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第3話 「侮辱の代償 ― 湖畔のワイバーン戦」

 ワイバーンの咆哮が湖畔を裂くように響いた。


 黒い翼の羽ばたきは空気そのものを震わせ、

 踏みしめた地面が蜘蛛の巣状にヒビを走らせる。


「龍族を“トカゲ”呼ばわり……!!

 貴様ァァァァ!!!」


 怒気が常軌を逸していた。


 彼岸は一目で悟る。


(これは……強化の呪詛……!

 でも弱ってなんていない、むしろ――)


 ワイバーンの筋肉は膨張し、鱗の隙間から蒸気が噴き出し、

 赤く濁った瞳はもはや理性を欠いていた。


(――強化されてる。

 このままだと、体が壊れる……!)


 次の瞬間、ワイバーンが弾丸のように突っ込む。


「――“天”!」


 彼岸はとっさに印を結び、結界を展開した。


 ガァンッッ!!!


 重い衝撃。

 結界が大きく歪み、霊札が震えた。


「な、なんだこの力は……!」


 結界越しにヨハネが呟く。


「呪い……強化の呪詛だ。

 痛覚、理性、限界……すべて潰して肉体だけ強化する禁術だぞ!」


「そ、そんなものを龍ノ国では使用しているんですか……?」


「ヒュドラの仕業だろう……!」


 ワイバーンは自分の昂ぶる力に酔ったように叫ぶ。


「力が……漲るッ……!!

 龍族の誇りを取り戻すのだァァア!!」


 その狂気に、彼岸は冷汗を流した。


(放っておけばこの人は死ぬ……

 止めなきゃ……!)


「ワイバーンさん! 聞こえてますか!?

 その力、危険です! 身体が壊れます!!」


「黙れ狐ェェ!!

 我は強い!! 龍族だぞ!!」


「だからそれが危険なんですよ!!」


 怒号と共に結界が砕け散る。

 爆風が彼岸の狩衣をはためかせる。


 彼岸は地を蹴り後方へ跳ぶと、静かに印を組み替え始めた。


 その動きを、ヨハネは驚愕の眼差しで見つめる。


(なんだ……あの印……

 霊の流れがざわついた……!

 この狐、どれほどの術者なのだ……!)


 彼岸は一歩前に出て言った。


「……ごめんなさい。

 これはあなたを守るためです」


「守る……?

 狐が我を!!? 笑わせ――」


「――“(ひつじ)”、準備」


 空気が変わった。


 風が止まり、湖畔が音のない世界になる。

 淡い光の粒子が彼岸の周囲に集まり始めた。


 ワイバーンの瞳が揺らぐ。


「な……なんだ、この空気……

 熱い……冷たい……重い……!?

 何が起きて……!」


 混乱すら抑え込む静寂。


 ヨハネは息を呑む。


(式神……!?

 だが、この霊圧……!

 ただの召喚ではない……!)


 彼岸が静かに呼ぶ。


十二神将(じゅうにしんしょう)――未、おいで!」


 ぼふんっ。


 彼岸の隣の空間がふくらみ、白い煙がふわっと広がった。


「……んぁ〜……あるじ〜……よんだの……?」


 そこに現れたのは、

 ふわふわの白毛を持つ羊獣人の少年だった。


 年齢にして十二、三歳に見える。

 柔らかな垂れ耳、丸く短い角、眠そうな赤い目。

 彼は巨大な“まくら”に寝そべったまま召喚されていた。


「未! ワイバーンさんを眠らせてください!

 今暴走してます!」


「ふぁぁ……あいつを、ねむらせれば……いいんだね……?」


「お願いします!!」


 未はごろりとまくらの上で寝返りをうち、

 指先で目をこすりながらゆっくりと立ち上がる。


「……じゃあ……ねむねむの……じかんだよ……」


 未の赤い瞳がふっと開いた。


 その瞬間、湖畔が夜に堕ちたかのような静寂に覆われる。


「なっ――!?

 う、動き……が……!?」


 ワイバーンの巨体が一瞬で硬直した。


 眠りの波動が、空気そのものを揺らしながら広がっていく。


「ぐぅ……ッ……!?

 ま、瞼が……重い……っ

 ち、違……これは……眠り……だけじゃ……」


 未は小さく、優しげに囁く。


「……ねんね……しな……?」


 その声は、神託にも似た眠りの命令。


 ワイバーンの膝が折れた。


 巨体が崩れ落ちる――

 だが衝撃はまるでない。


 未の術が、落下すら“柔らかく”変えたのだ。


 地に伏したワイバーンの呼吸は静まり、

 暴走していた霊と魔力の流れも、穏やかな波へと戻っていく。


「……ねたね……ありじ……」


 未はそのまま大きなまくらへ倒れ込み、目を閉じた。


「おつかれ……ぼく……」


「な……なんだ今のは……!?

 赤い目を向けただけで……

 強化されたワイバーンを眠らせた……!」


「未は状態異常を付与する式神なんです。

 特に眠りに関しては、かなり強い術が使えるんですよ」


「強いどころではあるまい!!

 あれは……秘術級の強さだ……!」


「未はいつも眠いので、たぶん本気では……」


「本気ではないのか!??」



ぐにゅ、ぐにゅぅぅ……


 ワイバーンの身体が縮み始め、

 膨張していた筋肉が収まり、鱗が小さくまとまっていく。


 そして――


 数秒後には、彼岸の両手に余るほどの“小さなトカゲ”になっていた。


「ち、小さ……っ!?

 ワイバーンさん!? ……寝てますね……」


小トカゲを大事そうに抱き上げる彼岸。

その光景を見たヨハネの眉が、ぴくりと跳ねた。


「……狐よ」


「はい? どうしましたヨハネさん」


「なぜだ。

 なぜその小さき獣を……

 そんなに優しく抱く……?」


「え? いや、落ちそうだったので……」


「落ちればよかろうッ!!」


「言い方ぁ!!? かわいそうでしょ!!?」


「なぜ我ではなく、そのトカゲなのだ……!

 狐、我のほうが可愛いだろう!!?」


「どこ情報ですかそれ!!?」


 ヨハネは胸を張りながら、堂々と言い放つ。


「よい、抱け!!」


「え、なんでそうなるんですか!?」


「抱けと言っている!!

 ほら、腕を広げてやったぞ!!」


 ヨハネは両腕をぐわっと広げ、

 明らかに“抱っこされる側”の姿勢をとる。


 彼岸の表情が凍った。


「いやいやいやいや!!

 ヨハネさん絶対ムリです!!

 抱きしめた瞬間につぶされますよ僕!!?」


「む……そんなに我は重いか?」


「重いです! ドラゴン族ですよね!?

 王族ですよね!? 筋肉量見たことあります!?

 僕ぜったいペシャンコになりますよ!!?」


「……あるじ殿、非力だな」


「言葉の暴力……!!」


 その横で、未は半目のまままくらに沈み込み、


「……あるじ……だっこ……にんき……」


と、意味深に呟いた。

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