追放令嬢ですが、魔物がいる最前線でも案外平和です。
王城の大広間に響き渡った声は、冷酷で、そして、私のすべてを否定するものだった。
「セレスティア、お前との婚約は破棄する。これよりは、妹リリエルが正式な婚約者だ」
ユージン殿下の一言で、私の未来は粉々に砕け散った。
私の隣に立つはずだった妹は、勝ち誇ったように唇を吊り上げる。その顔には、かつて私が信じていた“家族”の温もりなど微塵もなく、ただ冷たい嘲笑が浮かんでいた。
「お姉様は、王都に必要のない人ですもの。辺境の砦でせいぜい魔物の餌になるといいわ」
その言葉に、大広間にいた貴族たちは笑い声をあげた。金糸の刺繍が施された衣装を纏い、銀の食器で優雅に酒を傾ける彼らの笑いは、私の耳を突き刺し、心をえぐる。
父である公爵すらも、私に目を合わせようとはしなかった。
ただ「役立たず」という烙印を押され、見捨てられたのだ。
――私は、すべてを失った。
王都の煌びやかな夜会も、父に褒められた記憶も、婚約者と未来を語り合った夢も。
すべては、妹と彼らの嘲笑に飲み込まれ、跡形もなく消え去った。
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追放の馬車は、冷たい鉄格子で閉ざされていた。
窓から見えるのは、王都を離れていく石畳の道と、遠ざかる尖塔。
背中に突きつけられた「辺境の砦行き」の烙印は、死刑宣告と同じ意味を持っていた。
誰もが知っている。最前線の砦は、魔物の群れに囲まれた地獄だと。
「せいぜい長く生きろよ、元令嬢様」
御者の兵士が吐き捨てるように言った。
私は答えなかった。声を出せば、惨めな涙が零れ落ちるとわかっていたから。
代わりに、私はそっと胸元を握りしめた。
そこには母の形見である小さなペンダントがある。唯一、私がまだ捨てられていない証。
――もう、妹と比べられる必要はない。
――もう、王都の虚飾に縛られることもない。
絶望の底で、不思議と小さな灯がともった。
「どうせ死ぬなら、せめて私として生きたい」
そんな反骨の想いが、胸の奥から湧き上がってきた。
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やがて、馬車は石畳を外れ、荒野を進み始めた。
風が頬を切り裂くように冷たい。
遠くには黒い森が広がり、空には不吉な鳥の影が舞っている。
「ここから先は、魔物の縄張りだ」
兵士の声が聞こえた瞬間、私の体は小さく震えた。
だが同時に、胸の奥で、奇妙な高揚感が芽生える。
――あの王都に戻ることはない。
――私は、もう“誰かの飾り”ではない。
涙で濡れた視界の中、私は荒野の向こうを見つめた。
それは死地であると同時に、私の「自由」の始まりだった。
「さあ……来るなら来なさい。魔物でも、運命でも」
かすれた声で呟いたその瞬間、私の中で確かに何かが変わった。
私は、追放令嬢ではない。
これからは――“私”として生きていくのだ。
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砦の門は、思ったよりも質素だった。
王都の大理石の門とは比べものにならない。木材と石を積み上げただけの壁。けれど、その隙間から漏れる光は、なぜか温かかった。
「新しい……“令嬢様”か」
低い声が響く。門を開けて迎えに出てきたのは、黒髪に無精髭を生やした大男だった。鎧は傷だらけ、外套はほつれている。だが、その瞳は真っ直ぐで、どこか人を安心させる強さを持っていた。
「レオンハルト将軍だ」
兵士が小声で囁く。私は小さく息を呑んだ。
辺境を守る将軍――粗野で冷酷だと聞かされていた人物。
だが、目の前の彼は、ただ真っ直ぐに私を見ていた。
「……セレスティアです。追放されて、この砦に」
名を告げると、レオンハルトは頷き、短く言った。
「ここでは肩書きも過去も関係ない。生きるか死ぬか、それだけだ」
その言葉は冷たくも聞こえた。だが、嘲笑ではなく、ただの事実を告げているだけだった。
私はその率直さに、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
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砦での生活は、王都とは比べものにならないほど厳しかった。
朝は夜明けと共に始まり、食事は粗末な黒パンと塩漬け肉。寝床は石の冷たい部屋。
けれど、不思議と心は穏やかだった。
子どもたちが私に笑いかけ、兵士たちが気さくに声をかけてくれる。王都で浴びた侮蔑や嘲笑とは正反対の眼差し。ここには虚飾がなく、ただ生き抜く仲間としての温かさがあった。
「お嬢様、洗濯手伝って!」
「姉ちゃん、字を教えて!」
最前線の砦で、私は初めて“役に立つ”ことができた。
王都では“完璧さ”を強いられ、息を詰めて生きてきた。だが、ここでは、小さな行いひとつで誰かに感謝される。それがどれほど嬉しいことか。
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そんなある夜。
「警鐘だ! 魔物が出た!」
兵士の叫び声で、砦が騒然となった。
私は恐怖で体を固めた。黒い森から現れたのは、鋭い牙を持つ狼の群れだった。赤い眼が闇の中に浮かび、低い唸り声が響く。
「全員、持ち場につけ!」
レオンハルトの怒号が砦に響いた。
兵士たちは慌ただしく武器を構える。だが数は圧倒的に敵が多い。砦を囲むように魔物が集まり、こちらを狙っている。
私は震える手で、弓を拾い上げた。
王都で習った礼式的な射法――だが今必要なのは、命をつなぐ一矢だ。
(怖い……でも、ここで逃げたら、また私は“何もできない”令嬢に戻ってしまう)
恐怖に押しつぶされそうになりながら、必死に弦を引いた。
矢は闇を裂き、唸り声を上げる狼の額に突き刺さる。血飛沫が上がり、魔物が倒れた。
「よくやった!」
レオンハルトの声が飛んだ。
その一言が、私の全身を奮い立たせた。
次の矢をつがえる。手は震えていたが、心は揺らいでいなかった。
「私は……ここで、生きる!」
叫びと共に放った矢が、もう一体の魔物を貫いた。
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激戦の末、魔物の群れは退いた。
砦には多くの傷が残ったが、皆が生き延びた。
「よくやったな」
戦いの後、レオンハルトが私の肩に手を置いた。
大きく、荒れたその手は、けれど驚くほど温かかった。
「お前は、ただの追放令嬢じゃない。この砦の仲間だ」
その言葉に、胸が熱くなる。
私は、涙をこらえながら、小さく頷いた。
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王都で与えられなかった“居場所”を、私はここで見つけた。
まだ不安も恐怖もある。けれど、心の奥には確かな温もりが芽生えていた。
それは、魔物の唸り声にも消されない――小さな幸せの始まりだった。
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夜明け前の砦は、凍えるように冷たい空気に包まれていた。
私はかじかむ手を吐息で温めながら、薪をくべる。火がパチパチと音を立て、橙の光が闇を押しのけていく。その光景を見ていると、心の奥に小さな安心が広がった。
「寒くないか」
背後から、低い声。振り返れば、分厚い外套を羽織ったレオンハルトが立っていた。彼の肩には雪が積もり、髭には霜が光っている。
「大丈夫です。ほら……もう少しで暖かくなりますから」
そう言うと、彼は黙って私の隣に腰を下ろした。焚き火を挟んで並ぶと、不思議なことに寒さが和らぐ気がした。
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砦での日々は、決して楽ではなかった。
洗濯をし、子どもたちに読み書きを教え、兵士たちの食事を手伝い……時に魔物の襲撃にも立ち向かった。
けれど、王都にいた頃の息苦しさは、もうどこにもなかった。
豪奢なドレスも、煌びやかな舞踏会も、今の私には必要ない。
粗末なドレスに、煤で黒ずんだ手。それでも私は笑えている。
兵士たちが肩を叩いてくれる。子どもたちが「お姉ちゃん!」と駆け寄ってくる。村の老夫婦が「ありがとう」と手を握ってくれる。
王都で欲しくて欲しくて仕方なかった“承認”が、今は自然と周りから注がれていた。
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ある夜。砦の広場に、人々が集まった。
戦勝祝いでもなければ、収穫祭でもない。
皆が私とレオンハルトを囲み、花を手渡してくれた。
「姫様を、この砦の家族として迎えたい」
「将軍と共に、ここで幸せに」
兵士も村人も、声を揃えてそう言った。
私は胸がいっぱいになり、思わず涙をこぼしてしまった。
(王都では、誰からも拒絶され、追放された私が……ここでは祝福されている)
震える声で、私は答えた。
「ありがとうございます。私は、ここで生きていきます。皆さんと、そして……レオンハルト様と」
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その夜、焚き火を囲んで二人きりになった。
満天の星が夜空に広がり、まるで私たちを祝福しているように輝いている。
「……俺は、言葉が得意じゃない」
レオンハルトが低く呟く。
その瞳は真剣で、炎に照らされてなお揺るがない。
「だが、一つだけ言える。お前を生涯、守り抜く」
無骨で、不器用で、飾り気のない言葉。
けれど、それは王都の甘い愛の囁きより、何倍も重く、何倍も温かかった。
私は涙を拭い、震える声で答えた。
「私も……あなたと共に、生きていきたい。もう、誰かと比べたりしない。ただ、私として」
その瞬間、彼が私を強く抱きしめた。
分厚い胸板に顔を埋めると、革の匂いと焚き火の煙の匂いが混じり合って、胸がいっぱいになる。彼の心臓の鼓動が、ゆっくりと、しかし確かに私の胸に響いてきた。
ドクン、ドクン――その音が、私に“生きていていい”と告げているようだった。
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私は想像した。
この先の季節を――冬は雪かきをして共に過ごし、春は畑に種を蒔き、夏は川辺で涼み、秋は収穫を喜び合う。
戦いもあるだろう。涙する日もあるだろう。
それでも、彼となら乗り越えられる。
王都での栄華や虚飾は、もはや幻。
ここにあるのは、温もりと、仲間と、彼の不器用な優しさ。
(私は幸せだ)
心からそう思えた瞬間、星が流れた。
夜空を横切る光は、私の新しい人生を祝福してくれているようだった。
私はそっと彼の唇に触れた。
乾いた、けれど温かい唇。その瞬間、全ての過去が遠ざかり、未来が確かなものになった。
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「婚約破棄? 追放? 上等です」
私は笑った。
「魔物より優しい人たちに囲まれて、私は案外幸せです」
そして、その言葉を証明するように、レオンハルトと寄り添いながら、焚き火の炎を見つめ続けた。
――辺境の砦の夜は静かで、そして温かかった。