第8話 「孤独な決意、世界を敵に回す」
――暗闇だった。
深い海の底のような静寂。
音も、光も、温度すら存在しない世界。
これは“死”の直前に訪れる虚無ではない。
夜見野彼岸の精神が、限界を迎えた時に落ちる場所――
魂の海。
(……ここは……?
僕、は……死んだ……?)
自分の声でさえ水中で響くようにぼやけて聞こえる。
感覚が薄れ、身体の輪郭も曖昧だ。
そんな闇の中。
――ふわり。
柔らかな光が、彼岸の頬に触れた。
「……ひがん」
その声は――何度夢に見たか分からない。
守りたかった声。
救いたかった声。
そして、失ってしまった声。
「……じん、らい……?」
振り返ると、淡い光の青年が立っていた。
輪郭は揺れ、透けている。
それでも笑顔だけは、あの頃のままだった。
「久しぶり、だね」
彼岸の胸が締め付けられる。
涙が自然にこみ上げた。
「どうして……!
どうして今になって……!
どうして……僕を残して……!」
「ごめん」
その一言に、全ての感情があふれた。
「彼岸。
僕はもう、この世界にとどまれない」
「いやだ……言わないで……」
「僕の魂は、ずっと楓さんに縛られていた。
たぶん、もっと早く消えていてもおかしくなかった。
でも――」
光が彼岸の胸元へそっと触れる。
「君が呼んでくれたから……僕は最後に、君と話せた」
優しい。
あまりにも。
「僕は大丈夫だよ。
痛くもないし……怖くもない。
ただ……君が心配なんだ」
「心配……? 僕が……?」
「うん。
君は“優しい”から。
きっと……これから先、たくさん傷つく」
その言葉が、彼岸の心を震わせた。
「僕が生き返るために動くと……
君は世界を敵に回すことになる。
孤独で、苦しくて……誰も味方がいなくなるかもしれない」
それでも――迅雷は微笑んだ。
「でもね、彼岸。
君の選んだ道なら……僕は誇りに思うよ」
「……じんらい……」
「僕を助けたいって思ってくれて、ありがとう」
その声はあまりにも穏やかで、
だからこそ心が張り裂けそうになる。
「でも……どうか、“自分”を嫌わないで。
君は、誰より優しいから」
光が、彼岸の手に触れた。
けれど――もう温度はなかった。
ただの光の粒が触れたような、淡く儚い感触だった。
「ひがん」
「……はい……」
「僕は、君のことが――」
その瞬間。
光の身体に、ひびが入った。
「あ……」
「時間が来たね。
もう……消えるよ」
「待って! まだ……まだ聞いてない!!
僕のことが……何だって……!?」
「言わなくても、分かるでしょ?」
光は優しく笑った。
「――好きだよ、彼岸」
ひゅう……と光が風に吸い込まれるように消えていく。
彼岸の手が闇を掴み――しかし何も届かない。
「いやだ……いやだ……!
行かないで……!
置いていかないで……!!
迅雷いいいいいいいいッッ!!!」
魂の海が揺れ、闇が波打つ。
彼岸の叫びは虚空を裂きながら――
現実へと引き戻されていった。
「……ッ!!」
彼岸は跳ね起きた。
息が荒い。
視界がぼやけ、涙が頬を伝う。
目の前には――
瓦礫と化した天来学園の広場。
割れた神器の破片。
楓の残した灰。
倒れ込む仲間たち。
そして――
広場の中央に、一人佇むフェイク。
「……起きたね、彼岸くん」
彼は静かに帽子を押さえた。
「君は……死ぬところだったよ。
いや、魂ごと壊れていたかもしれない」
「……迅雷は……?」
その問いに、誰も答えなかった。
答えられる者が、いなかった。
彼岸は膝を抱え、俯いた。
「……僕……
僕は……また……救えなかった……」
ボルが声を絞る。
「彼岸……お前は十分やった。
こんなの……誰の責任でも――」
「いえ」
彼岸は顔を上げた。
涙が乾いていない瞳。
しかしその奥にある光だけは、強く揺らいでいた。
「僕が、世界の理を壊します」
全員が息を呑んだ。
「世界が彼を奪うなら……
僕は世界そのものを敵に回してでも、迅雷を取り戻す」
狩衣の袖を握りしめ、彼岸は立ち上がる。
「死者蘇生の禁術でも……冥界でも……黄泉の国でも……どこへだって行きます」
その姿は、弱々しい狐獣人ではなく――
“天海の陰陽師”としての覚醒そのものだった。
「待っててください……迅雷。
今度こそ……必ず迎えに行きます」




