第七節
死が慈悲であるとするならば、殺しは救済の手段として用いられよう。
「聖光の術ってのぁな、聖騎士とか教会の連中が使う基本術の一つに過ぎねぇ。聖なる光で人に仇なす穢れを祓う。馬鹿馬鹿しいねぇ全く」
マリアンヌのロザリオに魔力を流しながら、己の言葉を嘲笑ったダァトは蠢く魔物へ術の照準を向ける。
「相手に痛みを与える術が聖なる光? 痛みを以て穢れを祓う? どうしてこう自分を正しいと思ってる連中は詭弁を吐くかねぇ、正直に言えばいいのによ。アナタを殺したいので術を使いますってさ」
「……」
「マリアンヌ、覚えておけよ? 術を使うにしても、相手に情けを掛けるにしても、結局行動を起こすのは自分自身だ。お前は今から眷属に堕ちて、魔物にテメエから喰われた神父の命を奪う。聖光の術で痛みを与えて殺すんだ。俺でもないお前が、その手でな」
蠢く影の肉塊と化した神父に意思は無い。自分が誰であったのか、何故魔物に喰われてしまったのかも理解出来てはいないだろう。
彼を苦痛から解放できるのは己とダァトだけだった。もし聖光の術を放てず、神父を見逃してしまったら剣士が生き地獄を与える。更なる痛みを与えられ、傷を癒されては切り刻まれ、ありとあらゆる方法でダァトの試みに付き合わされるに違いない。
「ダァトさん」
「ん?」
「祈りは誰の為にあるんでしょう」
「祈りねぇ……知るかよそんなもん」
「私、思うんです」
「話してみな」
「多分……祈りには意味が無いんです」
「へぇ、どうして?」
「祈っても変わらず、願っても叶わないのなら、祈る行為に意味は無い。上手く言えないんですけど……私がどれだけ祈っても神父様は自分の為に動いたでしょう」
多分、恐らく、きっと……。起こってしまった現実を変える必要性は皆無である筈なのに、こうならなかった可能性がマリアンヌの脳裏を過る。
「ダァトさんはさっき俺の為に祈れと言いましたよね?」
「あぁ」
「私はダァトさんの為に祈ることはできませんでした。いえ、それ以外にも神父様が仰っていた神……魔物の影にも祈ったことはありません。私はただ……赦して欲しかった。逃げたかったんだと思います」
「そっか」
「……祈れと言わないんですか?」
「あのなぁ、人から言われた祈りに価値なんてあると思うか? 俺ぁお前さん自分から祈って欲しかったし、その心を少しでも外に向けて貰いたかっただけなんだぜ? どうするかってのぁ……自分で決めな、マリアンヌ」
少女は自分という存在を知らなかった。自我を封じられ、生存に必要な知識だけを仕込まれていたから。
少女は己が聖人の卵であり、銀の血を持つ聖餐杯であることを知らなかった。全てを奪われてしまったが故に。
「……さようなら、神父様」
ロザリオが銀の輝きを帯び、緋色の玉に魔物が映る。別れの言葉を呟き、聖光の術を唱えたマリアンヌは魔物の命である漆黒の玉を破壊した。
「……」
祈りは無い。其処にあるのは白い炎に包まれ、燃え尽きる魔物の灰と埃が舞う朽ちた教会。言い得ない寂しさを感じた少女は、灰の中から銀メッキの欠片を拾い上げシスター服の袖に仕舞う。
「さてと、さっさと聖人の血杯を回収して塵掃除でもするかね。マリアンヌ、お前さんは少し休んでな。後は俺がやる」
「……聖人の血杯って何なんですか?」
「その名の通り聖人の血が満たされた聖遺物。売れば城が買えるし、買おうとしても偽物だけが市場に出回るガラクタだよ。まぁ、俺にとっちゃ至上の宝だけどな」
「どうしてダァトさんは聖人の血杯を?」
「……別に隠すことじゃねぇし、言ってもいいか。死にたいんだよ俺は。どうしても、絶対にな」
「死にたい……? どうして?」
「どうしてって、死にたいってのに理由なんかあるかよ。けどまぁ、聞かれたんなら答えなきゃ礼儀に反するよな」
祭壇に捧げられた血杯を見つめ、黒の刃で陣に刻まれた術式を組み替えたダァトは自嘲する。馬鹿げていると己を笑い飛ばすように、含んだ笑みを浮かべて。
「いいかマリアンヌ、不死ってのぁ呪いなんだよ。最初は良いさ、死ぬ心配が無いから無茶も出来るし、普通の人間なら無理な相手……例えば魔族とか魔物、不死者、眷属だって俺ぁ怖くない」
「無理な相手なんですか? 普通は」
「そりゃぁそうさ! 世間一般の常識じゃぁ軍が相手をするんだぜ? 不死者一匹に数百の人間が動く。それだけ厄介だってことさ、俺みたいな存在はさ」
「……」
「怖くなったかい? 俺が」
「いいえ」
「嘘は良くねぇぞ? 怖いならハッキリ」
「ダァトさんは違うと思っただけです」
剣士の瞳孔が開き、少女の双眼をジッと見つめる。
「ダァトさんは本当に死にたいんですか? 死にたいなら友達の頼みだからって私を助けませんよね? ダァトさん、教えて下さい。さっきは怒っていたのに、どうして今は泣いているんですか? 何故笑ったまま別の表情を浮かべているんですか?」
彼の顔に貼り付けられている表情は嘘に塗れ、心の奥底に堪った激情は凝り固まった汚泥のよう。
「ダァトさんは生きたいんじゃないんですか? 死にたいって言いながら、本当は誰よりも生に関してしがみ付いているように見えるんです。ダァトさん、貴男は」
「お前さん、やっぱりあの女の娘だわ。どうしてこうも似るんかねぇ……お前さんが言ったこと、そっくりそのままお母さんが言ったんだぜ? その綺麗な目を離さずにさ」
「……」
「友達を大事にしたいし、頼み込まれたら断れない。けどさ、死にたいってのぁ本当なんだよマリアンヌ。俺みたいな……いや、不死者とか眷属は存在しちゃいけねぇんだ。だから殺すし、俺が死ぬ為の実験体にする」
少しだけ……嘘の仮面が剥がれ、安心したような笑みを浮かべたダァトは半分だけ満たされた血杯を手に取った。
「俺には三つだけ人を好いちまう条件があるんだ。これを知ってんのは女教皇くらいなもんなんだけど、もう一人増えちまうな」
「好きになる条件?」
「あぁ、愛でも恋でもなく、もっと人間的な部分。信頼と信用の意味」
タプリと揺れる銀の血を見つめ、バイザーを弾き上げたダァトはマリアンヌへ笑顔を向け、
「俺ぁ疑問を隠さない人間が好きだ。自分で考えて、その行動を誰かに押し付けない人間を愛している。前を見て、時々後ろを振り返って、それでも歩く人間に恋をしている。
神とかいう不安定な存在に縋るのもいい、誰かに依存して生きるのも仕方ねぇ、だけどよ……結局はテメエの足で立ってこそ人間って奴なんだと俺は思うんだよ。
だから俺ぁ……お前のような人間が好きなんだ、マリアンヌ」
血杯を一気に飲み干した。
銀色の血が口の端から垂れて真紅となり、剣士の血肉と混ざり合う。空になった聖人の血杯を擦り、錆を剥いだダァトは刻印された古代文字を読む。
「インディル……ねぇ」
「大丈夫なんですか? 神父様はそれを使って」
「ん? この血杯じゃ俺を殺せねぇし、テメエの身体に掛けられた呪いを解けなかっただけだ。ガッカリしたけど……インディルの血杯が此処にあるのは可笑しいな」
「インディルって何なんですか?」
「悔悛の聖女、リシェル・エル=インディル。大昔にいた聖人の一人だよ。しかしまぁ……随分と流されてきたモンだな。元々はもっと別の場所にあったんだけどさ」
「知ってるんですか? えっと、その聖人も」
「本当に大昔の話だ、今じゃ結構御伽噺として語られてんだぜ? まぁいいや、一応血杯は回収してと」
剣を担ぎ、再びバイザーで素顔を覆ったダァトは「マリアンヌ、陣の中にいろよ? 塵を掃除しなくちゃならねぇからよ」教会の窓から這い落ちる劣化眷属へ刃を向け、胴体から頭までを一刀両断しながら壁を突き崩す。
「眷属が死んで、テメエ等も危ねぇから死なば諸共ってか? 今が夜じゃなくて残念だったなぁ……後は死ぬだけだぜ? 劣化眷属ども」
一軒ずつと家の扉を蹴り破り、劣化眷属に堕ちた村人を斬って血に染まる。朽ちかけた民家へ炎の術を放ち、業火と黒煙を背景にして歩くダァトの姿は不死者の名に相応しい。
死なば諸共、生きてこそ……。小さくそう呟いたマリアンヌは双眼に炎を映し、風に揺れる黒煙を見上げた。