第2話 「狼の博士と、狐の陰陽師」
白衣の狼獣人――秋月楓が階段を降り、時年樹の広場に足を踏み入れた。
革靴が石畳をコツ、コツ、と軽く叩くたびに、張り詰めた空気が少しずつ軋んでいく。
彼はまるで散歩に来たかのような足取りで、一人ひとりの顔を見回した。
「いやぁ、本当に来てたんですね、ボルさんに紅葉くん、それにヴォルク司令官。
テレビ越しじゃなく、こうして顔を合わせるのは久しぶりですよ」
柔らかく笑うその顔に、悪意の影は見えない。
だからこそ、余計に寒気がした。
「雷オーナーは? 昨日ちょっと遊びに行ったんですけど、ここには来てないんですか?」
紅葉の肩が、びくりと震える。
フェイクが、モノクルの位置を押し上げながら答えた。
「雷オーナーは、現在緊急手術中ですよ。
あなたがあそこまでボロボロにしてくれたおかげでね」
「いやいや、それは言いがかりですよ。
だって僕、殺されかけたんです。自己防衛、ってやつじゃないですか?」
楓はケラケラと笑う。
その笑い声を聞くだけで、紅葉の拳は自然と握り締められていた。
「……お兄ちゃん」
低く小さな声。
紅葉の耳が、ぴくりと伏せる。
「そして今度は、迅雷を殺して完全復活――ってわけか」
ボルが一歩前に出て、楓を鋭く睨みつける。
その視線には、長い戦場経験からくる“殺意”がはっきりと滲んでいた。
楓は、肩をすくめてみせた。
「やだなぁ、ボルさん。人聞きの悪い言い方はやめてください。
僕は実験がしたいだけなんですよ。
ただ、その“最初の被験者”として迅雷くんを選んだだけです。
大丈夫、死んだとしてもきちんと保存して標本にしてあげます。
ずーっと、眺められるんですよ? 名誉なことじゃないですか?」
紅葉の瞳から、完全に色が消えた。
「お兄ちゃん……」
絞り出すような声。
楓は、ようやく弟へと視線を向ける。
「紅葉。お兄ちゃん、君のためにずっと頑張ってきたんだよ?
今度は君が協力する番だ。――ね、迅雷くん、ちょうだい」
その言葉が、引き金だった。
空気が一瞬だけ真っ白に弾ける。
最初に動いたのは、四大悪魔貴族オズだった。
「閉鎖空間――発動」
静かな声とともに、時年樹を中心に透明な膜が膨らみ、球体となって広場一帯を包み込んだ。
空間が、ぴん、と音を立てて閉じる。
外界の気配が一瞬で途切れ、空気そのものが別の“箱”へと切り離された。
「なるほど、閉じ込める気か。いいね、実験室としては悪くない」
楓が感心したように指先で壁を軽く叩く。
そこにすかさず、ボルが両腕を広げて詠唱を紡ぐ。
「空間壁面に付加――物理攻撃耐性、魔法攻撃耐性。
二重結界を展開する」
無色透明の壁に、さらなる防御の層が重なる。
これで中からも外からも、そう簡単には壊せない。
「ふぅん。出られない、壊せない。
そんな鳥籠を用意して……いったい、僕になにを――」
楓の言葉が途中で止まった。
視線の先。
これまで他のメンバーの影に隠れて見えていなかった中央の陣形が、ようやく彼の目に入ったのだ。
燭台に囲まれた円陣。
その中心で、白い狩衣の狐獣人が静かに舞っている。
札が宙を舞い、足さばきと指先の印が、目に見えない巨大な術式を組み上げていく。
「……夜見野、彼岸……?」
楓の瞳が細められる。
「どうして、君がここにいるのかな」
彼はゆっくりと階段を下り、陣形の外れまで歩み寄った。
白衣の裾が、蝋燭の灯りをふわりと揺らす。
「不思議だなぁ。
だってさっき、君を“この手で”殺したはずなんだけど?」
わずかに首を傾げる仕草。
あの瞬間を思い出しているのだろう。
「胸を貫いて、ちゃんと心音が止まるのも確認した。
血もたくさん出てたし。ねぇ、どういうカラクリ?」
彼岸は、舞を崩さない。
ただ、目線だけをふわりと上げた。
「……あれは、猫探偵さんに言われて、念入りに霊力を込めて作った“式神”です。
僕そっくりに見えるように、かなり時間かけましたから」
「ッ……!」
楓の視線がフェイクへ向く。
猫探偵は肩をすくめて微笑んでみせた。
「死んで困るコマは、あらかじめ控えを用意しておく。
それは推理小説でも戦場でも、基本ですよ」
「ほんっと、不愉快な猫だなぁ、君は」
楓の笑顔が、かすかに歪む。
その瞬間――銀色の軌跡が、彼の懐へ飛び込んだ。
「――よくもライカを」
世界最強の剣術使いヴォルクの斬撃。
刃が白衣を裂き、楓の頬に浅い傷を刻む。
「おっと」
紙一重で跳ねて避けた楓の足元に、土煙が上がる。
地面を叩いた剣圧が、蜘蛛の巣状の亀裂を走らせた。
「いきなり斬りかかるなんて、挨拶がわりにしては手厳しいね、司令官殿」
「お前は、それだけのことをした。
雷も、ライカも、俺の部下も――。手加減する理由はない」
ヴォルクは構えを崩さず、じり、と距離を詰める。
楓が白衣の内側に手を差し入れた、その瞬間。
乾いた爆音が、閉鎖空間に鳴り響いた。
パンッ、と鋭い音。
秋月楓の左手に、遅れて痛みが走る。
「痛っ……!」
手の甲から血が噴き出した。
向き直るより早く、時年樹の上から低い声が飛んでくる。
「目標、左手を破壊。着弾確認」
神樹の太い枝の上。
長い銃身を持つ対戦車ライフルを構えた男――雨宮ユリウスが、静かに次弾を装填していた。
枝から枝へ、風に紛れて移動するその姿は、まるで樹上の死神だ。
楓は、自分の左手を眺めながら口笛を吹いた。
「へぇ、対戦車ライフル? 撃たれて腕が吹き飛ばないなんて、やっぱりこの身体のポテンシャルはすごいなぁ」
「狙撃手が居るとは……。用心深いことだね、猫探偵」
「確実に勝つためには、使えるものは全部使うべきです。
なにもしないで死ぬほうが、よほど悪ですから」
「言ってくれるじゃないか……!」
楓が猫探偵へ視線を向けた、そのわずかな隙――。
「よそ見、禁止」
ボルの足が、楓の顔面めがけて飛んだ。
重量の乗った飛び蹴り。
楓は腕でガードしながらも、そのまま後方へ吹き飛ばされる。
「っぐ……相変わらず顔に似合わず物騒ですね、光の賢者殿」
「黙れ。お前みたいなガキに、優しくする義理はない」
ボルは冷たく言い放ち、次の一撃に備えて構え直す。
魔法は封じられていても、幾千の戦場をくぐり抜けた格闘技術は健在だ。
楓は、吹き飛ばされた衝撃を利用してくるりと一回転し、軽く地面へ着地した。
大きく息を吐き、指を鳴らす。
「なるほどね。狙撃手に、近接戦闘のプロ、猫探偵の策――。
そして、中心には天海の陰陽師、夜見野彼岸」
彼は、舞い続ける狐をじっと見つめる。
「やっぱり邪魔だなぁ、君は」
楓の笑顔から、ようやく“温度”が消えた。
時年樹の枝が、不穏に鳴る。
燭台の炎が、一斉に細く揺れた。
――ここから先は、もう後戻りできない。
世界最高の天才と、世界最高の戦士たち。
そして、世界でただ一人“彼”を封じられる陰陽師。
天来学園最終決戦の本当の幕が、ようやく上がろうとしていた。




