第2話 「湖畔に還る王 ― 赤龍ヨハネの目覚め」
――翌朝。
湖畔の空気は、夜の冷たさをわずかに残したまま、白く澄んでいた。
簡易結界の中央で、夜見野彼岸は静かに瞑想を解いていた。
膝の上には、昨日救った赤いトカゲ――例の王冠トカゲが横たわっている。
霊力診断によると、呪詛の進行は止まり、毒素もほぼ無害化している。
「……順調ですね。
あとは、あなたの魂が自分の器を取り戻すのを待つだけです」
そっと頭を撫でると、トカゲの尾がぴく、と震えた。
「ふふ。くすぐったかったですか?」
そんな穏やかな時間が続いていた、まさにそのとき――
湖畔の空気が、びり、と震えた。
「……っ!?
これは……魂力の膨張……?」
彼岸が顔を上げた瞬間、トカゲの身体が唐突に跳ね上がる。
赤い鱗が光を帯び、王冠が蒼白い火花を散らしながら浮上した。
「――――!!!」
耳をつんざく咆哮。
小さかった身体がみるみる膨れ上がり、
骨格が捻れ、翼のような爪が伸び、尾が巨大な鞭のようにうねり出す。
彼岸は咄嗟に後方へ跳ぶ。
(変身……!?
いや、これは……本来の姿に戻っていく……!)
呪詛によって無理やり縮められていた“王の魂”が、
矮体化の反動で一気に解放されているのだ。
光が湖畔を覆う。
そして――
眩い光の中から、巨大な影が姿を現した。
赤い鱗に覆われた長大な胴体。
鋭く伸びた角。
黄金の瞳。
天を穿つほどの気高さ。
それは紛れもなく――
「赤龍……!?」
龍ノ国の象徴にして最も強き存在、赤龍。
巨大な翼を収め、小さく息をついたその龍が、ゆっくりと彼岸へ視線を向ける。
「……ぬ……ここは……?」
低く響く声が大地を揺らす。
(普通の龍より……ずっと大きい。
いや、これほどの霊圧……まさか……)
龍は一度瞬きをし、自分の身体を見下ろした。
「戻って……おる……
この身体……我が“本来の姿”……!」
その瞳に、はっきりとした知性の光が宿っていた。
龍は、ゆっくりと彼岸へ顔を寄せ――
「そなたが……助けてくれたのか?」
彼岸はわずかに後ずさる。
巨大な牙が並んだ口が、目前に迫るのだ。
恐怖を感じないわけがない。
しかし――
「……はい。
あなたを傷つけた呪詛の解呪と、治療を行いました」
彼岸は正面から答えた。
龍はしばし彼を見つめ――
次の瞬間、彼岸の頬をぺろりと舐めた。
「ひゃ――っ!?!?
ちょ、ちょっと……!? いきなり何を……!?」
「礼を言う龍ノ国式の“感謝の印”である」
「そんな文化知りませんよ!!」
大きな舌で頬を舐められ、彼岸は恥ずかしさに顔を真っ赤にして飛び退いた。
その様子を見て、龍は満足げに息を吐いた。
「……そなた、名は?」
「よ、夜見野彼岸……です」
「ひがん……。
覚えたぞ」
赤龍はもう一度深く息をつき、湖面に映る自分の姿を見つめた。
「そなた……我が名を知るがよい」
彼岸はゆっくりと姿勢を正す。
赤龍は堂々と宣言した。
「――我が名はヨハネ。
龍ノ国・王である」
やはり――
彼岸の推測は正しかった。
かつて龍ノ国を治め、絶大な信頼を得ていた“黙示録の龍-ヨハネ”。
失踪したとされていたその王が、今ここに蘇っているのだ。
「あなたが……龍ノ国の王……」
「うむ。
そして――」
ヨハネの瞳が、湖面に映る王冠へ向いた。
「弟よ……
なぜ……我を討とうとしたのだ……」
静かに呟かれたその声は、先ほどトカゲの姿で漏らしたものと同じ。
けれど今は、王としての威厳と、深い悲しみを帯びていた。
彼岸は一歩、ヨハネへ近づく。
「……事情を、聞かせていただけますか?」
王はしばらく沈黙した。
そして、語り始めた。
「弟ジャバウォックは……
我の王位を受け継ぐべき存在であった。
しかし心が脆く、器が小さかった。
その弱さに、魔術大臣ヒュドラがつけこんだのだ」
ヨハネの声が低く沈む。
「ヒュドラの提案――
“王を呪い、魂を弱め、死んだことにすれば、王位は弟のものとなる”」
「なんてことを……」
「弟は……迷いながらも……従った。
我は……ただ悲しかった……」
ヨハネの巨大な身体がかすかに震える。
昨夜、瀕死の状態で漏れた言葉――
「弟よ……どうして……」
は、決して誤りではなかった。
そのとき――
湖畔の空気が急に冷えた。
「……?」
彼岸が耳を動かした瞬間。
「ヨハネ様ァ……
ずいぶん早くお目覚めになりましたねぇ……」
不気味な声が森の奥から響く。
鉄を叩くような羽ばたき音。
次の瞬間――
湖畔の木々を薙ぎ払う勢いで、一体の巨大なワイバーンが降り立った。
黒い鱗。
金属質の角。
兵士のような整った装備。
そして何より、その口元には侮蔑の笑み。
「おやおや……王冠はあれど、今はただの蜥蜴上がり。
そんな“欠陥王”を庇うとは……狐の陰陽師、命知らずですね?」
彼岸はそっと立ち上がり、狩衣を整える。
「初対面で失礼とは思いますが……
その言い方、非常に癇に障るんですが」
「ははっ。矮小な狐よ、黙れ。
お前ごときが龍の王族に触れていい存在だと思うな」
ヨハネの瞳が、ぎらりと光った。
「彼岸に無礼を働くな、ワイバーン」
「ほぅ? “王様”が庇うと?」
「そなたは……弟に従い、我に牙を剥いた裏切り者。
今ここで――」
ヨハネが身体を起こそうとする。
しかしまだ本調子ではない。
足がふらつき、彼岸が慌てて支える。
「ヨ、ヨハネさん!? 今は動かないでください!!」
「……む。あるじ殿に触れられるのは嫌ではないが……
しかし、あの裏切り者を……!」
彼岸の顔が赤くなる。
「だ、誰が“あるじ”ですか!!
あと動かないでください!!!」
「む……では任せる。
あるじ殿の得意とするところであろう?」
「『あるじ殿』固定なんですね……!?」
ワイバーンが鼻で笑う。
「ふん。
では、まずはその小さなお世話係から潰すとしましょうか――狐」
敵意が剥き出しになる。
彼岸は静かに、狩衣の袖を握った。
「……分かりました。
では、あなたには“龍族として許されない一言”を返して差し上げましょう」
「ほう?」
彼岸は微笑み――静かに告げた。
「――トカゲ風情が、偉そうにしないでください」
一瞬。
湖畔の空気そのものが凍りついた。
ワイバーンの目が、完全に血走る。
「てめぇぇ……!!
龍族最大級の侮辱を……!!」
「だって、あなた……
“元は大きなトカゲ”ですよね?」
次の瞬間、ワイバーンは大地を割る勢いで飛びかかってきた。
戦いが――始まる。




