第一章 第一話境界の名
昔、人は境界を知っていたという。
海と陸のあわい。
山と里のあわい。
生と死のあわい。
そこに立てば、風の向きが変わる。
目に見えない何かが、世界の縁を撫でていく。
どこにでも在る。
在るからこそ、名が必要だった。
名は、呼びかけのための橋だ。
だが同時に、囲いでもある。
囲われたものは、やがて意味を持つ。
意味を持ったものは、役割を与えられる。
役割を与えられたものは、管理できると錯覚される。
人は世界に名をつけた。
風に名を、闇に名を、沈黙に名を。
名づけることで、安心した。
境界は薄れていった。
ある神話がある。
黄泉から戻る者は、決して振り返ってはならない。
振り返るとは、境界を二度見ることだ。
二度見た境界は、こちら側へにじみ出す。
だから人は、振り返らない。
見ないことは、拒絶ではない。
それは敬意だ。
やがて時代は進み、
人は振り返ることを覚えた。
観測し、記録し、証明し、再現する。
境界は測定され、
不確かなものは誤差と呼ばれた。
それでも、風は吹く。
吹いていない日でさえ、
カーテンが揺れることがある。
人はそれを見て、言う。
「異常だ」と。
異常とは、名である。
理解できないものにつけられる、仮の囲いだ。
だが、囲いはときに檻になる。
檻に入れられた神は、
静かに形を変える。
境界は消えたのではない。
ただ、忘れられただけだ。
神は奪わない。
押しつけない。
終わりを告げもしない。
境界を越えるかどうかは、
いつも人間が決める。
そして越えたあとで、こう言うのだ。
「これは異常だ」と。




