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【秋の文芸展2025】敵として再会したその瞬間、世界が止まった。~戦地で敵味方に分かれた幼馴染

作者: 妙原奇天
掲載日:2025/10/07

 村には一本の並木道があった。畑と畑の境に植えられた細い木々は、春には白い花を降らせ、夏は影を濃くし、秋は葉脈を鳴らし、冬には鳥の声を遠くまで通した。

 少年は二人。家は隣り合い、屋根の高さも似ていた。井戸の桶の節目まで似ていた。二人は石を蹴り、蹴った石はいつも道端の草に消えた。


「俺たち、どこまで行けるかな」

「村の外までなら、すぐ」

「その先は?」

「まだ名前がない」


 “いつか”という言葉が、二人の背丈をやさしく伸ばしていた。


 ある年の夏、役場の戸口に硬い紙が釘打ちされた。印章は鮮やかで、赤い丸の下に空欄があった。徴兵の名簿だという。遠い都で決まったことが、薄い紙となって村に降りてくる。

 二人は、それぞれの名を空欄に記した。鉛筆の芯が紙の繊維に引っかかる感触は、どちらの指にも同じだったのに、配られた制服の色は違っていた。片方は灰色、片方は土の色。

 並木道の真ん中で、二人は視線を交わした。言葉は出なかった。言えば、何かがほどけてしまう気がした。



 訓練は単調だが、単調さの中に別々の重さがあった。灰色の部隊では歩調の単位が厳密に決められ、金具の向きにも決まりがあった。土の色の部隊では補給の道筋が地図に赤鉛筆で引かれ、誰がどの時間にラバを引くか札で示された。

 掛け声の抑揚と敬礼の角度は微妙に異なったが、汗の塩の味、油で黒くなる指先、靴擦れの位置は似ていた。


 灰色の彼は、風を見る癖を持っていた。畑の煙で天気を読む子供の頃の癖だ。砂塵がこちらに来るか、あちらへ逃げるか。風の硬さを、頬と耳で測る。

 土の彼は、分解と組み立てが得意だった。祖父から受け継いだぜんまい仕掛けの懐中時計を何度も開け、歯車の噛み合いを音で覚えた。銃をばらしては磨き、ばねの張りを均し、また組む。動きが滑らかになれば、その日は良い日、と決めていた。


 野営地では、夜になると暗号表が灯下でめくられ、野戦郵便の袋が仕分けされた。袋の口には革紐が通り、封緘印は木製の印顆と燻した蝋で押された。配達は一日一便が規定だが、天候で滞る。

 灰色の彼のもとに届いたのは、母の手による短い手紙。「今年は川魚がよく獲れます」。

 土の彼のもとに届いたのは、隣家の叔父が代筆した知らせ。「井戸の底板を打ち直した。冬が心配だ」。

 どちらの手紙にも、幼馴染の名は出てこない。名を出せば、戦地で誰かがそれを声に出す日が来る。それを避ける心づかいが、村にはまだ残っていた。



 霧の朝が来た。

 霧は、距離の感覚を盗む。近いものを遠くへ、遠いものを耳の中へ。笛の一声が、世界の輪郭を塗り替える。

 前進の短音。後退の長音。

 灰色の彼は、霧の縁を慎重にたどった。

 土の彼は、湿り気で重くなる靴の中で足指を動かし、退き際の足運びを整えた。


 低木。葉先から落ちる水滴。

 偶然の計算は、二人を同じ枝の両側に導いた。

 銃口の高さはそろい、呼吸の拍は似た。

 葉の隙間から、目が見えた。

 幼い頃、同じ並木道を歩いた目と同じ色。

 名前は呼ばない。名前は霧よりも速く伝わる。


 指先の皮膚が、引き金の凹みに沿ってわずかに動く。

 その瞬間、遠方から別の笛。

 伏せる。霧が巻き込み、音が千切れ、視界は曖昧にほどけた。

 互いを見失って、互いの中に何かを見つけた。見つかったものに、まだ名はない。



 未投函の手紙:灰色の彼 → 自分宛て(霧の翌夜)


 > 今夜、おまえは生きている。理由は運だと教えられた。

 > だが運という言葉は、責任の空所を覆う蓋に似ている。


引き金の軽さは、金属の重さだけではない。

もしあの葉の向こうの顔が知らない顔だったら、もっと軽かっただろうか。

明日も合図は鳴る。命令は形を変える。

変わらない正しさは見つからない。だから代わりに、明日の風向きを書く。

北東。乾きぎみ。砂が目に入る。



 戦役は、丘をめぐる攻守に移った。

 灰色の陣営は、丘の陰に散兵線を伸ばし、迫撃の落下点を白札で記した。前線伝令は区画ごとに番号札(木片に煤書き)を持ち、外れた弾着は札ごと土に差す。

 土の陣営は、湿地の縁に梁を入れ、板で仮橋を渡した。輜重の列はラバ十頭を一組とし、乾パン・缶詰・包帯・消毒液を木箱で運ぶ。木箱は針金封。検めは印章の割れ目で判別。

 砲声は、胸郭の内側に響く。身体のどこか奥の骨が、本来の機能とは違う仕事をさせられている感覚。

 灰色の彼は、照準の中で人を“動き”として見た。動くものと動かないもの。ときどき、誤差。

 土の彼は、斜面の角度と足の蹴り出しを合わせた。幼い頃、並木道の石をどれくらいの力で蹴ればどの距離へ飛ぶか、体が覚えていた。


 午後に雨。

 雨は、公平だった。公平なものは敵意を小さくするが、命令は元に戻す。

 夜、野戦病院の白い幕が膨らみ、ランプの光が影を大きくした。消毒壺で器具が煮られ、包帯は漂白して再利用、瓶の口は綿栓と晒で結ぶ。血型は札の穴の位置で区別するが、穴の位置を間違える兵もいた。

 「血液型は?」

 「わからない」

 わからないことが多すぎるのに、朝は必ず来る。



 丘の戦いの前後、灰色の彼の部隊に捕虜が来た。若い兵。背は高くない。眼だけ落ち着いている。

「伝令か」

「はい」

「なにを運んだ」

「丘の向こうは湿地。車輪は沈む」

「忠告のつもりか」

「説明です」

「違いは?」

「言われた側の利益の有無」

 淡々とした答えに、灰色の彼の口の中に鉄の味が広がった。

 彼は小さな紙片に一本の線を引いた。湿地の縁の長さを、ただ真似た。

 線は地図でなく、誰にも渡さなかった。ただ己の胸ポケットに押し込み、指で何度も確かめた。紙の繊維がやわらかくなっていく。


 別の日、土の彼は斥候に出て倒木のそばで紙片を見つけた。

 そこにも短い線。

 拾い、折り、胸の内側へ。

 線は語らないが、触れれば冬の川のように冷たかった。

 「地形の説明だ」と彼は思った。自分の足で確かめた湿地の重さを、誰かが別の言語でなぞっただけのこと。

 それでも、胸の鼓動が一拍だけ余計に強くなった。



 未投函の手紙:土の彼 → 父宛て(仮橋の夜)


 > 父さん、板は沈みます。梁を太くすれば浮きますが、人は軽くなりません。


斜面を下るとき、かかとで土を掴む癖がつきました。

霧の朝、葉の隙間に目があって、呼べば全部が戻らないと分かったので、呼びませんでした。

こちらと向こうを分けるものが線なら、板を一本渡す仕事は、どちら側の仕事でしょう。

返事は要りません。返事はいつも遅れるので。



 休戦の噂が金曜日に広がり、翌朝には命令になった。

 油差し、弾薬の点検、余剰装備の引き渡し。未開封の箱は封印割目を確認して返納、欠品は受領書の余白に理由記載(天候・泥濘・紛失)。理由は短いほど通る。

 灰色の彼は、胸の紙片を火にくべた。細い線は一瞬だけ炎の中で明るくなり、黒い灰に崩れた。

 土の彼は、紙片を四つに折って父の古い財布にしまった。札の間に挟まれた線は、やがて家に戻る予定のものになった。


 列車。網棚。駅ごとの匂い。

 灰色の彼は窓外の空を、土の彼は荷物の重さを見た。

 故郷の駅は小さく、並木道の端が見えた。枝はホームに届きそうで届かない。

 二人は別の便で、別の時間に降りた。

靴底が板を踏む音は似ていた。似ている音は、聞き分けられない。



 村は、当たり前の顔で迎えた。

 「よく帰った」「まあ座れ」

 複雑な話は、囲炉裏の夜に回され、夜は農具の修理の段取りに奪われ、やがて田の水具合の話に薄まった。

 灰色の彼の母は、器の縁に米粒を寄せながら言った。

 「向こうの色の人と、会ったかい」

 「霧の中で、誰かを見た」

 「誰でも、誰でもない」

 答えはそこまでで留めた。留めないと、眠りの網目から何かが抜けてしまう。


 土の彼の父は、井戸の底板に手を当てつつ言った。

「川筋が変わった。春の水が浅い」

「戦で、土の重さが変わるのかもしれない」

「人が動けば、地面も動く」

父の手は、節が太く、冬の木の根のようだった。

彼は、自分の胸の財布の中の紙片の角が、歩くたび小さくあばれるのを感じていた。



 初夜の夢:灰色の彼


 夢の中で、笛は鳴らない。代わりに、並木の影が合図になる。影が短くなると前進し、長くなると伏せる。伏せるたび、土が胸に入り、胸の中から鳥が飛び立つ。

 引き金は欠けていて、指はそこにぴたりとはまらない。はまらないまま、銃はやさしい音で笑う。

 目が覚めると、窓の外で風向きが変わっている。北東。乾きぎみ。砂が目に入る。


 初夜の夢:土の彼


 夢の中で、仮橋の板が水面に沈んで文字になる。短い線。長い線。交わらない。

 板の間から出てくるのは、川魚でも敵でもなく、白い紙片だ。紙片は自分の胸に飛び込み、もう一枚は霧の中に向かっていく。

 目が覚めると、財布が少し軽い気がして、数える。数は変わらない。変わらないのは、よいことのはずだ。



 記念式典。演台。村長の語り。言葉は村の美徳と犠牲に触れ、途中で喉が渇いた。

 写真屋は呼ばれ、「はい、もう少し右へ」と言い、灰色の彼は三列目、土の彼は五列目で別々の群れに混じった。

 シャッターの音は同じで、台紙の裏に記された名も正しかった。

 ただ、焼き加減の違いで、どちらの写真の端にも並木道の木が一本、かすかに写っていた。

 その一本は、偶然だ。偶然だが、のちの誰かが意味を置くには十分な形をしていた。



 時間は村の速度で進み、灰色の彼は鍬を握り、土の彼は桶を直し、冬が来て、雪の重みで枝が折れ、春に芽が吹いた。

 ある晩、役場脇の古い倉が燃えた。誰の責任でもない、とされ、古い祭りの飾りと戦時の写真の一部が黒くなった。

 灰色の彼も土の彼も水を運び、こぼした水は土に飲み込まれ、翌日には匂いだけが残った。

 焼け残った写真は数え直され、数えるたび数が違い、数はいつか諦められた。


 やがて、倉の跡地に小さな資料室が建つ。

 棚に写真。台帳に目録。寄贈の印、受付の署名。台帳は横罫。項目は「受入番号/種別/撮影(作成)年/記述/寄贈者/備考」。記述は三行以内の規定。

 灰色の彼はある日、その棚の前に立ち、土の彼も別の日に同じ棚の前に立った。

 どちらも、自分の顔が少し右を向いた写真を見た。

 台紙の裏の名前は正しく、しかし“誰のものでもない顔”として、保存されていた。


 資料室の箱には、古い財布があった。

 財布の中、四つ折りの紙片。

 短い線。

 説明の札は付いていない。

 説明がなければ、見る者の数だけ物語が増える。

 灰色の彼は窓から並木道を見、土の彼も別の日に同じ窓から同じ並木道を見た。枝はやはり、届きそうで届かない。



 資料室・台帳抜粋(転記)


 > 受入番号:M-17-042


種別:写真(銀塩/台紙付)

年:不詳(戦役期)

記述:式典集合写真。三列目右端に帽庇の歪み。画角右端に並木一本。

寄贈者:役場旧保管分

備考:裏に氏名判。焼損跡なし。


 > 受入番号:D-21-009


種別:文書(紙片/四折)

年:不詳

記述:鉛筆で短線一本。地形図断片に類似。

寄贈者:□□家旧蔵(財布内)

備考:説明書き欠。閲覧は監督下。



 村に若い教師が赴任した。

 教師は、授業で資料室に生徒を連れて行った。

 並木道の写真の前で、教師は言った。

 「この道は、昔から村を二つに分けるものだと言われてきました。でも実際には、畑と畑のあいだにあるだけです」

 生徒は頷いた。頷く回数は、個人差があった。

 教師は続けた。

 「戦争のとき、この村の人たちは、違う色の服を着て、違う方向へ歩きました。けれど、同じ土を踏んでいました」

 生徒はまた頷いた。

 教師は、棚の小さな箱を開けた。

 四つ折りの紙片を出して、見せた。

 「これは、どちらの側のものでもありません。線は線です。どこへも連れて行ってくれません。でも、誰かを思い出させることはできます」


 生徒の一人が、手を挙げた。

 「誰を思い出すんですか」

 教師は答えなかった。答えないことは、悪くなかった。

 教師は、紙片をまた四つに折って、箱に戻した。折り目は少し増えた。増えた折り目は、紙を弱くした。弱い紙は、いつか崩れた。



 村の外から、記者が来た。

 記者は、並木道の写真を撮り、資料室の紙片をメモし、役場で質問をした。

 質問は、似た形で繰り返された。

 「この村では、敵と味方が、戦後に仲直りをしたのですか」

 役場の答えは、年によって少し違った。

 「はい」

「おおむね」

「必要があれば」

 答えは、どれも短かった。短い答えは、記事にしやすかった。記事は、町の新聞に載った。

 新聞は、数日で古い紙になった。古い紙は、魚を包むのに使われた。魚の匂いは、記事よりも長く残った。



 ある年の秋、資料室の所長が代わった。

 新しい所長は、棚を数え直した。

 数え直した結果、いくつかの写真が別の場所に移された。移された先は、別の棚だった。棚の番号は、一つ増えた。

 所長は、四つ折りの紙片も、別の箱に移した。

 新しい箱は、鍵がかかった。鍵は、役場の机の中に入れられた。

 鍵の在処は、紙に書かれた。紙には、赤い丸が押され、誰かの名前が記された。

 名前を書いた者は、鍵の所在を時々忘れた。忘れることは、悪くなかった。鍵は、その間、机の中で落ち着いていた。



 灰色の彼は、やがて老いた。

 土の彼も、やがて老いた。

 二人は、並木道を歩く速度を落とした。

 落とした速度に、歩幅を合わせた。

 ある日の夕方、二人は、同じ時刻に、同じ道を歩いた。

 互いの背中を、遠くに見た。

 名前を呼ばなかった。

 呼ばなくても、背中は似ていた。

 似ている背中は、並木の影に重なって、やがて別の影と混ざった。



 冬の初めに、小さな葬列が村を通った。

 葬列は、並木道をゆっくり進んだ。

 列の端に、若い教師が立っていた。教師は、資料室の鍵を上着のポケットに入れていた。

 葬列のあと、教師は資料室へ行き、四つ折りの紙片を取り出した。

 紙片は、折り目で裂けかけていた。

 教師は、薄い紙を、光に透かした。

 線は、弱々しく、しかし確かに見えた。

 教師は、その線を、白い紙の上に写した。

 写した線は、元より少し長くなった。

 長くなった線は、新しい説明を呼んだ。

 教師は、説明を書かなかった。

 説明がないものは、自由だった。



 春が来て、並木道に花が落ちた。

 村の子どもたちは、石を蹴って歩いた。

 蹴った石は、道の端の草むらに消えた。

 子どもたちは、いつか村の外へ出るだろう。

 いつか、は便利な言葉だった。いつでも、に聞こえるし、いつまでも、にも聞こえた。

 子どもたちは、それで十分だった。


 資料室の棚には、二枚の写真が並んでいた。

 一枚では、灰色の制服の男が、少し右を向いていた。

 もう一枚では、土の色の制服の男が、少し右を向いていた。

 どちらの写真の端にも、並木道の木が一本、かすかに写っていた。

 写真の裏の名前は、はっきりしていた。

 読めば、誰の名でもなかった。

 誰の名でもない名は、読む者の中にそれぞれ現れた。


 棚の下の小さな箱には、四つ折りの紙片が入っていた。

 紙片には、短い線が引かれていた。

 線は、丘と湿地の境に似ていた。

 似ているだけだった。

 似ているだけのものは、どこへも連れて行ってくれない。

 けれど、誰かを思い出させることができた。

 思い出す相手の顔は、そのたびに少し違った。

 違いは、悪くなかった。


(了)

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― 新着の感想 ―
すべてを理解しきれていないかも知れませんが、淡々と綴られつつも美しい文章表現に惹かれました。 同じ場所で生まれ、育ち、暮らしていたとしても、一本の線が敵と味方をして道を分かつ。 互いが無事に戻れたこと…
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