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第1話 「湖畔に落ちた赤き王」

 ――天来学園最終決戦から、1ヶ月。

 龍ノ国の国境近く。

 人の気配が薄い森を抜けた先に、その湖はあった。


 鏡のように静かな水面。

 周囲を囲む針葉樹は高くそびえ、薄曇りの空を細切れにしている。


「……ここなら、しばらく身を隠せそうですね」


 白い狩衣を揺らしながら、狐獣人の青年――夜見野彼岸(よみのひがん)は、湖畔に足を踏み入れた。


 世界防衛連合から“世界級災害指定”と認定され、国際指名手配までかかった天海の陰陽師は、いまやどこの国境を跨ぐにも厄介な身の上である。


(……でも、行かないと。

 龍ノ国には、“魂の器”に関する古文書がある。

 それが、迅雷を取り戻す手掛かりになるなら――)


 彼岸は胸元に手を当て、小さく息を吐いた。


「とりあえず今日はここで結界を張りましょう。

 龍ノ国に正面から入れば、間違いなく捕まりますし……」


 世界中を敵に回してでも、ただ一人を救う。

 その決意だけを支えに、彼は歩き続けていた。


 と――。


「……あれ?」


 湖畔の岩場。

 彼岸の耳がぴくりと動く。


 冷たい水しぶきの音に紛れて、微かに何かが這うような気配がした。


 彼はそっと身をかがめ、指先で土を払う。


 そこにいたのは――赤い、小さなトカゲだった。


 掌に乗るほどのサイズの蜥蜴。

 腹を上にして転がり、かすかに胸が上下している。


 そして、その小さな頭には。


「……王冠、ですか?」


 金属製の小さな輪。

 粗い造りではあるが、明らかに“ただの飾り”ではない品位を放っていた。


 赤い鱗はところどころ黒く焦げ、身体には切り傷や打撲の痕がいくつも走っている。

 このまま放置すれば、数分と持たないだろう。


 彼岸は思わず表情を曇らせた。


「……ボロボロですね」


 触れようとした瞬間――

 小さなトカゲの指が、ぴくりと動いた。


「……ぅ、あ……」


 かすれた声が漏れる。


「――?」


「……なぜ……

 弟よ……どうして……」


 その一言に、彼岸は息を呑んだ。


(弟……?

 この子、ただの魔獣ではない?)


 視線を王冠へ落とす。

 粗削りだが、古い王家の紋章に似た意匠が刻まれている。


 彼岸の脳裏に、フェイクの言葉がよぎった。


 ――龍ノ国では前王ヨハネ暗殺で国自体が警戒態勢を・・・・。


(まさか……)


 そこまで考えて、彼は首を振った。


「考えるのは後です。まずは、この子の命を繋がないと」


 彼岸は狩衣の袖を捲り、指先で素早く印を結んだ。


「式神召喚――【(ねずみ)】」


 足元の影から、ぴょこんと小さな鼠が顔を出す。

 半透明な、紙のような質感の式神だ。


「ちゅっす。おひさでーす、ご主人」


「はいはい、元気そうで何よりです。

 君にはこれから――龍ノ国側の国境監視と、非合法な抜け道の調査をお願いしたいんですが」


「おっと、またロクでもないこと考えてますねぇこの指名手配犯は」


「うるさいですよ?」


 冷静にツッコミを入れつつ、彼岸は小さなトカゲをそっと両手で掬い上げる。


 その瞬間、ひやりとした冷たさが掌に伝わった。


(体温が低い……。

 これは呪いと毒の混合ですね)


 彼岸はトカゲを胸元に抱え、湖畔に小さな陣を描き始める。


「――【簡易結界・天海式】展開」


 淡い光の円が地面に浮かぶ。

 周囲の空気がわずかに澄み、外からの視線と気配が遮断される。


「子。君はすぐに動けますか?」


「おっけーっす。国境沿いの見張り、主要街道沿いの封鎖状況、それから人買いと密輸ルートですね?」


「話が早くて助かります。

 危険になったらすぐ戻ってきてくださいね。紙なので燃えやすいでしょう?」


「いやそれ言われるとなんか複雑っすけど!? 行ってきまーす!」


 鼠の式神は軽口を叩きながら森の闇へ溶けていく。


 彼岸は小さなトカゲをそっと寝かせ、掌をかざした。


「さて……診させてもらいますね」


 指先から淡い蒼光が溢れる。

 霊力で生体の流れをなぞる、陰陽師式の簡易診断。


「……やっぱり。

 これは呪詛ですね。肉体を小さく変質させ、力を封じ込めるタイプ……“矮体化呪法”」


 しかも、ただ身体を縮めただけではない。

 内側から魂そのものを痩せさせ、抵抗力を奪う“魂喰い”系統の応用術式だ。


「えげつないことをしますね……。

 これをここまで喰らって、まだ生きているなんて」


 彼岸は苦く笑い、印を組み替える。


「――【海】の術式、使用。

 穢れと毒を洗い流す、“水禊(すいけい)”……」


 無色透明の水が、彼岸の手元から溢れ出した。

 それは現実の水ではなく、霊的な“海の因子”を帯びた清浄の液体だ。


 小さなトカゲの身体を包むように流し、その隙間から黒い靄が抜け出していく。


「……っ」


 トカゲの身体がびくりと震えた。


 彼岸は術式を弱め、呼びかける。


「大丈夫ですよ。

 もう誰も、あなたを傷つけませんから」


 彼の声は、驚くほど優しかった。


(僕は――守り切れなかった。

 迅雷を。

 今度こそ、目の前の命くらいは守らないと……)


 その想いは、自責と後悔から来るものかもしれない。

 だがそれでも、彼岸は丁寧に、慎重に、目の前の小さな命へ手を伸ばす。


「“天”と“海”、二重の術式で固定……。

 これなら、三日は保ちますね」


 水禊を終えたトカゲの呼吸は、先ほどよりもわずかに穏やかになっていた。


 彼岸はほっと息をつき、そっとその頭に触れる。


「あなたが誰であれ……助けた以上は、最後まで面倒を見ます。

 それが、“天海の陰陽師”としての責任ですから」


 その指先が王冠に触れた時、微かな霊的反応が走った。


「……これは……?」


 王冠全体に、強い“王権”の加護が編み込まれている。

 ただの飾りではない。

 この国で“王”として認められた者にのみ与えられる、霊的な証だ。


 彼岸は眉を寄せる。


「王冠。矮体化呪法。魂を痩せさせる毒。

 そして、“弟よ”という言葉……」


 静かな湖面を見つめ、彼は小さく呟いた。


「もし本当に――あなたが、龍ノ国の“王”なら」


 彼は自分の背後にある、巨大な世界を思い出す。


 世界防衛連合。

 各国の軍。

 そして、龍ノ国という一つの国家。


「また、面倒なところに手を突っ込んでしまいましたね……」


 自嘲めいた溜息とともに、彼岸は結界の外を一瞥した。

 森の向こうから、まだ誰の気配も感じない。


 いまはまだ、嵐の前の静けさだ。


「とりあえず、あなたが目を覚ますまでに――」


 彼はそっとトカゲを抱き上げ、自分の膝の上に乗せた。


「なにか口に入れておきましょうか。

 回復には栄養が必要ですし……そうですね、消化に優しいおにぎりでも」


 懐から取り出した包みを開き、小ぶりな塩むすびを一口サイズにちぎっていく。


「……さすがに、トカゲさんにこれはどうなんでしょう……?」


 少しだけ迷いながら、彼は笑った。


「まあ、食べられなければ僕が責任をもっていただきます」


 そう言って、そっと口元へおにぎりを近づける。


 かすかに、赤い舌が動いた。


「おや。食べられますか?」


 ちょん、と小さな欠片を舐め取り、ゆっくりと飲み込む。


 その光景が、なぜか少しだけ可笑しくて――

 彼岸は思わず口元を緩めた。


「……ふふ。

 お強い方ですね、あなたは」


 湖面に映る自分の顔は、思ったよりも穏やかだった。


 この時、彼岸はまだ知らない。


 自分の膝の上で塩むすびをもぐもぐしているこの小さなトカゲこそ――

 龍ノ国が失った“前王”その龍であることを。


 そして、この出会いが

 龍ノ国全土を巻き込む大きな戦いの始まりになることを。

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