春の光、まだ届かず
翌朝。
景は学園へ向かっていた。
本当なら、今日は休むはずだった。
母親は何度も「無理しないで」と止めたが、景は頑として聞かなかった。
どうしても――登夢に会いたかった。
体の疲れは残っていた。
だから朝練は休んだ。
それでも、少し遅い時間に校門をくぐると、胸の奥がざわめいた。
まっすぐに向かったのは、教室ではない。
駐輪場。
恐る恐る辺りを見回す。
赤い車体が一台、朝日を反射して光っていた。
――いた。
恭子のものでもない。
登夢の、赤いドゥカティ。
景の心臓が、どくんと鳴った。
彼は登校している。
それだけで、胸が熱くなる。
急いで教室へ向かう。
扉を開けると、いつもの席に――いた。
だが、いつもとは違う。
頭には包帯、頬にはガーゼと絆創膏。
“かすり傷”なんて言葉では到底すまない。
「……おはよう、草薙君。」
声が自然に出た。
昨日までのように、引きつることもなかった。
「……もういいのか。」
短く、淡々とした声。
でもその裏に、心配が滲んでいることを景は感じ取った。
「ええ。……それより草薙君の方こそ、大丈夫なの?」
「かすり傷だ。問題ない。」
背中の傷――あの血の色が、景の脳裏に浮かぶ。
“かすり傷”なんて、嘘だ。
でも、それ以上何も言えなかった。
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが鳴り、景は自分の席に座った。
授業中も、休み時間も、気づけば目が登夢を追っていた。
ペンを握る手の包帯。
その白が、痛々しくて、胸が締めつけられる。
――どうして、こんなに気になるんだろう。
ふと、その様子を後ろの席から見つめている少女がいた。
恭子だった。
景の視線の先にあるものを、彼女はもう知っていた。
登夢の包帯に向けられる、あの静かで真っ直ぐな眼差し。
それを見ているだけで、胸の奥がざらつく。
――あんなふうに、人を見つめたことなんてあっただろうか。
――私も、あんなふうに誰かを……。
気づけば、指先が震えていた。
ノートに書きかけの文字がにじみ、ページの端がわずかに歪む。
“これは友情。そう、きっと友情なんだ。”
そう心の中で言い聞かせるようにして、恭子はペンを握り直した。
それでも、黒板の文字よりも、
登夢の包帯の白の方がまぶしくて――目を離せなかった。
登夢の怪我は、もう学校中の噂になっていた。
「警察沙汰になったらしい」
「誰かをかばったって本当?」
そんな囁きが廊下を飛び交う。
景が関係していることを知るのは、ごく一部だけ。
ほとんどの生徒は“噂”として片付けていた。
でも、景にはつらかった。
“本当のこと”を誰も知らない。
登夢が自分を助けようとして傷ついたことも。
――私が、原因なんだ。
私のせいで、あの人は怪我をした。
なのに、何も言わない。
もしかして……もう、私のことなんて。
胸がぎゅっと痛む。
俯いたまま、景はノートの上に影を落とした。
登夢も、景に声をかけなかった。
視線が合いそうになると、そっとノートへ目を落とす。
その仕草が、距離を示しているようで、痛かった。
“また、巻き込むかもしれない。”
登夢の胸の奥にも、そんな思いが渦巻いていた。
彼は、景を守るために――距離を取ることを選んだ。
午前の授業が終わり、昼休み。
空は高く、春の陽射しが中庭を包んでいた。
友人たちと芝生に座り、弁当を広げる。
やわらかな風が髪を揺らし、どこかのクラスの笑い声が聞こえる。
それなのに。
景の胸の中は、曇ったままだった。
登夢のことばかり考えて、味がまるでわからない。
そんな景の横で、恭子は黙って様子を見ていた。
登夢が景を助けるために無茶をした――その話は聞いていた。
いつもなら、友達としてフォローしただろう。
けれど、今日は違った。
胸の奥で、もやもやした感情が膨らんでいく。
それは“嫉妬”だった。
――景を図書委員にしなければよかった。
――自分が委員長じゃなければよかった。
――あの席に座っていたのが、私なら。
気づけば、口が勝手に動いていた。
「ねえ、草薙君とは……どこまでいってるの?」
軽い冗談のつもりだった。
けれど、その言葉はまるで刃のように景の胸に刺さった。
その瞬間、景の脳裏に――登夢の笑顔が浮かんだ。
あの夜、倉庫の前で見た、静かな微笑み。
頬が熱くなり、息が詰まる。
顔を真っ赤にして黙り込む景を見て、恭子の心はざらついた。
「どうしたの、景? 顔、真っ赤だよ。」
しかし景は答えなかった。
心の中で、登夢のことばかり思い返していた。
――廊下で抱き上げられた瞬間。
一緒に歩いた時間。
あの笑顔。
そして、傷ついた背中。
“私のせいで……怪我をした。”
胸が痛い。苦しい。
涙がこみ上げてくる。
“もし私がいなければ、草薙君は傷つかなかったのに。
きっと、もう何とも思ってない。
嫌われちゃったんだ、私。”
唇を噛みしめた瞬間、涙がこぼれた。
頬を伝い、弁当の上に一粒、落ちた。
恭子は、しまったと思った。
言葉が軽率だったと、今になって気づく。
「ご、ごめん! 私、お姉ちゃんから聞いて……ちょっとからかおうと思っただけで……!
本当にごめん、泣かないで……!」
けれど景には、その声が届かなかった。
「……私、わからないの。」
自分でも、なぜ涙が出るのかわからない。
悲しいのか、苦しいのか、それとも――。
春の風が吹き抜ける中庭で、
景の涙は止まらなかった。




