この世界の日常
部屋の隅に、ロープが吊ってある。
黄ばんだ天井の梁に、俺が結びつけたものだ。
この季節になると、湿気で縄がじっとりして、触れるたびに汗ばんだ掌と同じ匂いがする。
何度も、あれを首にかけるところまで想像した。椅子に足をかけ、深呼吸をして、目を閉じる。
けれど、最後の一歩は、いつも踏み出せなかった。
恐怖ではない。
死を恐れてなどいない。
むしろ、長引くこの暑さに比べれば、終わりを迎える方がずっと楽に思える。
それでも、体が拒む。理由を問われても答えられない。
今日も俺は、そのロープを横目に見ながら、無感情に準備を始める。
缶詰は二つ。水筒には、生ぬるい水が半分。
錆の浮いたナイフと、懐中電灯。
それらを、汗の染みついたリュックに押し込む。
まるで、壊れた機械が決められた動作を繰り返しているみたいだ。
ロープは今日も使わない。
そう決めただけで、生き延びる理由になった。
扉を開けると、まとわりつく夏の空気が肌を覆う。
蝉の声が耳をつんざき、焼けついたアスファルトが陽炎を揺らしていた。
人影はなく、残されたゴミ袋だけが風に転がる。
死んだ街の中で、俺だけがまだ歩いている。
そのことが、生きているという実感よりも、ずっと重たくのしかかってくる。
いつものルートを歩く。
人影のない商店街を抜け、半壊したコンビニへ。
この道を辿るのは、もう何十回目か。
足音を殺し、耳を澄ませる。
一歩ごとに、砕けたガラスの破片が靴底で小さく鳴る。
蝉の声は容赦なく耳を叩き、頭の奥をじりじりと焼く。
背中を伝う汗は、暑さのせいだけじゃない。
「やつら」に見つかれば、終わりだ。
俺は、手にした懐中電灯を絞るように握った。
コンビニの中は暗く、棚は倒れ、商品は荒らされ尽くしている。
缶詰の山だった棚は空っぽで、落ちているのは埃をかぶったラベルだけ。
深く息を吸い込み、腐敗の臭いが鼻を刺すのを覚悟した。
……こない。
臭いが、しない。
耳を澄ませても、あのうめき声が聞こえない。
やつらの気配が、どこにもない。
蝉の声だけが、やけに大きく響いている。
汗がこめかみをつたい、顎を濡らす。
妙だ。おかしい。
こんなに静かなはずがない。
いつもなら、息を殺していても、どこかであの気配を感じるのに。
不意に、背筋が冷たくなった。
暑さで焼けるはずの体が、急に軽い震えを覚える。
俺はリュックをそっと床に置き、店の外を振り返った。
食料の探索どころではない。
確かめなければならない。
この沈黙の理由を。
店の外に出る。
視線を左右に走らせ、耳を澄ませながら一歩ずつ。
真夏の日差しがアスファルトを焼き、熱気が靴底から立ちのぼる。
汗が背中を伝い、リュックの紐をじっとりと濡らしていく。
昔の俺は、こんなに慎重じゃなかった。
むしろ逆だった。
塀をよじ登って隣の家の庭に忍び込み、悪ふざけのつもりでスイカを盗んだこともある。
叱られるより先に笑われる方が好きで、危ない橋を渡ることに抵抗なんてなかった。
でも、父の仕事の都合で、引っ越しを繰り返すことになった。
中学に上がってすぐ、知らない土地でまた転校した。
そこで待っていたのは、輪に入れない俺を標的にする、軽いいじめだった。
教科書を隠され、机に落書きをされる。殴られるほどではない。けれど、毎日が小さな傷で埋め尽くされていった。
その頃からだ。
俺は発言する前に相手の顔色を窺い、行動する前に先を読むようになった。
臆病と呼ばれてもかまわない。余計な傷を負わずに済むなら、その方がいい。
そして今、その慎重さが、やつらが徘徊するこの世界で俺を生かしている。
だから今日も同じだ。
沈黙した街路に一歩を刻むごとに、耳の奥が張りつめる。
その瞬間――
――ガサリ。
心臓が跳ね上がる。
全身の神経が一斉に目を覚まし、手は勝手にナイフの柄を握っていた。
やつらだ、と反射的に思った。
ここまで静かだったのは、罠だったのか。
息を殺し、音のした方へ視線を向ける。
汗が顎を伝い、落ちる。
体が固まる。
――出てきたのは、一匹の猫だった。
その瞬間、胸を締めつけていた縄がほどけるように力が抜けた。
笑いとも溜息ともつかない息が漏れる。
たかが猫一匹。それでも、ジェットコースターを駆け下りるほどの安堵を与えてくれる。
汗が熱によるものか、恐怖の余韻か、もうわからなかった。
猫の尻尾がゴミ袋の陰に消えると、わずかな安堵も消えていった。
気を緩めれば、命を落とす。
それを知っているから、呼吸を整え、また耳を澄ませる。
この街では、油断が死に直結する。




