世の中がこんな糞だったなんて一切悟らせない聖人だったよ。教師どもは金を払った分だけ俺を気に掛けてくれて、就職率の数字のために奔走する前向きな人達だった。つまりやっぱり俺が悪いんだ。生みの親を恨もうだなんて考えるような愚図だからこうして天罰が下ったんだ。そう考えればやっぱり誰かを恨むのは筋違いで、これは俺が招いた悲劇なんだろう」


 暗い夜空に低い嗚咽交じりの声が響く。


「辛いなぁ、いつ死ねるんだ?いつ、この日常は終わるんだ?俺だけが辛いのか?皆辛くても笑っていられるのは俺が弱いからか?それとも世界の辛さを俺が一人で引き受けているのか?」

 

 男は彼にとって真実らしき言葉を口にした。


「こんなこと望んじゃいないのに……」


 男は大きく息を吐いて大きく息を吸った。男の独白は終わった。それはまるでその場にいない誰かへ語りかけるようであった。男の独白はただ一匹の猫が聞くのみで、その他には誰にも届かなかった。しばらく空虚がその場を包んだ。そして二人の長い沈黙の帳を破ったのは猫の声だった。


「随分いろいろあるじゃないか……、“なんでもない”なんて……、大噓だな」


 その声は先ほどよりも少し低く自嘲するような小さな笑いを含んでいた。その姿はとても人間らしい素振りだった。


「まあ、ご苦労なこった。栄華極める人間様も悩みの多いことだな、何かを馬鹿にすることしか頭にない鳩とかもちったぁ見習うべきだと思うぜ、あいつらこっちを煽って飛び去る以外の趣味がねえからな」


 猫は小さな欠伸を一つした。


「お前みたいな人間もいるもんだよな、人間ってのは全く一枚岩じゃなく個人個人が別の生き物かってほどに違うからな、蟲なんかどいつも同じなりで同じことしか言わねえんだが。傲慢非道な人間もいればお前みたく謙虚で死にそうな悩みの渦中のもいるわけだ。猫として言わせてもらえば人間の世界は複雑すぎて嫌になるぜ、野良、家、雄、雌、こんだけわかりゃあ後はどうでもいいのが猫なんだが、どうも人間様は違うらしい」


 語り終えた男はまるで抜け殻のようになっていた。人形のような姿で猫のそばにしゃがんでいる。


 数十分の時が経ち男の持っていた煙草は白い完全な灰となった。


「おい、人間、起きろ。話がある」


 猫は男の正面に座して言う。空がやや白んできている。


「俺が人間に話しかける条件の三つ目を教えよう」


 猫の目は男のもとへ現れたときと同じく、あるいはそれ以上に爛々と輝いている。猫はたっぷりと間を溜めて言った。


「それは、もうすぐ死にそうであることだ」


 夜が明け始めた。




 男の目が猫を捉える。


「は?どういうことだ」


 猫はさも当たり前のように答える。


「もう大方気付いていると思うが俺は普通の猫じゃない。この言葉は嫌いだがお前たちの言う化け猫というやつだ」


 猫は滔々と生い立ちを語り始めた。


「俺は三百年ほど前に人間に殺されたんだ。さっき話した化け猫として殺された哀れな猫、あれは俺の話だ。それから俺は人の魂を食らって生きているのさ。とは言っても俺も生まれ変わってすぐの頃は普通の猫と同じように暮らしていた。その日暮らしに狩りをして鼠とかを狩って生きていたんだ。だが死なない俺が他の生き物の魂を奪い続けることは自然にとって悪だと気付いてな。死なないのに食っていれば食われる側の生き物が段々減っていく。そこで目を付けたのが人間だ。生き物の中で唯一自殺する生き物が人間なんだ。捕食されないのに一方的に他の生き物を食らい挙句自ら命を絶つ生き物、それが人間だ。それは俺にとって都合がいい。自然に影響することなく魂を食らえる。だから死にそうな、特に自殺しそうな人間を探してはそばにいてやり、そいつの魂を喰らうことにしたのさ」


 疲れからか男は思ったままのことを口に出していた。


「それであのルールか……」


「ルールくらいならわかるがあまり新しい言葉を使わないでくれ、話についていけん。まあそういうわけであのルールができたってことだ。人間とそれ以外との分別がついていること、静かな人間であること、もうすぐ死にそうであること。まあ騙して悪いとは思っているよ。特に自殺しそうな人間なんてのは弱り切っていて、哀れだ。もともと野良だった時にはこんなこと思いもしないどころか、弱った獲物に出会えて幸運だと思ってたんだがな。三百年間人間社会を生きているうち考えが実に人間らしくなっちまったらしい」


 猫は男に向き直って言う。


「まあつまりそういうことだ、要するに今日お前には死んでもらいたい」


「……」


 男は黙って猫を見つめ返す。男の呆然した顔に猫は軽く笑いながら続ける。


「まあ突然言われたら混乱するのもわかるぜ、今が苦しいからといったってここで死んでいいのか、過去に終止符を打つのが今日でいいのかってな。“すこし考えさせてくれ”人間の常套句だ。ちなみにこんなことを言うのは世界に人間だけだぜ?馬鹿みたいに長い寿命と自分の思考に価値を感じるのは人間だけだからな。他の生き物からすれば考える時間もなければそんなことに悩むだけの知能もない」


「お前の言い分もわかるが俺はそんなに待ってられないんだ。腹ペコだからじゃないぜ?そういうことじゃなくてこれまでに話したように人間の言葉を喋る猫がいて、そいつがしかも化け猫で、三百年生き続けているなんて知られたら俺の身が危ないんだよ。人間に追われ続けて逃げ回ったり、檻に入れられて見世物にされたり、死ななくても死にたいほど辛い日々は俺も御免だってことだ、お前と同じように」


「……」


猫の提案は狂気じみている。しかし男にはこの猫の言葉は冗談として切り捨てるにはあまりに優しすぎた。


「ほら、もうすぐ夜が明ける。陽がまた昇る。今夜は終わりだ、明日が来る、日常が始まるんだよ。苦痛なんだろ?日常が。さっきあんなに辛そうに泣いていたじゃないか。尊厳を擦り減らして、馬鹿にされながら生きて。またやつれた顔でここで煙草ふかして一日を終える日々に戻るのか?白黒はっきりつけようじゃないか。お前が欲しいのは安寧な死だろ?」


 猫の言葉は男にとって過度に優しく、甘言そのものだった。猫は饒舌に男を死へと導いていく。


「苦痛な生と安寧な死どちらが幸福かなんてわかりきっている。皆、理想は安寧な生が欲しいんだ。しかしそれは難しい。野良猫なんかは一生手に入らないんだよ、毎日死と隣り合わせの日常だからな。お前と似た境遇だな。だが安寧な死はどうだ?簡単に手に入るぜ、死への恐怖を乗り越えれば手に入るんだからよ。そしてそれは恵まれた選択だ。野良猫はその選択すら許されない、自殺できないんだ。苦しくても死と隣り合わせの日常を生きる以外の選択肢は生まれ落ちた段階で用意されない。泥に塗れても、四肢を失ってもなお生き続けなきゃならない。それは知能と心が足りないからだ。生への本能から逃れられないんだ、人間以外の生き物は。」


「だが人間は違う。本能を乗り越えるだけの知能と心がある。自殺は生への本能を納得させるだけの知能と心の辛苦が肉体的な辛苦を超越したときに起きるんだ。まあ俺は死んだことはあっても自殺したことはないから今まで死んでいった奴からの又聞きだがな。だが今まで俺はいろんな奴の自殺を見てきて尊いと思ったぜ。羨ましいってな。もしも自殺できる権利が手に入るなら喜んで死ぬ生き物が大勢いると思うぜ。そのくらい苦痛な日常から逃れられないことというのは苦しいんだよ。死ぬことよりもずっと苦しそうだ。先人の言葉には従っとくべきだぜ?お前死んだことないだろ?俺は死んだことがあるからな。だからこそ言えるんだ。お前の日常は死よりも辛い」


 猫の言葉は熟練の哲学者のような思慮深さと人間に無い純粋さを含んでいた。猫が語っているのだからおよそ眉唾であるが三百年前に死んだ生き物の言葉、まして人間でないものの言葉というのはあらゆる含蓄に富んでいるかのように聞こえ、男の理性の働きを押し殺すには充分だった。それはまるで優しさの教典ともいうべき言葉であった。


 男は涙した。黙ったまま穏やかな涙を流した。表情はやや微笑んでいる。


「死にたかったんだろ?いままで。俺が導いてやるから心配するな。何人も看取ってきたからな。お前も俺が看取ってやる」


 それは男が心の奥底で求めていた言葉に酷似していた。悪魔の誘いはいつだって美しいものである。空が明るくなり、猫に光が当たる。暗闇に紛れ曖昧だった黒猫の姿が光に照らされ美しく浮かび上がる。遠くの方で電車の汽笛が鳴る。男は猫に尋ねた。


「死んでもいいのかな……、もう頑張らなくてもいいのかな……」


「いいさ、恥ずかしいことじゃないんだ、俺が看取ってきた奴は百人を超える、あの世でそいつらとよろしくやればいい、俺の話でもしてな」


 猫はベランダから部屋の方へ向き直る。部屋の中心には真新な吊るされた縄と対照的に薄汚れた足場がある。


「今夜こそ首を括ろう。今まで足踏みしてたんだろ?大丈夫だ、今は俺がついてる」 


 猫はゆっくりと部屋に向かって歩き出し、縄の前で振り返った。男に言う。


「夜が明けると俺はお前といられなくなる、俺と一緒にいながら死ねるのは今夜で最後だ。いつかお前が自殺するときがあっても俺はその時一緒にいてやれない、だから今死のうじゃないか。夢でも幻でもいいだろう?一匹の猫に化かされたことにしてこの苦痛から抜け出そうぜ?もう十分だろ?」

涙浮かべながらの不格好な笑顔で男は言う。


「化かすのは狸か狐じゃないのか」

 

 男は静かに立ち上がり猫の方へと歩いていく。続けて猫は男の過去を断ち切るように言葉を紡ぐ。


「過去を振り返るなよ、辛く悲しい過去と決別する選択をお前はしたんだ。妨げるものは何もない、躊躇わず、自然に死ねばいいんだ」

 

 猫が導く先は自らの胃の中である。吊るされた紐のそばで男が猫を撫でながら言う。


「ありがとう」


「普段なら嚙みついてやるところだが大人しくしといてやろう。俺とお前の仲だからな。それにしてもお前は幸運だぜ?最後に猫と話して撫でて死んでいくなんて。俺に出会わずに死んでいく人間もいるんだからな」


「ああ、そうだな」


 男は死を目前にして幸せそうにしている。


「そうだ、今夜は恐怖に怯えながらじゃなくていい、もう明日はやってこない、自然に台座に足をかけて縄の穴に首を通すんだ」


猫の言葉通り男は台座に上る。


「なあ」


「なんだ?」


「ありがとうな。本当に」


「感傷にふける時間はないぜ?お日様がもう顔出してる。怖いのか?」


 男は目を閉じて言った。


「いいや……。いや、怖いかもしれない。不思議な気持ちだ」

 

 猫はやけに落ち着いた声で聞いた。


「自分で逝けるか?」


「逝けっ――」「んにゃぁ!」


 男が言葉を紡ぎ終えぬままに猫は台座に飛びついた。途端男の首は縄に縛られ男の声は途切れる。


「がっ…、あ………っ」


しばらく男は藻掻いた。首を何度も引っ掻く。だがやがて力尽き部屋は静寂が支配した。


「にゃおん」


陽に照らされながら舌なめずりをする猫だけが、そこにはいた。

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